思い起こす日

年間第 28 主日 聖書黙想  2010/10/10   トマス・ロシカ師

 

 

今日の聖書朗読は、思い起こすこと、そして神への感謝、癒し、救いについて語ります。旧約聖書の列王記下 5 14 17 で、シリア人のナアマンは、エリシャの癒しに感謝することを忘れませんでした。

イエスに癒された 10 人の重い皮膚病の人たちのうちでは、一人だけが、癒してくれた人を忘れずに戻ってきて感謝しました。

第二朗読のテモテへの手紙二( 8-13 )で、パウロはテモテに(そしてわたしたちに)、死者の中から復活したイエスのことを思い起こしなさいと求めています。わたしたちは、イエスの死と復活を思い起こすことによって、感謝の念に満たされ、癒され、どのような逆境、困難、苦しみにも立ち向かうことができるように強められ、感謝の民となるのです。

 

ナアマンの二倍の罪の清め

まず、旧約聖書の朗読箇所について考えてみましょう。優れた勇者であるナアマンは、預言者エリシャから、重い皮膚病を癒すためにヨルダン川に七度身を浸しなさいと告げられます。ナアマンは、怒ってこう答えました。「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」(列王記下 5:12 ) ナアマンの言ったことは正しいのです。シリアの川の方が確かに良いのです。水量はより豊かで、ダマスコの山から湧き出る水ほど衛生面で優れたものは他にありませんでした。全く話が逆なのです。

 

ナアマンは失望しました。この「神の人」エリシャが、もっと劇的なしるしを行ってくれるものと期待していたからです。

訳注:列王下 5:11 「ナアマンは・・・エリシャが自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」

ナアマンは、この預言者から受けた忠告を疑いさえしました。結局ナアマンは家来の嘆願を入れて、不承不承、預言者の言う通りにします。彼はヨルダン川で身を洗い、癒され、彼の体は、小さい子供の体のようになりました。泥水は、ナアマンの重い皮膚病を洗い清めました。しかし、それ以上に洗い清められたのは、彼の傲慢さでした。

訳注:列王下 5:14 :「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。 5:15 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 5:16 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 5:17 ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。 5:18 ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」

 

ナアマンは「らば二頭に負わせることができるほどの土」を求めることで、わずかばかりのイスラエルの土を父祖の地シリアに持ち帰ることができます。彼はその土で、アラム(シリアの古代名)にイスラエルの神の祭壇を築こうと考えます。ナアマンはイスラエルの神の力を覚ったので、以後、他の神々を崇拝することはないでしょう。これが、彼の学んだ最終的な最も大切な教えです。外国人であるナアマンは、選ばれた民の一員ではありません。神の憐れみはすべての民に及ぶべきだ、という考え方は、イスラエルの民には受け入れ難いものでした。

 

エルサレムへの旅路を辿る

次に、ルカの語る今日の福音 ルカ 17:11-19 を見てみましょう。今日の箇所は、「イエスはエルサレムへ上る途中」( 17:11 )という一節で始まります。これは、イエスが受難に向かって動き始めたことを思い起こさせる言葉であり、明らかに、ルカ福音書のこの部分全体 17:11-18:30 の御言葉や出来事を予感させる一節です。この部分のほとんどの資料はルカ福音書だけに見られるものです。 17:11 で、ルカは、あたかも遠くにエルサレムが見えるような表現を用いて、読者に示します。

この部分は 18:30 まで で終わります。なぜならイエスは 18:31 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。」と語り、この旅路の意味を弟子たちの記憶まかせにはしませんでした。彼は、聖なる都でのご自分の受難について、三度目の、そして最後の予告をすることになります。

 

感謝 を忘れなかった 皮膚病の一人

今日の福音で読まれた、清められ感謝する重い皮膚病のサマリア人の話は、ルカ福音書だけにあるものです。ルカはここで、イエスが非ユダヤ人 17:18 を同時代のユダヤ人の模範として上げた例を示します。 (ルカ 10:33 参照  同じ目的は、善いサマリア人の物語でも果たされています。何よりもそこには、イエスを信じる外国人の信仰宣言があり、その信仰が彼に救いをもたらしたのです。 17:19

 

ルカ福音書の中では、「地理」が特別な役割を果たしていて、文学的、神学的、物理的な意味を持っています。今日の物語の中で、ガリラヤとサマリアの境は、イエスとサマリア人が関わるのに適した場所です。 17:16 )  重い皮膚病の人はその病気以外の人に近づきません。 ルカ 17: 12 レビ 13:45-46 民数 5:2 )  彼らは自分たちの居留地を作り 列王下 7:3 、施しを乞うために賑やかな街角や大通りの傍に座ります。癒された身体を祭司に見せるのは、律法に従うためです。 レビ 14:2-32 .

