結婚と家庭 人類の将来

年間第 27 主日聖書黙想  2009/10/4   トマス・ロシカ師 

 

年間第27主日の朗読箇所について詳細にコメントするよりも、今回は、今日の朗読箇所を読んで感じた結婚と家族に関する一般的な意見を述べてみたいと思います。今日の福音朗読 ( マルコ 10:2-16) で、ファリサイ派の人たちは、またしても、離婚とその正当性のことを、イエスに突きつけています。 「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」

 

これに対して、イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。すると、ファリサイ派の人たちは、モーセは、夫は離縁状を書いて、その妻を離縁することを許していると答えます。

イエスは、モーセの律法が離婚を許している ( 申命記 24:1) のは、あなたたちの心が頑固であるからだ ( マルコ 10:4-5) と断言します。イエスは、創世記 1:27 及び 2:24 を引用して、人間の婚姻が、恒久不変であることは、天地創造の初めから神のご意思であると宣言します(マルコ 10:6-8 )。

イエスはこの点について、再度、神が結び合わせて下さったものを人は離してはならないと明確に宣言します。

(訳注:)

*申命記 24:1=「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
*マルコ 10:6-8=「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 

イエスは、結婚で男女を結びつけるときの、完全なる一致と平等という神のご計画に訴えて、この、わなを仕組んだ質問に賢明に、かつ慎重に答えています。イエスは、夫と妻は非常に緊密に結びついているので、二人は、本当に一つとなり、分割できないものとなると断言します。

 

わなにはめようと仕組まれた単刀直入な質問に対しする答えの中で、イエスは、結婚の本質についてだけに触れました。イエスが強調したのは、結婚の神聖さとその誓約の誠実さであって、離婚の不法性ではありません。結婚の到達点は、離婚や婚姻無効 (註: 特に成立当時の原因による) ではありません。

 

離婚、婚姻無効、そして再婚:

 

イエスは、最善を尽くした上で離婚に至った人々を非難しませんでした。イエスは、そのような人たちを裁いたり、教会共同体から追い出したり、地獄に送ったりはしませんでした。イエスは、その夫婦が教会で聖職者の前に立ち、結婚の誓いを宣言したとき、二人が心に描いた自分たちの将来像を確認しただけです。

 

今日、カトリックの婚姻無効は、多くの人の目に単なる(カトリックの)離婚と同じように映っています。離婚という言葉は、先ず結婚の現実が最初にあり、現在はその現実が壊れてしまっていることを表します。一方、婚姻無効は、結婚の現実が一度も存在していなかったと宣言することです。

教会は、婚姻当初のなんらかの障害を理由として、多くの結婚を無効であると宣言しています。

長い司牧生活の中で、わたしは、教会の中で強い疎外感を感じている多くの離婚者に出会ってきました。わたしたちの多くは、離婚など考えたこともないし、したいとも思わないでしょう。多くの場合、離婚は突然、否応なく、悲劇的に二人を襲います。わたしは、離婚を楽しみにしていると語る人に会ったことがありません。その人たちは、他の選択肢が見つからなかっただけです。

 

離婚者の中には、善意からとはいえ、「教会から破門される」と、(誤って)聞かされる人たちもいますが、それはもちろん真実ではありません。その人たちの痛みは非常に大きく、理解と受容を大変必要としています。その人たちには、その疑いをはらし、キリストへと導くために、曖昧さのないカトリックの教えが必要です。そして「友人」、すなわちその人々のために、その人々と共に祈る人たちが必要です。破綻と失意のさなかにある生活には、神が必要です。その人々は、わたしたちの理解と祈りに満ちた世話を受けるに値する人々なのです。

 

各小教区共同体に、婚姻無効に関する明確な教えを行き渡らせる必要があります。手間のかかる、痛みを伴う手続きが必要になることもあるでしょうが、婚姻無効は、神のお恵み、癒し、清算、そして精神と心の平安を得る手段となるかも知れません。人類の未来は結婚と家族に託されているのです。

