キリストと司祭職

年間第 29 主日聖書黙想  2009/10/18   トマス・ロシカ師 

 

B 年の、年間第 29 主日の朗読は、司祭職と司祭の司牧の業を祈りのうちに考えるように招きます。

第一朗読はイザヤ書の、苦しむ僕の神秘的なくだりです。彼は民の不正を自分の身に引き受けます。 ( イザヤ 53:2-11)

 

第二朗読は、罪を犯さなかったことを除けば、全ての点でわたしたちと同様の試練を受けた大祭司キリストについて語り、福音朗読は、多くの人のために、罪の贖いとしてご自身の命を捧げられた人の子について語ります。 ( マルコ 10:35-45.)  。この三つの朗読箇所は、司牧の業の核心に触れる大切な考え方を示すとともに、わたしたちが神の民として、聖体の神秘を共に祝うことの意味を示してくれます。

 

今は、聖ヨハネ・マリア・ビアンネ (John Mary Vianney) の死後 150 年を記念する「司祭年」 (訳注) の最中であること、そして毎週、世界の多くの司祭方がこの黙想記事を読んで下さっていることから、わたしは、特に今週と来週の第二朗読 ( ヘブライ 4:14-16 およびヘブライ 5:1-5) から感じたことを以下に述べさせていただきます。

 

イザヤの神秘的な僕

 

先ず、今週の預言者イザヤ (53:10-11)  の朗読について手短に申上げます。イザヤの神秘的な「苦しむ僕」の姿は、わたしたちへの神の愛のしるしであるばかりではなく、神の前にあるすべての人間の姿を表しています。ただ神だけが、この僕の真の偉大さを認めました。なぜなら、彼は罪人とされ、それゆえに軽蔑されるべき人と見做されて苦しんだからです。他の人々の罪を背負って苦しむことによって神の意思を果たしたために、この僕は主によって報いられることになります。

 

イエス、わたしたちの偉大な大祭司

 

ヘブライ人への手紙 4:14 16 の中で、パウロは、イエスを偉大な大祭司と呼びます。 (v 14).  イエスは、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 (v 15);

このことは、よく知られているイエスの誘惑についての伝承を思い起こさせます。

それは、 ( マルコ 1:13) のような最初の試練ばかりではなく、イエスの公生活全体を通してです。 ( ルカ 22:28 参照 ) ヘブライ 4:16 ヘブライ 10:19-22 に、よく似た表現が出てくるのは、「イエスの司祭としての業によって、わたしたちが確信を持って神に近付くことが出来る」という、パウロの考え方を示しています。イエスの全生涯はイスラエルの聖典の中に包み込まれており、彼は神の言葉を生き、行行っています。

 

補足: ヘブライ 4:15~16 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
ヘブライ 10:19 22 「兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」

 

わたしたちの「偉大な大祭司」はイエスです。エルサレムにおいて「この人を見よ。」( "Ecce Homo" )と呼ばれるべきベツレヘムの子です。わたしたちから遠い、別種の存在ではなく、わたしたちの弱さと痛み、そして誘惑さえも経験され、わたしたちに同情する方なのです。 ( ヘブライ 4:14-15)

自分に問うてみなければなりません: わたしたちはイエスのような司祭でしょうか? 他人のために生きているでしょうか? わたしたち故に、この世の暴力や敵意が減り、より慈悲ふかく、忍耐強く、親切で、正しくなっているでしょうか?

 

記憶すべき、 1975 年の使徒的勧告 "Evangelii Nuntiandi" (“ 近代世界における福音宣教について ”) の中で、教皇パウロ 6 世は、適切にもこう述べています。「近代人は、教師よりも、証し人の言葉を聞こうとする。そして、彼らが教師に耳を傾けるとすれば、それは教師が証し人であるからである。」

 

空しい結果にならず、司牧の効果が損なわれないために、わたしたちは、絶えずこのように自問する必要があります: わたしたちは本当に神の言葉の中に生きているだろうか? その御言葉は、この世のパンや財産以上に、わたしたちが生きる上での滋養になっているか? その御言葉を、わたしたちは本当に理解しているだろうか? それを愛しているだろうか? それを行動の指針にしているだろうか? わたしたちの生活に刻み込まれ、考え方の基準となり、他の人々の行動を促し勇気付けるほどに、その言葉をふかく生きているだろうか? 