 

複雑な物語を理解するために

今日の福音は、それにもかかわらず、いくつかの意味深い問いを投げかけます。

・ユダヤ教の定めの外で暮らすサマリア人も、祭司のところに行くという掟に縛られるのでしょうか?

・治癒の確認と、「汚れ」の状態を解いてもらうために、祭司のところに見せに行くよう命じたのに、イエスは、何故戻らなかった 9 人を責めたのでしょうか? 7:17-18

・戻ってきたサマリア人に、イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのは、少しおかしいのではないでしょうか、なぜなら全員が癒されたのですから!

 

今日の福音は、 11 節− 14 節と、 15 節− 19 節の二つの部分にはっきり分けて理解するべきです。

前半の部分は一般的な癒しの物語で、助けを求める叫び、イエスの応答、そしてルカ 5 12-16 に似た従順な行為による癒しといった内容です。後半部分は、外国人の救いの物語です。戻って来て、神を賛美し、イエスに感謝を表すのは外国人です。「あなたの信仰があなたを癒した。」とイエスが言うとき、その祝福は、残りの 9 人を含むすべての人がそれまでに受けてきた祝福とはちがう、別のものを指しています。「癒した( made well )」という意味の動詞は、「救った( t o be saved )」と訳されるがよくあるのです。

訳注:ルカ 5:12‐16 「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」

 

信仰による救い

今日の福音は、二つの不利な点を持つ外国人の話です。彼は信仰によって救われました。この男はサマリア人で、重い皮膚病に苦しむ社会的のけ者であり、異教徒でもありました。イエスの前では、この外国人だけが、イエスの使命に沿った完全な祝福を受けます。この物語でも、ルカの外国人やアウトサイダー、除け者、病人、罪人に対する強い思い入れが、はっきりと表れています。

 

この物語は、使徒言行録のすばらしい物語を先取りしています。すなわち、ますます目が見えなくなっているイスラエル人と対比して、異邦人たちの感受性の鋭さを描いているのです。神の、世界を救う計画からはだれも締め出されることはありません。 10 人の重い皮膚病の患者が癒される物語では、この普遍的なテーマに基づいて、「外国人」だけが戻って来て、受けた癒しを神に感謝したことが示されています。その意味するところは明快です。イエスは、他の時にも同じことをしています。救いの言葉を最初に聴いた人がそれを受け入れなくても、その救いは世界中に広まることでしょう。

これは、わたしたちに対する手厳しい皮肉です。イエスを拒否したのは、イエスご自身の民の指導者たちだったのです。

 

神の寛容さは限りなく、その憐れみは、感謝する人にも、しない人にも、すべてに注がれます。 10 人の重い皮膚病のうちの 9 人は、戻って、神に癒しを感謝することはありませんでした。にもかかわらず、 9 人はいやされたのです。神の憐れみの広さは、恩を忘れた 9 人にも、そしてわたしたちにも及びます。ナアマンの物語と、 10 人の重い皮膚病の人々のたとえ話とは、思い起こすこと、感謝すること、そして癒しと救いについての力強い教訓を与えてくれます。

 

感謝する心のしるし

感謝の心には、義務的に言う「ありがとう」の言葉以上のものがあります。それは、この世界を体験し、物事を感じ取り、感動するための手段なのです。感謝の心でいるとき、目は開かれ、見るものと心に感じるものとの距離は近づきます。感謝の心を持つ人のしるしは何でしょうか? 感謝の心を持つ人々の眼からは、いつも涙が拭われます。感謝する心を忘れず、自分に与えられた能力やこの世界で体験するもの全てを恩寵と受け取ることは、そのような洞察力を与えられた人間を変えるだけではありません。それはまた、環境を、世界を、そしてその人の周囲にいる人々を変えます。

感謝に満ちた心は、真のキリスト者のホールマーク(しるし)です。感謝の徳を持つ人は本当に心豊かです。その人たちは、自分がどれほど豊かな祝福を受けているかを知っているばかりではなく、全ての良いものは神から来ることを、いつも心に留めているのです。

 

他人を認め、人に「ありがとう」を言うことは、優れた人間の印です。あなたと関わりのある人が、気落ちし、沈み込み、意欲を失い、活気がないときは、もしかしたらあなたに原因があるのかも知れません。あなたは、その人の存在や行いについて、一度も「ありがとう」や感謝の心を伝えたことがないのではありませんか? 感謝の心で結ばれている人々は、いつも豊かな力の源泉を見出し、さらにそれを呼び覚ましています。感謝の心が増すほどにその人の内面は一層豊かになります。フランスの諺に「感謝の念は心に刻まれた記憶」という言葉があります。感謝する人々は、過去の全ての良い経験を感謝の記憶のうちに蓄えます。