 

"Humanae Vitae" (1968) から "Evangelium Vitae" (1995) に至る 教皇の回勅の中で、そして中でも特に使徒的勧告 "Familiaris Consortio" (1981) と、すばらしい "Letter to Families" (1994) の中で、教皇パウロ 世とヨハネ・パウロ 世は、今日の文化における結婚と家族に大きな注目点を置いています。

ヨハネ・パウロ2世は、教皇職着座の最初の年から、「家族は教会の道です。」と、絶えず強調していました。家族は、福音の価値に基づく交わりを学ぶ場所です。

 

昨年、回勅 "Humanae Vitae" 40 周年記念行事の折に、カナダの司教団は、大変重要な文書 (#19) を発表しました。「要するに、教皇パウロ6世の回勅 "Humanae Vitae" と、それをさらに発展させた教皇ヨハネ・パウロ 2 世の『身体の神学』 'theology of the body' は、『性』が支配する異常な生活から身を守ることに精一杯な世界に対する、大きな挑戦である。」 

 

この二人の預言者的な教皇にならって、「人間らしさの専門家」である教会は、次のような思いがけないメッセージを発表しました。「『性』は、(人間の)友であり、神からの賜物です。それは、三位一体なる神によって、わたしたちに明示されます。三位一体の神は、この第3千年期の始まりにいる現代の人たちに向かって、今度は私たちが、あらんかぎりの威厳と尊厳をもってそれを明示するようにと求めています。身体の神学は、 21 世紀を通して、キリスト教の明確な効果をもたらす革命に匹敵するものとみなされています。わたしたちは、信者の皆さんにその解放の可能性を先ず体験して欲しいのです。」

 

結婚、家庭と司祭召命への希望のしるし。

 

結婚に関するイエスの教えを受け入れるには、子供のような率直さ、子供が両親に頼る感覚に匹敵するような、神の力に頼る感覚が必要です。愛が本物で、強く、誠実で、しっかりしているときには、それには、理想、すなわち喜びと創造性、新しい命と聖性を求める願望が伴います。結婚した夫婦が、二人の作り出す未来像の中心にキリストを据えることができれば、二人は、神から流れ出る平和を深く味わうことでしょう。その平和は、二人の子供たち、そして孫たちへと流れていきます。

 

西洋世界の召命の危機に対して、わたしたちは、召命を促進する方法ばかりでなく、召命の種がまかれるところの「地形」も、もう一度考える必要があります。召命の実をよく結ぶ豊かな土壌は、家族であり、家庭的な教会なのです。

これを実現するには、家庭にキリストが居られることが必要です。そして、秘跡、特に聖体の秘跡の恵みと、福音および教会の教えへの忠実さが必要です。

 

社会や教会の中で、婚姻の秘跡にも家庭生活にも、あまり希望を抱かないという声を聞くことがあります。そのような破滅的で絶望的な考えには、どうか耳を貸さないでください。わたしたち一人一人には、司祭と聖職者の献身の文化と並んで結婚と家庭の真の文化を育てる責任があります。

 

とりわけ昨年一年間、私は、世界の様々な地域で、若者たちの間に結婚と家庭生活への希望に満ちたしるしを見ました。わたしは、大学生の黙想を二つも指導する機会に恵まれました。その一つは、イギリスのシェフィールドにある Hallam 大学の John Paul II Catholic Chaplaincy (ヨハネ・パウロ2世カトリック大学付き司祭会)のための黙想会で、もう一つは、カナダのブリティッシュ・コロンビアにあるビクトリア大学のカトリック学生同盟のために黙想会でした。

 

大学付き司祭たちの賢明な指導者である、 Hallam 大学の Sr. アン・リーと、ビクトリア大学の Fr. ディーン・ヘンダーソンは、世界各国からの素晴らしい若者たちを集めていました。それは、ヨハネ・パウロ 2 世とベネディクト 16 世の世代の若い男女で、イデオロギーの締め付けが取り除かれ、わたしたちの世代の不毛な、霊的荒れ地から解放された世代です。彼らの目は、イエスに釘付けとなっており、教会に光と陰はあるけれども、彼らはそれでも教会を愛しています。

