もしあなたがたに信仰があれば (そして、あなたがたには本当にそれがある)
年間第 27 主日 聖書黙想 2010/10/3 トマス・ロシカ師
自分の信仰に疑問を持ち、信仰の対象さえも疑うことは、よくある健全な精神の働きです。信仰は、必要なときまで仕舞い込んでおけるものではありません。いざ信仰が必要になったときには、放って置いたために弱まって意味を見いだせなくなっており、支えにはなってはくれないでしょう。
高潔の徳のうちには、よく訓練された信仰が含まれており、このような信仰があれば、最も厳しい試練にも耐え抜くことが出来ます。誰よりも強い人でも、無力で何もできない状態に落ち込んでしまうことがあるのです。
信仰という大切な賜物を心に留めるために、今日の旧約聖書と福音の朗読について考えてみましょう。今日は、わたしたちの信仰にとって、僕(しもべ)としても英雄としても優れた今日的模範である二人の人物を紹介します。それは、福者マリア・マッキロップと福者アンドレ・ベセッテです。二人は、 2010 年 10 月 17 日、ローマで列聖されます。
ハバククの叫びは 虚しく終わらない
今日の第一朗読(ハバクク書 1:2-3 、 2:2-4 )の預言者ハバククの言葉は、ユダの国内の悪に対する預言者の告発と受け取られてきました。ここで使われている言葉は、アモスやイザヤやエレミヤが、それぞれの時代の社会の悪弊を咎めるために用いた言葉です。 ハバクク 1:5-7 の中で、主はこの抗告に応え、人々の罪を罰する道具としてカルデア帝国を指し示します。しかしながら、ハバククの叫びは無駄には終わりません。主は彼に語ります:「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。』」 ( 2:2-3 ) これが、ハバククが得た全てです―そして多くの場合、それが、わたしたちが得る全てです―「忍耐強く幻を待ち続けよ。」 それは悲しいほど不十分に見えますが、これこそ、わたしたちの中の信仰が生きたものであり、成長するものであり、また発展するものなければならない理由なのです。
「わたしどもの信仰を増してください。」
ルカ福音書は、イエスの発言( 17:5-10 )の中で、自分たちの信仰を増して欲しいという使徒たちの願いに続けてイエスの応えを記します。( 17 : 5-6 ) そして、キリストの弟子は神の感謝を要求することはできないこと、弟子として命じられたことをみな果たしても、しなければならないことをしただけだということを、使徒たちに思い起こさせます。イエスは、四つの別々な教え( 1-2 、 3-4 、 5-6 、 7-10 )を、聴き手に告げます。
訳注: ルカ 17:1-2; 「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」。
3-4; 「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
5-6; 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」
7-10 「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
ルカは、これらの四つの教えを一つの物語に織りあげました。まず二つの教えでイエスは、兄弟姉妹に対して罪を犯すこと( 1-2 )と、自分に対して罪を犯す人への対処( 3-4 )について大変厳しい指示を与えます。その教えを実行するのがとても難しいと思った弟子たちは、彼らの信仰に対するイエスの呼びかけと信頼に応えるために、より強い信仰を望んだのです。( 5-6 )
最初の教えも、二番目の教えも、信仰共同体の中で共に生きることについて述べています。キリスト者の共同体では、二つの種類の問題がしばしば発生して全体の調和を脅かします。第一の問題は、メンバー全員の成熟の度合いが同じではないという現実から生まれます。そこには必ず「小さな者たち」が居ます。すなわち洗礼を受けて間もない人たちです。 成熟したメンバーの言葉や行いが、新しい信者のつまずきや堕落の原因となることがあります。 「つまずきをもたらす原因となること」は、「罪への誘惑」( 1 節)と「罪の原因」( 2 節)の核心に潜む問題です。この部分の平行個所は、マタイ( 18:6-7 )とマルコ( 9:43 )にあります。
キリスト者の共同体を脅かす次の問題は、弟子たちが互いに対して罪を犯すことから起こります( 3-4 )。この教えはとても現実的なものです。共同体のメンバーが互いに傷つけ合ってしまうのです。使徒たちが 1 節から 4 節の指示を聞いてイエスに「わたしどもの信仰を増してください。」( 5 節)と言ったのは無理からぬことです。ルカは、この文章に「使徒たち」と「主」という表現を用いることで、歴史的イエスと、その時代に生きて直接イエスの教えを受けた人たちについてだけでなく、復活したイエスと、現代の教会の使徒や指導者たちについても語っているのです。
叱責ではなく確認
第 5 節で、イエスに従う人たちは指導者であることの責任の重さを感じています。それに対するイエスの答えは、彼らが自分の責任と任務を詳細に検証することを求めています。それは、「もしあなたがたに信仰があれば…」という問いかけです。ギリシャ語には、二つのタイプの「もし」を使った構文があります。一つは、事実とは反対のことを表現する構文(「もしわたしがあなたなら」)、もう一つは、事実に従って表現する構文(「もしイエスがわたしたちの主なら」)です。第 6 節の条件節は、この二番目のタイプです。ですから次のように訳すことが出来ます。「もし、あなたがたに信仰があれば[そして、あなたがたには、本当にそれがある]。」 そしてイエスの答えは、信仰が足りないことを叱責するのではなく、彼らの信仰を確認し、その信仰が持つ可能性を十分に生かすようにと招いています。彼らが既に持っている小さな信仰でさえも、「不可能」といった言葉を消し去ってしまうのです。