 

旧約と新約

 

旧約聖書は、大祭司がその兄弟姉妹のようになることは決して求めようとせず、当然のように、兄弟姉妹とは別のものとしました。どの文書も、大祭司が全ての罪から逃れることは求めませんでした。

旧約聖書では、罪人に対する同情の態度は、祭司職とは両立しないように見えます。  

 

レビ族の祭司とは違い、イエスの死は彼の司祭職にとって不可欠なことでした。

イエスは、憐れみの司祭です。彼の権威は、その憐みの故にわたしたちを惹きつけます。究極的に、イエスは他者のために存在します: すなわち奉仕のために存在するのです。イエスは、全ての点でわたしたちと同様の試練に遭われています。彼は、わたしたちの苦しみを全て承知しています。

イエスは試練に遭った人です。彼は、わたしたちの状況を、内からも外からも理解しています。このことだけで、イエスは深い憐みの力を得られたのです。 

 

「司牧的人間」の反対は、「消費的人間」です。すなわち、物を買い、蓄え、集めます。司祭は、他者のために自分を使い、消費します。司祭職への召命が、富や豊かさ、消費や物余りの文化(生き方)の中で大きな試練に直面するのは不思議なことでしょうか?  

 

「この杯を飲めますか?」

 

今日の福音朗読の中で、イエスは謎のような質問を弟子たちにします。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 ( マルコ 10:38-40)  「杯を飲む」という比喩は、旧約聖書の場合、神の意向を受け入れるという意味に使われます。 

イエスの場合には、それ(杯を飲む)は、罪のないイエスが罪人のために償う、神の裁きを含みます。 ( マルコ 14:24; イザヤ 53:5)  イエスの洗礼は、人類を救うための、十字架と死を意味します。

 

ヤコブとヨハネがイエスの栄光に与りたいと願うのは ( マルコ 10:35-37)  、必然的に、イエスと共にその苦しみを分かち合い、福音のために苦難を耐え忍ぶことを意味しています。神の国での栄光の座を与える権能は、神の手にあるのです。

 

神の権威が、弟子たちによって行使されるときには、それが何であれ、イエスがなさるように、自分の権力を強めるのではなく(マルコ 10:42-44 )、他者への奉仕へと変貌します。 ( マルコ 10:45)  イエスの奉仕は、人類の罪を贖うイエスの受難と死なのです。 ( マルコ 10:45).

今日の福音は、福音の最も大切な言葉を以って結ばれます。それはイエスの救い主としての使命を示します。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ 10:45 ) 

イエスは、個人的な利益、特権、名声のためにこの世に来たのではありません。そうではなく、奉仕のために来たのです。それは必然的に自分の命を身代金として差し出す結果になりました。 

 

旧約聖書は、神がご自分の民のために、どのように「値を支払う」ことができるかを決して説明しませんでした。一人子の受難、苦しみと死においてのみこの値が明らかにされます。わたしたちは自分の肉と血をささげることでのみ、救いが可能になるのです。

 

わたしたちの周辺世界にある罪深さと悪行の全ては、わたしたちの肩、自身の肉において担わなければなりません。この方法で、自分自身の肉と骨において痛みを分かち合うのです。イエスがなさったように、その痛みを自分自身の一部とするのです。

パウロがコリントの信徒への手紙二の中で語るように、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」 (2 コリント 5:21)

 

困難な時代

 

わたしたちは司牧者として、困難で試練に満ちた時代の中で、厳しく、畏怖にみちた義務を担わされています。わたしたち(司祭)は、神の民を集めるために、主の言葉を大胆に宣言するために、洗礼を授け、パンを裂く祭儀を行うために、そしてこのように多くの賜物に対して神への感謝をささげ続けるために、叙階されています。 

わたしたちはまた、求める人を助け、貧しい人への寛大な心を呼び起こすために(司祭に ) 任命されています。わたしたちが叙階された(神に定められた)司牧の職務は、全霊を傾けて良き模範となることを求めています。 