 

モントリオールのブラザー・アンドレ

次の日曜日、 10 17 日に、教会は「モントリオールのブラザー・アンドレ」として親しまれ愛されている、カナダ生まれの福者 アンドレ・ベッセッテ の列聖を祝います。

彼は、とりわけ聖ヨセフへの献身によって、北アメリカや世界の何百万という人々に親しまれ愛されています。わたしは、 彼の列聖に先立つこの数ヶ月間 、何度か彼について書いてきました。

 

今日の聖書朗読で、わたしは繰り返しブラザー・アンドレについて考えさせられました。その生涯は苦しみの連続だったにもかかわらず、彼は強い信仰、素朴な敬虔さと献身とで、多くの人々に癒しを与えました。彼を列聖に導く奇跡が 1999 年に起きたのは実にふさわしいことでした。当時 9 歳の少年が交通事故に遭い、頭蓋に深刻な傷を負って昏睡から覚めず死に瀕していました。少年と親しい人々は、ブラザー・アンドレの執り成しを願って祈り、それによって彼の意識が回復し健康を取り戻したのです。医学の専門家たちは、このことが科学的には 説明が付かないと考えました。

 

ブラザー・アンドレが選ばれた訳は?

聖十字架修道会が今年初めに出した美しい回状の中で、前の総長の Hugh Cleary 神父はこう書いています:

「・・・アンドレが選ばれたのは、おそらくはマリアとヨゼフのように、この世の目から見ればなんでもない(平凡な)人だったからです。彼は何ものも所有せず、何ものも彼を所有しませんでした。自分がそれと識別できる賜物、才能、所有物を使い果たしたとき、かれは神の豊かな収穫物になりました。

なんでもない人だったからこそ、彼は祈るよりほかに選択の余地はなかったのです;彼自身の収穫の試みはどうしようもない失敗でした。」

「存在の聖なる空虚さの中で、彼は、自分が最も望むものを与えてほしいと神に祈るほかに選択の余地はありませんでした。神は彼の祈りに応えました。神は、彼が最も望むものを与え、心からの望みを満たしてやり、その彼をご自分の収穫物とされました。」

 

神の道はわたしたちの道とは異なる:

「・・・ブラザー・アンドレのような奇跡の働き手は、ごく稀な存在であり、ふだんの自然な出来事の中で彼のような人物に遭遇することはまずありません。しかし、その人たちが現れたときには、あたかもわたしたちの心の奥底からの望みに対する答えであるかのように、力や快楽や富を追い求める自然の領域を超越する世界を指し示します。(…に、わたしたちの心を向けさせるのです。)

奇跡の働き手は、現実を超越する世界をわたしたちに指し示します。それは、時にはやさしく、とらえ難く、時には全くそれと気付かないうちに、絶えずわたしたちを捉える神の恩寵の「自然な」与え方です。それによって、わたしたちの最も深い望みである「愛」を生きることが出来るのです。

奪い取ろうとしたり、策を弄したりしても、この「愛」を所有することはできません。この「愛」は賜物であり、わたしたちの弱い人間性を超越して惜しみなく与えられる賜物です。この「愛」は、わたしたちの本性を超え、神の子として天上の栄光へと高めてくれます。

 

神の御言葉の流れに浸る

間もなくモントリオールの聖アンドレとなる、福者 アンドレ・ベッセッテ は、聖書に霊感を与えた聖なる「イスラエルの流れ」に日々自分を浸した、すばらしい模範です。彼は、神が、自分の貧しく卑しく弱い存在を通して、堕落した時代の罪だけでなく、肉体的な苦しみや病気をも癒すことを受け容れました。ブラザー・アンドレが、自分を通して、また聖ヨセフの執り成しを通して働かれた神の御手を思い起こし感謝を捧げたとき、彼は数多くの人々に癒しと救いをもたらしたのです。

 

 

 

聖書朗読:

 

列王下 5:14-17 : ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。 5:15 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 5:16 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 5:17 ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。

 

二テモ 2:8-13 : イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 2:9 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。 2:10 だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 2:11 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。 2:12 耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。 2:13 わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」

 

ルカ 17:11-19 : (重い皮膚病を患っている十人の人をいやす) 17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 

 


A Day of Remembering

Biblical Reflection for 28th Sunday in Ordinary Time C By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, OCT. 5, 2010 Zenit.org .-

Today's readings are about remembering and thanksgiving, healing and salvation. In the Old Testament reading, Second Kings 5:14-17 Naaman the Syrian remembers to thank Elisha for his cure, and one of the 10 lepers cured by Jesus remembered to turn up and thank his healer.