奴隷と主人の関係
四番目の、そして最後の教え( 7-10 )は、たとえ話の形式を取っています。マタイにもマルコにも、これに対応する話はありません。それは、ルカ福音書のたとえ話に多く見られる語り口で始まります。すなわち「あなたがたのうちのだれかが、」あるいは、「あなたがのうちの一人が、」といった切り出し方です。( 11:5-7;14:23,31;15:4-8 ) それに対して想定される答えは、「いいえ」あるいは、「だれも」です。
このたとえ話は、奴隷と主人の関係を巡って作られたもので、新約聖書のたとえ話によくあるたぐいの物語ですが、現代のわたしたちの文化の中で、これとよく似た関係を探すのは困難です。
訳注: ルカ 11:5-7 : また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
ルカ 14:23 : 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
ルカ 15:4,8 :「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」
わたしたちは僕に過ぎない
弟子たちが、福音を告げ知らせるために出発したとき、その心にはきっとイエスの言葉が響き続けていたにちがいありません。彼らは、町から町へ、地方から地方へと旅を続けて神の国にその身を捧げる間、常にイエスの教えを心に留めていました。 「 自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」( 17:10 ) イエスの言葉は、避けることの出来ない問いを呼び覚まします。自分は、しなければならないことを果たしたのか? そして今、何をしなければならないのか? これから先、何をすべきなのか? そして今、どんな可能性と、どんな力を手にしているのか? これらの問いの内容は複雑です。ですから、それに対する答えは注意深く考え抜かれなければなりません。
イエスは、仕える者としてわたしたちの中に来られました。そして、イエスに従う人たちも同様です。
彼らは何よりも先ず他者に仕える者でなければなりません。仕えられる者になってはなりません。
「わたしは奉仕を成し終えた。今度はわたしが仕えられたい。」と、弟子が言える「時」も「場所」もないのです。これは、特にわたしたちのうちで、何らかの形で神の民の指導を任されている人々にあてはまります。信仰を増してほしいという望み( 5 節)に惑わされて、使徒や指導者たちが、信仰が増すにつれて地位が上がり、奉仕の時が終わるものと思いこんでしまうようなことはあってはなりません。使徒や指導者たちはすべての弟子の指図に従う立場にいます。自分がどこに居ようとも、仕える者は、仕える者です。
オーストラリアの最初の聖人
10 月 17 日の日曜日、ベネディクト 16 世は、聖ペトロ広場で 6 人(の福者)を列聖します。
1489 年帰天のポーランドの福者 スタニスラウ・ソルティス 、 1912 年帰天のスペインの福者 マリア・デ・ヘスス 、 1524 年に帰天のイタリアの福者 カミッラ・バッティスタ・ヴァラーノ 、 1929 年に帰天の福者 ジュリア・サルツァーノ 、 1937 年に帰天のカナダの福者 アンドレ・ベッセッテ、 そして 1909 年に帰天の福者 メアリー・オブ・ザ・クロス・マッキロップ の 6 人です。 マッキロップ は、ジュリアン・テニスン・ウッズ神父と共に、オーストラリアの 聖心の聖ヨセフ修道女会 を創立しました。 (末尾 別註参照)
福者 メアリー・マッキロップ の生涯の一面は、今日の朗読の中に反映されて、わたしたちに力強く語りかけてきます。彼女が教会から破門されたとき、彼女の姉妹たちは彼女と話すことを禁じられ、その多くは修道会を追われました。 メアリー は、初め友人たちの援助を受け、その後、一人のユダヤ人ビジネスマンが、彼女と、脱会させられた何人かの姉妹のために家を用意してくれました。イエズス会の司祭たちは不正義が行われたと考え、彼女に秘跡を与え続けました。破門の 5 か月後、司教は自分の誤りを悟り、死の床から司祭の一人に破門宣告を破棄するよう書き送りました。破門期間中、 メアリー・マッキロップ は、この司教を悪く言うことなく、彼のために祈りつづけていました。
この強い心を持ったオーストラリア女性は、自分に頑なに反対した教会指導者たちを決して憎んだりしませんでした。ベネディクト 16 世は、 2008 年の ワールド・ユース・デー で シドニーを 訪問した際、福者 メアリー・マッキロップ について、次のように語りました。「逆境にあっての彼女の忍耐、不当に扱った者たちのために正義を願う祈り、そして彼女の聖性の具体的な模範が、オーストラリアの全ての人々にとって、霊感の源泉になっていることを、わたしは知っています。」 メアリー・マッキロップ が 10 月 17 日に 列聖されることを 神に感謝します。
モントリオール のブラザー・アンドレ
モントリオール の 聖ヨゼフ大聖堂 の創設者、聖なる十字架のブラザー・アンドレ・ベッセッテは、 ケベック 州の Saint-Grégoire d'Iberville 村で、 1845 年にカトリックの大家族に生まれました。彼がカナダの聖十字架修道会に誓願の申請をしたとき、彼の上長は、病弱な彼が将来の司牧の任に堪えられないと考えて、申請には応じられないという決定を下しました。アンドレは打ちのめされ、地域の司教に、「わたしの唯一の望みは、最も謙遜な業で神に仕えることです。」と訴えて、聖十字架修道会の上長への執り成しを願いました。
ブラザー・アンドレは四十年近く、 モントリオール 近郊の コート・デ・ネージ にある ノートルダム・カレッジ で、ポーターとして働きました。門番をしたこともある彼は、「この修道会に入ったとき、上長はわたしに門を指し示したのです。」とユーモアたっぷりに語っています。