 

わたしたちは僕の名に値しないまま、キリストの業をなすべく派遣されるのです。いったい、このような偉大な召命に値する者がいるでしょうか? 人間として、わたしたち司祭は過ちを犯しますが、祭壇上での、また告解の場での、司祭としての行為は、自分の弱さや罪ふかさのために無効になったりはしません。 

 

神の民とわたしたち ( 司祭 ) とは、それに値いしないという理由で、神の恵みを取り上げられることはありません。結局のところ、洗礼を授け、祭儀を行い、和解と赦しを与えるのはキリストです。司祭はその道具に過ぎません。 

 

もし、わたしたちが仕える牧者、苦しむ僕であるならば、人々は、互いに仕え合い、この世の「足を洗う」ようにと駆り立てられることでしょう。

もしもわたしたちが、神の民の喜びに満ちた奉仕において何回も何回も心を砕かれるならば、わたしたちは良き司祭となり、主の民にとってのよい牧者となることでしょう。 

 

今日の教会において、権威ある聖職と司牧の中心に横たわっているのが、この砕かれて傷ついた心なのです。絶望の中で砕かれた心ではなく、世を包み込む愛に開かれた心です。・・・それは、究極的な喜びに向かう、砕かれた心です。なぜなら、わたしたちはその全てを神に捧げており、自分自身の心の中に世界全体のための場所を用意しているからなのです。

 

イエスは完全な司祭です。彼は、兄弟姉妹のために喜んで自分自身を燃やし尽くし、使い果たします。彼は他者のために自分の命を捨てる方です。主の苦しむ僕は、人類家族全体との一致、和合、共感の中に生きます。「人の子」が、仕えられるためではなく仕えるために、そして多くの人たちの身代金として自分の命を与えるために来たのとおなじように、わたしたちもそうでなければならないのです。  

 

わたしたち(司祭)は、説教や文書の表現における雄弁な言葉以上にキリストを知っており、彼を愛しているはずです。わたしたちとイエスとの親しい関係は、同時代の人たちに伝染する性質を持っています。そして、別」の人々は、わたしたちの表情、笑顔、手足の動き、そしてわたしたちのハート、わたしたちの弱さから、主の気高さ、美しさ、偉大さを感じ取るのです。

わたしたち(司祭)がどうであっても、人々は主の愛の虜(とりこ)になるのだ、ということを忘れてはいけません。それが、わたしたちの力によるものならば、一層素晴らしいことです。

 

 

*訳注:  司祭年: 2009 3 16 日(月)、教皇ベネディクト 16 世は、教皇庁 聖職者省総会参加者への謁見において、「アルスの司祭」聖ヨハネ・マリア・ビアンネ( 1786 1859 年)の没後 150 年を記念して、 2009 6 19 日から 2010 6 19 日まで特別年の「司祭年」を開催することを発表しました。
「司祭年」のテーマは「キリストの忠実、司祭の忠実」です。教皇は「イエスのみ心の祭日」また「世界司祭の聖化のための祈願日」である 6 19 日(金)にサンピエトロ大聖堂で晩の祈りを司式して、「司祭年」を開幕します。この日、聖ヨハネ・マリア・ビアンネの聖遺物がフランス、ベレイ・アルスのガイ・バグナール司教によってサンピエトロ大聖堂に運び入れられます。 教皇 2010 6 19 日(土)、サンピエトロ広場で「世界司祭大会」を司式して、「司祭年」を終えます。この特別年の間に、教皇ベネディクト十六世は聖ヨハネ・マリア・ビアンネを「全世界の司祭の守護聖人」と宣言します。
また教皇は、『聴罪司祭と霊的指導司祭のための指針』を、現代世界の司祭の生活と宣教の根本的なテーマに関する教皇の発言集とともに発布します。教皇庁聖職者省は、教区裁治権者と修道会総長管区長とともに、さまざまな霊的・司牧的行事を主催・共催します。これらの行事は、教会と現代社会における司祭の役割と使命の重要性、また、神学生の養成と関連づけながら司祭の生涯養成を強化することの必要性を強調するものです。 
カトリック中央協議会 http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/2009/year_priests.htm

Christ and the Priesthood

Biblical Reflection for 29th Sunday in Ordinary Time B By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, OCT. 14, 2009 (Zenit.org).- The readings for the 29th Sunday in Ordinary Time of Cycle B invite us to prayerfully consider the priesthood and priestly ministry. The first reading is the passage of Isaiah's mysterious suffering servant who takes upon himself the people's iniquity (Isaiah 53:2-11).