In the reading from the Second Letter to Timothy 8-13 , Paul asks Timothy and us to remember Jesus Christ, risen from the dead. Recalling Jesus' death and resurrection fills us with gratitude, heals and strengthens us to face any adversity, difficulty and suffering, thus making us people of gratitude.

 

Naaman's double cleansing

First let us consider the Old Testament reading. The imposing person of Naaman is told by the Prophet Elisha that he should seven times bathe in the Jordan River to be healed of his leprosy. Naaman replied indignantly, “Are not the rivers of Damascus, the Abana and the Pharpar, better than all the waters of Israel? Could I not wash in them and be cleansed?” Second Kings 5:12 . Naaman was right: the rivers of Syria were undoubtedly better: They had more water; they were no match hygienically for the mountain spring waters of Damascus; ritually literally? , it is the other way around.

 

Naaman was disappointed and expected this "man of God," Elisha, to perform a much more dramatic sign. Naaman even doubted the advice that he had received from the prophet. With great reluctance, he finally gives in to the pleading of his servants to do what the prophet said. Washing in the Jordan he was healed and his flesh became like that of a little child. The muddy waters cleansed Naaman of his leprosy -- but even more so of his arrogance.

 

The two mule-loads of earth that he requests will enable him to take a bit of Israelite earth to his native Syria, where he will build in Aram an altar to the God of Israel. Naaman has seen the power of the God of Israel and will worship none other. This is the final and most important lesson that he learns. Naaman, the foreigner, is not a member of the Chosen People. That God's mercy is to be extended to all the nations was a notion difficult for Israel to accept.

 

Along the journey to Jerusalem

Let us situate today's Gospel Luke 17:11-19 in Luke's narrative. Today's passage begins with the line: “As Jesus continued his journey to Jerusalem.” This is a reminder to us that Jesus is moving toward his passion, and this clearly rises above the words and events of this entire section of Luke's Gospel 17:11-18:30 . Most of the material in this section is unique to Luke. In 17:11 Luke can almost see Jerusalem in the distance and he points it out to the reader. This section will end in 18:30 because in 18:31, “Behold we are going up to Jerusalem,” Jesus will not leave the meaning of the journey to the disciples' memory; he will prophesy for the third and final time his passion in the Holy City.

 

One grateful leper

Today's incident of the cleansed and grateful Samaritan leper is narrated only in Luke's Gospel and provides an instance of Jesus holding up a non-Jew 17:18 as an example to his Jewish contemporaries cf. 10:33 where a similar purpose is achieved in the story of the Good Samaritan. Moreover, it is the faith in Jesus manifested by the foreigner that has brought him salvation 17:19 .

 

Geography plays a special role in Luke's Gospel and it is can be literary, theological or physical. In today's story, the border between Galilee and Samaria is a fitting location for a story involving both Jesus and a Samaritan verse 16 . Lepers kept a distance from non-lepers verse 12; Leviticus 13:45-46; Numbers 5:2 , they formed their own colonies Second Kings 7:3 , and they positioned themselves near busy intersections and highways in order to beg for alms. To show oneself to a priest after healing was according to the law Leviticus 14:2-32 .

 

Understanding a complex story

Today's Gospel nevertheless raises several significant questions.

Was the Samaritan, who lived outside the requirements of Judaism, included in the command to go to a priest?

Why did Jesus reproach the nine for not returning verses 17-18 when they had been told to go show themselves to a priest for a confirmation of their cure and a release from the status of uncleanness?

Jesus' words to the returning Samaritan: “Your faith has made you well,” seem rather odd, since all of them were healed!

 

Today's Gospel must be understood as having two distinct parts: verses 11-14 and 15-19. The first part is a healing story with the standard elements: a cry for help; the response of Jesus; a healing in the act of obedience similar to that of 5:12-16. The second part of the story is the salvation of a foreigner. It is the foreigner who returns, who praises God and who expresses gratitude to Jesus.

When Jesus says: “Your faith has made you well," the blessing certainly refers to some benefit other than that which all, including the other nine, had received earlier. The verb “made well” is the same very often translated “to be saved.”

 

Salvation by faith

Today's Gospel is about a foreigner with two counts against him; he received salvation by faith. The man was a Samaritan, a social outcast and a religious heretic suffering from leprosy. In the presence of Jesus, only the foreigner receives the full blessing of Jesus' ministry. Once again Luke's predilection for foreigners, outsiders, outcasts, the sick and sinners is very evident in this story.

