自己批判と謙遜の大切さ

年間第26主日聖書黙想 2009/9/27   トマス・ロシカ師

 

 

聖書に登場する預言者は、神の言葉を伝え、説き明かす者となるように神から召された人です。預言者は神から受けた言葉を語らずにはいられないのです。

 

アモスは語ります。「(獅子がほえる/誰が恐れずにいられよう。)主なる神が語られる/誰が預言せずにいられようか。」 ( アモス 3:8)  

エレミヤは、愛する人々の変わることのない悲しいメッセージに落胆し、言葉を押し殺します。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」 ( エレミヤ 20:9)   メッセージの形はどうであれ、真のイスラエルの預言者が抱く神の理想像は、彼の思考の仕方の隅々までにしみ通っているために、彼は神の観点から物事を見ており、そのことを確信してもいます。預言者の使命の基本となっているのは、神の御言葉への従順です。

 

神の民全てが預言者であるとしたら!

 

今日の第一朗読 ( 民数記 11:25-29) の中で、神は、モーセを驚かせた人々の上に、預言の霊を送ります。モーセはその前に、自分一人では砂漠の中のイスラエルの民に食事を用意することができないと不平を言いました。その状況を少しでもよくするために、神は、 70 人の長老たちにモーセの預言の霊を授けると約束されました。神がモーセの霊を授けたときに、エルダトとメダドは、まだ幕屋にいなかったのですが、それでも賜物を受け、預言を語り始めました。

 

モーセの従者ヨシュアは、いわゆる権威に対する反乱を押さえつけたいと思いました。その時、モーセは、こう答えます。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」 ( 民数 11:29) モーセは、長老たちに預言の霊が最初に託されたときに、そこに居なかった人たちにも預言の霊が分け与えられたことを喜びます。ヨシュアは、ねたみ心をとがめられます。霊的な権威は、重大な過ちを犯すことがあります。それは、注意深く、謙遜に、そして公正に取り扱われなければなりません。ここでの学びは、霊を分け与える神の能力は制限されないということです。測り難い神の力です。

 

現在の富の価値のなさ

 

ヤコブの手紙からの今日の第二朗読 (5:1-6) にある、不正に富んでいる人たちへの厳しい告発は、旧約聖書の預言者たち(例えばアモス 8:4-8 )を思い起こさせます。これは、この言葉が向けられている「富んでいる人たち」の心を動かそうとしている訳ではありません。むしろ忠実な信者たちに、富を浪費している人々の恐ろしい末路を示す、有益な警告であり、ことによると、いま冨める者に抑圧されている人たちへの慰めであるのかも知れません(ヤコブ 2:5-7)

ヤコブ 5:1-6 4:13-17 とは、その 導入部が全く同じ様式であること、また、全体を通して直接話法を用いられていることが、この二つの箇所の類似点になっています。しかしながら、今日の個所はトーンが一層厳しく、悔悛の機会を許さないように思えます。 5:2-3 では、動詞の完了時制(朽ち果て、虫がつき、さびて)が用いられていて、これは、いま有る富が無価値なことを示しているのでしょう。更に、金や銀は実際にはさびないにも関わらず、それらに用いられている表現( 3 節)は、金や銀が基本的に無価値であることを示しています。

 

このヤコブの手紙は、特に、イエスの直接の弟子仲間以外に現れた霊的賜物に関しては、他の二つの朗読(第一朗読と福音)とは並行していません。にもかかわらず、そこには自分が雇った労働者たちを虐待し、賃金を支払わず、しかも権力の乱用を悟ることのない、富んでいる人たちに対して厳しい言葉が述べられています。ヤコブは、雇用、給料、そして労働に対する正当な報酬といった世俗世界について、ずばりと語っています。ヤコブの手紙の作者は、富んでいる人たちが雇い人たちを虐待していると断言しています。彼らは、当然支払うべき賃金を支払わないために、その金銀はさび、衣服は虫の餌食となり、食い荒らされます。富んでいる人たちは、神が貧しい人たちの神であり、貧しい人たちのために取りなすことを悟っていないのです。

 

マルコの教会共同体における問題

 

今日の福音朗読 ( マルコ 9:38-43, 45, 47-48) は、多少漠然とまとめられており、それはマルコの教会共同体の問題を反映しているように見えます。最初の部分では、ヨハネとイエスの間で、部外者で悪霊を追い出している者についてのやりとりがあり ( マルコ 9:38) 、それに続けて、イエスが、弟子たちのエリート意識を拒絶します。 ( マルコ 39-40)

第二の部分 ( マルコ 41) では、弟子に、一杯の水を飲ませてくれる者はだれであれキリストに属すると述べ、第三の部分 ( マルコ 42) では、神に全面的に依り頼む者として、小さな者を引き合いに出し、その人をつまずかせてはならないと述べています。

 