ブラザー・アンドレは、自分のもとへ来る人々に、確信と忍耐をもって祈るよう勧めました。彼と一緒に祈った人々が癒されたという話は、すぐに広まりました。ブラザー・アンドレは、「わたしは無価値な人間です―神の御手の道具、聖ヨセフに仕える卑しい道具に過ぎません。」と主張しました。彼を支持する人々がいる一方で、他の多くの人々は彼に敵対しました。彼らはブラザー・アンドレを いかさま師と決めつけ、 学校の評判を貶める危険があると非難しました。この「ポーター」の下に大勢の病人が押し寄せて学校の緊張が高まったとき、学校の責任者は、校内ではなく、近くの路面電車の駅で病人を受け入れることを許しました。
ブラザー・アンドレは、聖ヨセフに大きな信頼と強い献身を寄せていました。 1900 年には、聖ヨセフに捧げる教会堂を建設するために募金を許されました。 1904 年には最初の施設が建設され、聖十字架修道会は、教会の中に部屋をひとつ増設する許可を与えました。その部屋はブラザー・アンドレが住む場所に指定されたのです。彼はそこに巡礼者を受け入れ、彼らのために祈ることが出来ました。日中はそこで尋ねてきた病者と会い、夜は教会に来ることが出来ない病人を訪れて日々を過ごしました。 1914 年、後に 聖ヨゼフ大聖堂 として知られるようになる教会の建設が始まりました。そして 1920 年代には毎年百万人以上の人々が教会を訪れ、毎年数百人の人々が、彼の祈りによって癒されたとされています。 聖ヨゼフ大聖堂 は現在、聖ヨセフに捧げられた聖堂の中で世界最大のものです。
教会が迎える二人の新しい聖人は、神から受けた信仰の恵みを炎のように燃え立たせた人たちです。彼らは、教会の中でも苦難を味わいましたが、愛し、信じることを止めませんでした。福音のためになんという苦難を忍んだことでしょうか! 二人は主を証しすることを決して恥じずに、あわれみ、喜び、望みの光を世に輝かせました。彼らの力は神から来たものです。彼らのうちには本当に聖霊が宿っていました。( 2 テモテ 1:6-8, 13-14 )
<資料>
バチカン放送局 2010/2/19 発表 http://storico.radiovaticana.org/gia/storico/2010-02/358455_6.html
「教皇、6人の新たな列聖を承認」
教皇ベネディクト16世は、バチカンで19日、福者の列聖をめぐる枢機卿定例会議を開かれた。この中で、以下6人の福者が新たに聖人の列に加えられることが確認された。
・ スタニスラウ・ソルティス (ポーランド1433−1489) ラテラン参事会員・司祭
スタニスラウ・ソルティス神父は、学究に優れ、神学生や修道者らの教育に才能は発揮した。人文主義の最初の風が吹く時代、キリスト者としての確固たる思想を持ち、それをその生活を通して証しした。
・アンドレ・ベッセッテ (カナダ1845−1937) 聖十字修道会・修道者
アンドレ・ベッセッテ修道士は、神学校の門番や雑用係を40年務めたが、何よりも神の人としての恵みを輝かせた。聖ヨセフに対する深い信心を持ち、その取次ぎによって多くの人々が癒された。
・カンディダ・マリア・デ・ヘスス・シピトリア・イ・バリオラ (スペイン1845−1912)
イエズス孝女会創立者・修道女
カンディダ・マリアは貧しい人々への愛に満ち、子どもたちや若い女性の教育に尽くした。彼女の創立したイエズス孝女会の活動は、日本にまで広がっている。
・メアリー・オブ・ザ・クロス(メアリー・ヘレン)・マッキロップ (オーストラリア1842−1909)
聖心の聖ヨセフ修道女会創立者・修道女
オーストラリアにおける初めての聖女となるマッキロップ修道女は、植民地時代のオーストラリアで、貧しい子どもたちに教育の機会を与え、その家族らにも奉仕した。また、当時誰からも省みられなかった刑務所収容者たちのためにも働いた。
・ジュリア・サルツァーノ (イタリア1846−1929) 聖心のカテキスタ修道女会創立者・修道女
ジュリア・サルツァーノは孤児院で育ったが、教育者としての優れた才能を持ち、貧しい人々に祭服などを縫うことを教え、その活動は教会内外で評価された。あらゆる人々に対し愛に満ちたカテキスタとして生きた。
・バッティスタ・(カミッラ)ヴァラーノ (イタリア1458−1524) 聖クララ会・修道女
バッティスタ・ヴァラーノは優れた神秘家として、キリストの受難の観想のうちに修道生活をおくった。
これらの福者の列聖式は今年10月17日に行われる。
聖書朗読
ハバクク 1:2-3; 2:2-4 : 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない。 1:3 どうして、あなたはわたしに災いを見させ/労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり/争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。 2:2 主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。 2:3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。 2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
二テモテ 1:6-8, 13-14 : (愛する者よ、) 1:6 そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 1:7 神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 1:8 だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 1:13 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 1:14 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