 

The second reading speaks of Christ the high priest, tried in every way like us but sin, and the Gospel passage speaks of the Son of Man who has come to give his life in ransom for many (Mark 10:35-45.) These three passages bring to light a fundamental aspect of the heart of priestly ministry and one that we celebrate together as God's people in the Eucharistic mystery.

 

Recognizing that we are in the midst of celebrating the Year for Priests to mark the 150th anniversary of the death of St. John Mary Vianney, and knowing that many priests around the world are reading these reflections each week, I offer these thoughts that are particularly inspired by the second readings from this Sunday and next Sunday (Hebrews 4:14-16 and 5:1-5).

 

Isaiah's mysterious servant

First, allow me to offer a brief thought on today's reading from the prophet Isaiah (53:10-11). Isaiah's mysterious figure of the "suffering servant" is not only a sign of God's love for us, but he also represents all human beings before God. Only God appreciated his servant's true greatness. Because he suffered, he was regarded as a sinner and therefore as one to be spurned. Because the servant fulfilled the divine will by suffering for the sins of others, the servant will be rewarded by the Lord.

 

Jesus, our great High Priest

In the letter to the Hebrews 4:14-16, the author calls Jesus a great high priest (v 14). Jesus has been tested in every way, yet without sin (v 15); this indicates an acquaintance with the tradition of Jesus' temptations, not only at the beginning (as in 1:13) but throughout his public life (cf Luke 22:28). The similarity of Hebrews 4:16 to Hebrews 10:19-22 indicates that the author is thinking of our confident access to God, made possible by the priestly work of Jesus. Jesus' entire life is steeped in the Scriptures of Israel and he lived and acted out of God's Word.

 

Our "great high priest" is Jesus, the Child of Bethlehem who becomes the "Ecce Homo" of Jerusalem, not one distant from us and our condition, but he is the one who sympathizes with us, for he has experienced our weakness and pain, even our temptations (Hebrews 4:14-15). We must ask ourselves: Are we priestly people like he was? Do we live for others? Is the world any less violent, any less hostile, any more merciful, patient, kind and just, because of us?

 

In his very memorable and ever valid 1975 apostolic exhortation "Evangelii Nuntiandi" (On Evangelization in the Modern World), Pope Paul VI rightly noted: "Modern man listens more willingly to witnesses than to teachers, and if he does listen to teachers, it is because they are witnesses."

 

Lest we experience emptiness, and the effectiveness of our ministry be compromised, we need to constantly ask ourselves: Are we truly inhabited by the Word of God? Is that Word truly the nourishment we live by, even more than bread and the things of this world? Do we really know that Word? Do we love it? Do we act upon it?

Are we deeply engaged with this Word to the point that it really leaves a mark on our lives, shapes our thinking, and motivates and inspires others to act?

 

Old and New

The Old Testament never dreamed of requiring the high priest to make himself like his brothers and sisters, but was preoccupied on the contrary with separating him from them. No text ever required that the high priest should be free from all sin. In the Old Testament, an attitude of compassion toward sinners appeared to be incompatible with the priesthood.

 

Unlike the Levitical priests, the death of Jesus was essential for his priesthood.

He is a priest of compassion. His authority attracts us- because of his compassion. Ultimately, Jesus exists for others: he exists to serve. He has been tested in all respects like us -- he knows all of our difficulties; he is a tried man; he knows our condition from the inside and from the outside -- only by this did he acquire a profound capacity for compassion.

 

The opposite of a priestly person is a consumer: one who buys, amasses, collects things. The priest is one who spends and consumes himself for others. Is it any wonder that vocations to the priesthood face immense challenges in cultures of wealth, abundance, consumption, and excess?