 

結婚と家庭生活について、この数ヶ月間、 Hallam 大学とビクトリア大学の学生たちと、これまでに経験したことのない率直さで語り合いました。多くの学生が、離婚したり、教会から阻害されたり、あるいは単純に教会とは縁遠くなったりしている両親について率直に話しました。学生たちは、両親の過ちや失敗から学び、神聖な結婚と家庭生活の進むべき道を追究したいと思っていました。学生たちは、

その生活の中心に、キリスト、秘跡と共にある日々、そして教会の教えを据えたいと望んでいました。

 

わたしはまた、カナダの the Salt and Light Television Network の若い人々に非常に心を動かされ、啓発されました。

彼らの単純、明解な信仰、深い喜び、真正の献身、キリストと教会への目に見える愛、そして福音宣教への燃えるような願望に目を開かされました。わたしはこの6年間に、 Salt and Light の仲間の何人かの誓願と叙階に立ち会い、わたしのスタッフの 7 組の結婚に立ち会うことができました。このうちの何人かは、 2002 年のワールド・ユースディの準備で共に働きました。そして、今は、洗礼の季節を迎えています! 召命が生まれるのは、この世代の子供たちからです。その土地がこんなにも肥沃で、その両親がこんなにも福音と教会を受け入れているのに、召命がないなどということがあり得るでしょうか?

 

黙想、話し合い、そして祈りのために

 

社会には他にも、愛と相互依存、献身と相互責任の「きずな」が存在していることを、決して忘れてはなりません。それらの「きずな」は良いもので、法律で認められていることさえもあります。それらが結婚と同じものではないことははっきりしており、別のものです。法的な目的による専門用語のいかなる拡大解釈も、一人の男性と一人の女性の揺るぐことのない一致のみが持つ祝うべき現実を変えることはありません。祝うべき現実とは、二人の成人の間の相互依存の「きずな」だけではありません。子供を生み出すことのできる能力でもあります。

 

今週は、人間的な家族生活を築くこと、婚姻関係を強固にすること、子供たちを祝福し、養育すること、そして、家庭、家族、それに小教区共同体を聖化し、あらゆる人種、言語、志向、生活の仕方の人々を、男女の別なく歓迎する場所とすることを、もう一度自分の身に引き受けましょう。

 

司牧上の戦略、プログラム、説教において、男女の結婚におけるイエス・キリストの聖別の力を、どのように取り込んだらいいのでしょうか? 子供たちに、結婚についてのイエスの教えを、率直に語る覚悟はできていますか? 今日、結婚生活に影響を及ぼす、弱さや痛みを伴う状況には、どんなものがありますか? そのような結婚は、救えるでしょうか? 壊れた妻と夫の関係が癒されることがあるでしょうか? このすべてにおいての信仰の役割は何でしょうか?

 

今日は、結婚している人たちのために祈りましょう。 

どうか、この人たちが、結婚の秘跡性と、この世界に神の愛を反映するその能力を自覚することができますように。

互いに助け合い、主が与えてくださった恵みと重荷と十字架を担い続けましょう。 

愛し、そして失った人たちを、また別離、離婚、疎遠の痛みに苦しむ人たちを決して忘れないように。

その人たちが、教会共同体のうちに癒しを見出し、実り豊かな結婚生活を送る多くのメンバーから、温かく迎えられますように。

 

 

 

◇◇◇


Marriage and the Family: Humanity's Future

Biblical Reflection for 27th Sunday in Ordinary Time B

By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, SEPT. 30, 2009 (Zenit.org).- Rather than commenting in detail on each of the readings for the 27th Sunday in Ordinary Time (B), I would like to offer some general reflections on marriage and family life that flow from today's readings. In today's Gospel (Mark 10:2-16) the Pharisees once again confront Jesus with the divisive issue of divorce and its legitimacy: “Is it lawful for a husband to divorce his wife?”