ルカ 17:5-10 : 17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
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If You Had Faith ( and Indeed You Do )
Biblical Reflection for 27th Sunday in Ordinary Time C By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, SEPT. 28, 2010 ( Zenit.org ) .-
Questioning our faith and even the object of it is a daily, healthy exercise! Faith cannot be shelved until we need it, for then we will discover that it has grown weak and meaningless from disuse and will not sustain us. The virtue of integrity involves a well-exercised faith that will enable us to survive even the most awful challenges. Even the strongest among us can be reduced to helplessness and silence.
Let us consider today's Old Testament and Gospel readings to gain some insights into the precious gift of faith. I will also offer you two outstanding, contemporary examples of servants and heroes of our faith: Blessed Mary MacKillop and Blessed André Bessette, who will be canonized on Oct. 17, 2010, in Rome.
訳注: 1 ) Mary Helen MacKillop ( 15 January 1842 – 8 August 1909 ) was an Australian Roman Catholic nun who, together with Father Julian Tenison Woods, founded the Sisters of St Joseph of the Sacred Heart. Since her death she has attracted much veneration in Australia and internationally. MacKillop is the only Australian to have been beatified ( in 1995 by Pope John Paul II ) . On 17 July 2008, Pope Benedict XVI prayed at her tomb during his visit to Sydney for World Youth Day 2008. On 19 December 2009, Pope Benedict XVI approved the Church's recognition of a second miracle attributed to her intercession. It was announced on 19 February 2010 that her canonisation is due to be formally declared on 17 October 2010, making her the first Australian saint. It has been announced that after her canonisation she will be known as Saint Mary of the Cross ( MacKillop ) .
2 ) André Bessette , c.s.c., also called Blessed Brother Andre, ( French: Frère André, born Alfred Bessette ) ( August 9, 1845 – January 6, 1937 ) was a Holy Cross Brother and a significant figure of the Roman Catholic Church among French-Canadians, credited with thousands of reported miraculous healings. He was declared venerable in 1978 and was beatified in 1982. Pope Benedict XVI approved sainthood for Blessed Andre on Friday, February 19, 2010, with formal canonization scheduled for Sunday, October 17, 2010.