 

Can you drink this cup?

In today's Gospel, Jesus asks the enigmatic question: "Can you drink the cup that I drink or be baptized with the baptism with which I am baptized?" (Mark 10:38-40): the metaphor of drinking the cup is used in the Old Testament to refer to acceptance of the destiny assigned by God.

 

In Jesus' case, this involves divine judgment on sin that Jesus the innocent one is to expiate on behalf of the guilty (Mark 14:24; Isaiah 53:5). His baptism is to be his crucifixion and death for the salvation of the human race.

 

The request of James and John for a share in the glory (Mark 10:35-37) must of necessity involve a share in Jesus' sufferings, the endurance of tribulation and suffering for the gospel (Mark 10:39). The authority of assigning places of honor in the kingdom is reserved to God (Mark 10:40).

 

Whatever authority is to be exercised by the disciples must, like that of Jesus, be transformed into service to others (Mark 10:45) rather than for personal aggrandizement (Mark 10:42-44). The service of Jesus is his passion and death for the sins of the human race (Mark 10:45). Today's Gospel passage concludes with one of the most important Gospel sayings that indicates Jesus' messianic mission: "For the Son of Man did not come to be served but to serve and to give his life as a ransom for many." (Mark 10:45)

 

Jesus did not come into the world seeking personal gain, privilege or prestige. Rather, he came for service, and this entailed giving his life up as a ransom.

 

All of the sinfulness and evil in the world around us must be borne on our shoulders and in our own flesh. In this way, we share the pain in our own flesh and bones, making it part of our very selves just as Jesus did.

For as St. Paul tells us in his second letter to the Corinthian community: "He made Him who knew no sin to be sin on our behalf, that we might become the righteousness of God in Him (2 Cor. 5:21).

 

The Old Testament never explained how God could "pay a price" for his people. Only in the passion, suffering and death of his only Son does the price become clear. We become capable of salvation only by offering our flesh and blood.

 

Difficult times

As priestly shepherds, we are given a share in arduous and awesome duties in difficult and trying times.

We are ordained to gather God's people, to boldly proclaim the Word of the Lord, to baptize, to celebrate the breaking of the Bread, and to constantly give thanks to God for so many gifts.

 

We are also commissioned to assist those in need and to rouse generosity to the poor. Our ordained ministry demands that we lead by wholehearted example.

 

Nevertheless we remain unworthy servants, yet sent to do the work of Christ. Who of us can ever be worthy of such a great calling? As human beings, we priests can err, but the priestly gestures we carry out at the altar or in the confessional, are not invalid or ineffective because of our weakness and sinfulness.

 

God's people and ours are not deprived of divine grace because of our own unworthiness. After all it is Christ who baptizes, celebrates, reconciles and forgives; the priest is only the instrument.

 

Only if we are servant shepherds who suffer will people be stung by Jesus' call to tend one another, and to wash the feet of the world.

  Only if we allow our own hearts to be broken over and over again, in joyful service of God's people, will we be effective priests and good shepherds to the Lord's people.

 

It is this broken, wounded heart that lies at the heart of authentic ministry and shepherding today in the Church.

Not a heart broken in a state of despair, but one opened in loving embrace to the world […] a broken heart that leads to ultimate joy because we have given it all to God and made place for the entire world in our own hearts.

 

Jesus is the perfect priest who burns, spends and consumes himself gladly for his brothers and sisters; one who lays down his life for others. The suffering servant of the Lord lives in union, communion and sympathy with the entire human family. Just as the Son of Man did not come to be served but to serve and to give his life as a ransom for many, so must it be for us.

 

Above and beyond eloquent words in homilies and written texts, we must know Christ and love him.

Our friendship with him will be contagious to our contemporaries, and others might recognize the Lord's nobility, beauty and greatness though our faces, our smiles, our hands, our feet, our heart and our weaknesses.

We cannot forget that people will fall in the love with the Lord in spite of us, and hopefully because of us.

 


 

朗読

 

イザヤ 53:10:病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。

 

 

へブライ 4:14 16:わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 

 

マルコ 10:35~45:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 

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