 

“What did Moses command you?” Jesus asked. They replied that Moses permitted a husband to write a bill of divorce and dismiss the wife. Jesus declares that the law of Moses permitted divorce (Deuteronomy 24:1) only because of the hardness of hearts (Mark 10:4-5). In citing Genesis 1:27 and 2:24, Jesus proclaims permanence to be the divine intent from the beginning concerning human marriage (Mark 10:6-8). He reaffirms this with the declaration that what God has joined together, no human being must separate (verse 9).

 

Jesus wisely and prudently responds to the loaded question by appealing to God's plan of complete unity and equality in drawing men and women together in marriage. He affirms that husband and wife are united so intimately that they actually become one and indivisible.

 

In answering a direct question that was deliberately designed to entrap him, Jesus was speaking of the nature of marriage and of that only. His emphasis is on its holiness and covenant fidelity and not on the illegitimacy of divorce. The goal of marriage is not divorce and annulment!

 

Divorce, annulment and remarriage

 

Jesus did not condemn people who did their best and ended up divorced. He was not judging such people, throwing them out of the community of the Church, or assigning them places in hell. He was only affirming the outlook taken by couples themselves when they stand before the Church's minister and pronounce their wedding vows.

 

Today Catholic annulments look to many like a simple Catholic divorce. Divorce says that the reality of marriage was there in the beginning and that now the reality is broken. Annulment is a declaration that the reality was never there.

The Church declares many marriages invalid because of some impediment present at the time of the marriage.

 

Over the years of my pastoral ministry, I have met many divorced people who feel very alienated from the Church. For many, divorce was the last thing they ever dreamed of or wanted. In many instances, it hit them unexpectedly, forcefully and tragically. No one I met ever told me that they looked forward to a divorce. They simply didn't see any other alternative.

 

Some divorced men and women have erroneously been told by well-meaning people that they are excommunicated from the Catholic Church, which is certainly not true. Their pain is often enormous; their need for understanding and acceptance is great. They need unambiguous Catholic teaching to enlighten them and lead them to Christ. They need friends, people to pray for and with them, and they need God in their lives in the midst of rupture and brokenness. They deserve our understanding and our prayerful care.

 

A positive teaching on annulments should be offered in every parish community. Though it may be a tedious and painful process for some people, an annulment can be an instrument of grace, healing, closure, and peace of mind and heart.

The future of humanity passes through marriage and the family

 

In the papal encyclicals from "Humanae Vitae" (1968) to "Evangelium Vitae" (1995) and especially the apostolic exhortation "Familiaris Consortio" (1981) and the magnificent "Letter to Families" (1994), Popes Paul VI and John Paul II have dedicated much attention to marriage and the family in today's culture. From the first year of his pontificate, John Paul II constantly emphasized: “the family is the way of the Church." The family is a school of communion, based on the values of the Gospel.

 

Last year on the occasion of the 40th anniversary of the encyclical "Humanae Vitae," the bishops of Canada released a very important document in which they wrote (#19): “In short, Pope Paul Vl's encyclical 'Humanae Vitae' and the subsequent 'theology of the body' developed by Pope John Paul II issue an immense challenge to a world that is too often occupied with protecting itself against the extraordinary life potential of sexuality.

 

In the wake of these two prophetic Popes, the Church, 'expert in humanity,' issues an unexpected message: Sexuality is a friend, a gift of God. It is revealed to us by the Trinitarian God who asks us to reveal it in turn in all its grandeur and dignity to our contemporaries at this start of the third millennium. The theology of the body has been compared to a revolution that would have positive effects throughout the 21st century of Christianity. We invite the faithful to be the first to experience its liberating potential.”

 

Signs of hope for marriage, family life and vocations

 

To accept Jesus' teaching on marriage requires the openness of children and a sense of dependence on God's strength matching the child's sense of dependence on parents. When love is authentic, strong, sincere and firm, it is accompanied by vision, joy and creativity, new life and a desire for holiness. When married couples allow Christ to be at the center of their project, they experience deeply the peace outpoured by God -- a peace that flows forth to their children and grandchildren.