Habakkuk's cry is not in vain
The words of the prophet Habakkuk in today's first reading ( 1:2-3; 2:2-4 ) have been taken as the prophet's complaint against the internal evils of Judah; the language used is that employed by Amos, Isaiah and Jeremiah to condemn the social abuses of their day.In Habakkuk 1:5-7 the Lord answers this complaint by indicating the Chaldean empire as his instrument for punishing his people for these sins. However, Habakkuk's cry is not in vain. The Lord speaks to him: "Write the vision; make it plain on tablets, so that a runner may read it. For there is still a vision for the appointed time; it speaks of the end, and does not lie. If it seems to tarry, wait for it; it will surely come, it will not delay" ( 2:2-3 ) . That is all that Habakkuk gets -- and most of the time it is all that we get -- "wait patiently for the vision." It seems woefully insufficient. This is why our faith must be a living, growing, developing part of us.
“Increase our faith!”
The sayings of Jesus in Luke's Gospel ( 17:5-10 ) continue his response to the apostles' request to increase their faith ( Luke 17:5-6 ) , and remind them that Christian disciples can make no claim on God's graciousness; in fulfilling the exacting demands of discipleship, they are only doing their duty.
Jesus addresses four independent sayings ( verses 1-2; 3-4; 5-6; 7-10 ) to his audience.
Luke has woven these four teachings into a narrative: On two subjects Jesus gives very demanding instructions about sinning against a brother or sister ( verses 1-2 ) and treatment of one who sins against you ( verses 3-4 ) . The teachings are so difficult that the disciples ask for greater faith, in response to which Jesus calls out and affirms the faith they have ( verses 5-6 ) .
Both the first and the second teaching have to do with living together in the community of faith. In the Christian community, two kinds of difficulties will arise often, threatening the harmony of the community. One difficulty grows out of the fact that not all members are at the same level of maturity; there are always “little ones,” that is, the newly baptized. The speech and behavior of more mature members could cause one of the neophytes to stumble and fall. “Being the cause of stumbling” is what lies at the heart of “temptation to sin” ( verse 1 ) and “cause to sin” ( verse 2 ) . Parallels to this text are found in Matthew ( 18:6-7 ) and Mark ( 9:43 ) .
The second kind of difficulty that threatens the Christian community stems from those occasions when disciples sin against one another ( verses 3-4 ) . This teaching is very realistic; members of the community hurt one another. It is no wonder that the apostles, upon hearing the instructions in verses 1-4, say to Jesus, “Increase our faith!” ( verse 5 ) . In using the term "apostles" and "Lord" in this sentence, Luke speaks not only about Jesus and his immediate followers at that moment in history, but also the Risen Lord of the Church and the apostles and leaders of our contemporary Church.
Not a reprimand but an affirmation
In Verse 5 Jesus' followers feel the burden of leadership. Jesus' response to them calls for a close examination of their responsibilities and challenges: “If you had faith.” The Greek language offers two types of “if” clauses: those that express a condition contrary to the fact ( “If I were you” ) and those that express a condition according to fact ( “If Jesus is our Lord” ) . The conditional clause in Verse 6 is the second type; we could translate it “If you had faith [and indeed you do].” Jesus' response, then, is not a reprimand for an absence of faith, but an affirmation of the faith they have and an invitation to live out the full possibilities of that faith. Even the small faith they already have cancels out words such as “impossible.”
The slave-master relationship
The fourth and final teaching ( verses 7-10 ) is in the form of a parable and has no parallel in Matthew and Mark. It opens in a manner common to a number of Lukan parables: “Will any one of you?” or “Which one of you?” ( 11:5-7; 14:23, 31; 15:4,8 ) . The assumed answer is "no" or "no one." The parable is built around the slave-master relationship, rather common in New Testament parables but without a clear analogy in our culture.
We are only servants
I am sure that Jesus' words kept echoing in the hearts of the apostles when they set out to proclaim the Gospel. They travelled from one city to another, from one region to the next, spending themselves in the service of the Kingdom and always taking to heart the admonition of Jesus: “When you have done all that is commanded you, say: 'We are unworthy servants; we have done only what was our duty'” ( 17:10 ) . Jesus' words raise questions that cannot be avoided: Have we really done what was our duty? And what must we do now? What tasks lie before us? What resources and what forces do we have at hand? The questions are complex and so the answer to them must be carefully thought through.