 

This story anticipates the great story of the Acts of the Apostles: a growing blindness in Israel, and a receptivity among Gentiles. God's plan to save the world excludes no one. -The healing of the 10 lepers builds on the theme of this universality by implying that the "foreigner" was the only one to return and give thanks to God for the healing received. The implication is clear, and Jesus makes it at other times as well: If those to whom the word of salvation came first did not accept it, it will nevertheless be broadcast to all the world. It is a bitter irony for all of us, that it was the leaders of Jesus' own people who rejected him!

 

God's generosity is ungrudging and his mercy is showered upon all, both the grateful and the ungrateful. Nine of the 10 lepers healed did not return to praise God for their healing.

Nevertheless, they are healed, and the wideness of God's mercy is exalted even in their ingratitude, and ours. Both the Naaman story and the parable of the 10 lepers teach us some powerful lessons about remembrance, gratitude, healing and salvation.

 

Signs of gratitude

Thankfulness is much more than saying "Thank you" because we have to. It is a way to experience the world, to perceive and to be surprised. Thankfulness is having open eyes and a short distance between the eyes and the heart. What are the signs of grateful people? Tears are always wiped away from the eyes of those who are thankful. The courage to thank, to see the gifts and experiences of this world all together as a gift, changes not only the person who gains this insight. It also changes the environment, the world, and those who surround that person. Grateful hearts are the hallmark of authentic Christians. Those who possess the virtue of gratitude are truly rich. They not only know how richly they have been blessed, but they continuously remember that all good things come from God.

 

To acknowledge others, to say thank you to others is the mark of greatness. If people associated with us are dispirited, dejected, unmotivated and uninspired, might it have something to do with the fact that we have never expressed our thanks and gratitude to them for who they are and what they do?

People bound together by gratitude are always discovering and awakening abundant sources of strength. The more thankful a person is, the richer he or she is within. Thankful people store up in their grateful memory all the good experiences of the past, just as the French proverb states: “Gratitude is the heart's memory.”    

 

Brother André Bessette of Montreal

Next Sunday, Oct. 17, the Church will celebrate the canonization of Canadian-born Blessed André Bessette, known and loved as “Brother André of Montreal.”

He is known and loved to millions of people in North America and throughout the world, especially for his devotion to St. Joseph. I have written about him several times over the past months leading up to his canonization.

 

Today's Scripture readings made me think of Brother André many times. He was afflicted with suffering throughout his entire life, yet he brought healing to so many people through his strong faith, simple piety and devotion. It is only fitting that the miracle leading to his canonization occurred in 1999 when a 9-year-old boy had been the victim of an automobile accident, leaving him with a serious cranial injury and putting him in an irreversible coma leading toward death. The prayers of the people closest to him, along with the intercession of Brother André, brought him back to consciousness and health, and this was deemed scientifically unexplainable by medical experts.

 

Why was André chosen?

In a beautiful circular letter to the Holy Cross family earlier this year, former Holy Cross Superior-General Father Hugh Cleary wrote:

“… perhaps Andre was chosen, like Mary and Joseph, because in the eyes of this world he was no one; he possessed nothing, nothing possessed him. As one depleted of all discernible gifts, talents and possessions, he was ripe for God's prey. In his nothingness he had no choice but to pray; his own preying was an abysmal failure.

In the hallow emptiness of his existence, he had no choice but to pray to God to give him what he desired more than anything else. God answered his prayer. God possessed him giving him what he cared for most, giving him fulfillment to the deepest longing of his heart.”

 

God's ways are not our ways

“… Miracle workers like Brother Andre are few and far between, rarely encountered in the natural course of events. But when they do appear, they point us beyond the natural realm of hunting for power, pleasure and wealth, as if the answers to our deepest longing.

Miracle workers point us to the transcendent realm of reality, the 'normal' course of God's grace forever preying upon us gently, subtly, in sometimes hardly perceptible ways, to live the Love that is indeed our deepest longing.

We cannot possess this Love with our own preying, our own machinations. This Love is a gift, freely given, a gift that transcends our frail human nature. This Love lifts us beyond our natural selves to our Heavenly glory as the children of God.”

 

Immersed in the waters of God's Word

Blessed André Besette, soon to be St. André of Montreal, is a brilliant example of one who immersed himself day after day in “waters of Israel,” the divinely inspired Scriptures. He allowed God to work through his poor, humble, weak being to heal physical suffering and disease, as well as the leprosy of sin in his day. As Brother André remembered and gave thanks for the hand of God working through him, and through St. Joseph's intercession, he brought healing and salvation to the multitudes.

 

 

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