 

The crisis of vocations in the Western world requires that we rethink not only our manner of promoting vocations, but the terrain where seeds of vocations are sown. This fertile soil for vocations is the family, the domestic Church.

This reality is brought about by the presence of Christ in the home, from the graces of the sacraments, especially the Eucharist, and from fidelity to the Gospel and the teachings of the Church.

 

There are some voices in our society and Church that don't have much hope for the sacrament of marriage and for family life. I beg to differ with such voices of doom and despair. Each of us is responsible for fostering a true culture of marriage and family life as well as a culture of vocations to the priesthood and religious or consecrated life.

 

Over the past year in particular, I have witnessed some very hopeful signs for marriage and family life among young adults in various parts of the world.

I had the privilege of leading two retreats for university students -- one for the John Paul II Catholic Chaplaincy of Sheffield's Hallam University in England and the other for the Catholic Students' Association of Victoria University in British Colombia in Canada.

 

The wise, ecclesial leadership of university chaplains -- Sister Anne Lee, NDS in Hallam and Father Dean Henderson in Victoria -- gathered together some remarkable young adults from many countries of the world. They are the young men and women of the generations of John Paul II and Benedict XVI, freed from the ideological strangleholds and liberated from the barren, spiritual wastelands of my generation. Their eyes are fixed on Christ and they love the Church with all of her shadows and light.

 

I never had more open conversations about marriage and family life than I did with those students in Hallam and Victoria these past months. Many spoke openly about their parents who were divorced and alienated or simply absent from the Church.

The students said that they learned from the mistakes and losses of their parents, and wanted to pursue the path of a holy marriage and family life. They desire to have Christ, the sacramental life, and the teachings of the Church at the center of their lives.

 

I have also been very moved and edified by the young men and women who form the staff of the Salt and Light Television Network in Canada.

  Their simple and clear faith, deep joy, sterling commitment, visible love of Christ and the Church and ardent desire for evangelization is inspiring. Over the past six years, I have been privileged to witness the religious professions and ordinations of several Salt and Light colleagues, and to celebrate seven marriages of my staff -- several who worked with me in preparing World Youth Day 2002. And now we are into the season of baptisms! It is from this generation of children that will come forth vocations for the Church. How could there not be vocations when the terrain was so fertile and the parents so open to the Gospel and to the Church?

 

For reflection, discussion and prayer

 

We must never forget that other bonds of love and interdependency, of commitment and mutual responsibility exist in society. They may be good; they may even be recognized in law. They are clearly not the same as marriage; they are something else. No extension of terminology for legal purposes will change the observable reality that only the committed union of a man and a woman carries, not only the bond of interdependency between the two adults, but the capacity to bring forth children.

 

This week, let us recommit ourselves to building up the human family, to strengthening marriage, to blessing and nurturing children, and to making our homes, families and parish communities holy, welcoming places for women and men of every race, language, orientation and way of life.

 

In our pastoral strategies, programs and preaching, how do we welcome the sanctifying role of Jesus Christ in the marriage of a man and woman? Are we ready to offer Jesus' teaching on marriage with the openness to children? What are some of the weaknesses and painful situations that afflict marriages today? Can these marriages be saved and the brokenness in the husband-wife relationships be healed? What is the role of faith in all of this?

 

Let us pray today for married people, that they may grow in this awareness of the sacramentality of marriage and its capacity to reflect the love of God to our world.

Let us continue to help one another to bear the blessings, burdens and crosses that the Lord has given to us.

  And let us never forget those who have loved and lost, and those who have suffered the pain of separation, divorce and alienation. May they find healing in the community of the Church, and welcome from those whose marriages have borne much fruit.


 

朗読

 

創世記 2:18~24: 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 

ヘブライ人 2:9∼11: 「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥と(されないのです。)

 

マルコ 10:2∼26:ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

 

home page