Jesus came among us as one who serves. And so, too, do his followers; they must be first and foremost servants of others, not masters. There is no place or time at which the disciple can say: “I have completed my service, now I want to be served.” This applies especially to those of us who have been entrusted with the leadership of God's people in any way. The request for an increase of faith ( verse 5 ) must not seduce apostles or leaders to assume that with the increase comes elevation in position so that the period of serving ends. Apostles and leaders come under the instructions for all disciples. No matter where we find ourselves, a servant is a servant.
Australia's first saint
On Sunday, Oct. 17, Benedict XVI will canonize six saints in St. Peter's Square. They include the Polish Blessed Stanislaw Soltys, who died in 1489; Spanish Blessed Candida María of Jesús, who died in 1912; Italian Blesseds Camilla Battista da Varano, who died in 1524 and Giulia Salzano, who died in 1929; Canadian Blessed André Bessette, who died in 1937; and the Australian Blessed Mary of the Cross MacKillop who died in 1909. MacKillop together with Father Julian Tenison Woods, founded the Sisters of St Joseph of the Sacred Heart in Australia.
One aspect of Blessed Mary MacKillop's life speaks powerfully to us in light of today's readings. When she was excommunicated by the Church, her own sisters were forbidden to speak to her and many of them were also sent away from the congregation. Mary received refuge from friends and, eventually, from a Jewish businessman who provided a house for her and some of the women forced to leave. The Jesuit fathers realized that an injustice had been done and continued to give her the sacraments. Five months after the excommunication the bishop realized his error and, from his deathbed, sent one of his priests to remove the sentence of excommunication. During the time of excommunication, Mary would not have an unkind word said about the bishop and continued to pray for him.
This strong Australian woman never became bitter against the Church leaders who opposed her so vigorously. During his visit to Sydney for World Youth Day 2008, Benedict XVI, in speaking of Blessed Mary MacKillop, said "I know that her perseverance in the face of adversity, her plea for justice on behalf of those unfairly treated and her practical example of holiness have become a source of inspiration for all Australians." We give thanks to God that Mary MacKillop will be proclaimed a saint on Oct. 17.
Brother André Bessette of Montreal
Canadian Holy Cross Brother André Bessette, founder of St. Joseph's Oratory in Montreal, was born into a large Catholic family in 1845 in the Quebec village of Saint-Grégoire d'Iberville. When he had applied for vows in the Holy Cross Congregation, his religious superiors decided they could not accept him knowing that his poor health would be an impediment to future ministry. Alfred was devastated. Alfred begged the local bishop to intercede with the Holy Cross superiors, saying “My only ambition is to serve God in the most humble tasks.”
For nearly 40 years Brother André worked as a porter at the College of Notre-Dame in the Montreal neighborhood of Côtes-des-Neiges. Speaking about his assignment as doorman, he once quipped, "When I joined this community, the superiors showed me the door."
Brother André urged people who came to him to pray with confidence and perseverance. Word spread quickly when many of those with whom he prayed were healed. Brother André insisted, "I am nothing ... only a tool in the hands of Providence, a lowly instrument at the service of St. Joseph."
While some supported him, many others opposed him and even considered him dangerous to the well-being of the school's reputation because they regarded him as a charlatan. As the tensions increased at the college with so many of the sick coming to see the porter, the school officials permitted him to receive the sick in the nearby tramway station rather than the college.
Brother André had great faith and a strong devotion to St. Joseph. In 1900 he received permission to raise money for a shrine to St. Joseph. The first shelter was constructed in 1904. Holy Cross authorities allowed for a room to be added to the chapel and Brother André was assigned to live in that room where he could receive pilgrims and pray for them. He spent his days seeing sick people who came to him, and spent his evenings visiting the sick who could not make it to the oratory.
Construction on what would become known as St. Joseph's Oratory began in 1914. By the 1920s the oratory hosted more than 1 million pilgrims annually, and hundreds of cures were attributed to his prayers every year. St. Joseph's Oratory is now the largest shrine to St. Joseph in the world.
These two new saints of the Church stirred into flame the gift of faith they had received from God. They suffered at the hands of the Church, yet continued loving and believing. What hardship both bore for the sake of the Gospel! They were never ashamed of their testimony to the Lord and they radiated charity, joy and hope. Their strength came from God. Truly the Spirit dwelt within them. ( Second Timothy 1:6-8, 13-14 ) .