部外者の悪魔払いをやめさせようとする弟子たちに対するイエスの説明には、いくぶん皮肉が混じっています。マルコ 9:14-29 では、弟子たちが、少年から汚れた霊を追い出し損ねてイエスに鋭くとがめられました。そして今度は、自分たちの仲間ではないというだけで、成功している悪魔払いをやめさせたいと考えました。問題は明らかに、悪魔払いがイエスの名と力のもとに行われているかどうかではなく、その人が自分たちの選ばれた既成集団に属しているかどうかなのです。ここに、弟子たちの排他的な態度が、露わにされています。部外者の悪魔払いの成功は、弟子たちの「公的な」地位に対する脅威なのです! イエスは、すべてを含んだ言葉で答えます。しかも、それは、権威を与えられていない司牧の問題を現実的に認める言葉でした(マルコ 9:39) 。 弟子たちは、寛容と慈悲深さの賜物を育む必要があります。

 

自己批判の必要性

 

今日の福音朗読の後半には、自己批判の態度を求めるさまざまな格言がまとめて出てきます。弟子たちは、自分の生き方と司牧のやり方を振り返るように教えられます。弟子たちの言葉や行動に、教会の子供たちにとっての悩みの種となっているものはありませんか? マルコは、スキャンダルや手、目、足の誤用を戒めるイエスの言葉を使っています。イエスは、(手足の)切断を命じているのではありません。 マルコは、セム族に典型的な語り方をします。それは、生々しく、生き生きとした、大げさとさえも思える語り方です。誰も、何もキリストの前に来てはいません。イエスの、「切り捨ててしまいなさい」という命令は、切断のことではなく、むしろ解放への招きです。それは、無制限に、自己愛に閉じこめられることなく愛するように、私たちを解放します。自己愛の中に居ると、あらゆるもの、ことによると全ての人、神さえもが、私のまわりをぐるぐると巡らなければならないのです。

この物語の魅惑的な逆説は、次のようです。わたしたちの内におられる神に、そして、貧しいが故に、神が特別なやり方で大切にされる人たちに、また 「極めて良い」 ( 創世記 1:31) と神がご覧になったこの地上に 心を向ければ向けるほど、私たちの内なる喜びはより豊かになります。人間の生活は、神と、人と、そして(「天」に呼応する)地との関係の中で成り立っているのです。

 

内容はばらばらであるにもかかわらず、今日の福音朗読は、神に選ばれた者として自分を過大評価するという相も変らぬ誘惑に対抗する強い解毒剤になります。人間の本性には、他人を裁きたい傾向が見られます。時に、この裁きたい傾向は、エリート意識に陥る結果を招き、他の人たちは自分たちの仲間には値しないのだと結論づけてしまうこともあります。私たちは、トラブルを起こし、他人のことを考えず、足や手や目で、盲目的にどんどん先へ進んでしまいます。私たちは、手が働くのも、目が理解するのも、足が歩くのも、神が特別なやり方で聖化して下さっているのだ、ということを無視しています。私たちは、自分の身分や地位によって、他人をよそ者、部外者として排除します。活動的で、おそらくは成功している他のグループをあれこれ批判する代わりに、自己批判と謙遜の大切さを、まざまざと気付かされることになります。  

謙虚さについての結論

 

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」 ( マタイ 11:29) とイエスは言われました。聖人のほとんどは、自分の生活の中で謙虚さを祈り求め、また証ししました。私たちの多くは、たとへそこから逃れて別な生き方をしたいと望んでも、自己宣伝、強引さ、競争力、業績発表に価値を置く社会と文化の中で暮らしているのです。

 

謙遜の徳が持つ特質は、それによって、自分の欠点を知る人が謙虚な気持ちになり、神のために、喜んで神と人に身を捧げることにあります。謙遜で柔和であることと、この世で成功するために攻撃的であることとを両立させることが出来るでしょうか。あるいは、どちらかを採り、他方を犠牲にしなければならないのでしょうか。正しい高潔な生き方によって、私たちは、謙虚なリーダーとして、良い仕事をすることができます。しかしそれは、成功することや、責任のある高い地位につくこととは違います。  

マザー・カブリニの謙虚さ

 

わたしはイタリー系アメリカ人の家庭に育ったのですが、その時、祖父母や両親からよく聖人と福者の物語を聞きました。その中では、二人のイタリア人がリストの最上位にいました。マザー・カブリニとパードレ・ピオ神父です。

 

聖フランシス・ザベリオ・カブリニ (1850 - 1917) (訳注参照) は、カトリック教会が列聖した最初のアメリカ人の聖人です。子供のときに、マザー・カブリニの謙遜への祈りがわたしたちに与えられ、それ以来、わたしはそれを自分の聖書の中に入れて持っています。マザー・カブリニの生涯とこの祈りの言葉は、今日の聖書朗読の中に見出される考え方の多くを備えています。

 

「主イエス・キリスト、わたしは主の聖霊の恵みを以ってあなたがわたしを強めてくださるように、そしてあなたの平和をわたしの魂に与えてくださるように、そうすることで、自分が不必要な心配や不安から解放されますように。わたしがいつも、あなたが喜び受容れてくださるものを望みますように。それによってあなたの望み(意思)がわたしの望みとなりますように、わたしを助けてください。」

 

「汚れた望みから解放され、あなたの愛のために、この世の中では人目につかず、知られず、ひたすらあなただけに知られるようにしてください。」

 

「主よ、わたしの中で、わたしを通してあなたが行われる善を、わたしが自分に帰することのないよう、その全てをあなたの光栄としますように。 どうぞわたしが、自分の弱さだけを認め、それによって、全てのこの世の虚飾を誠実に棄て去りますように。 あなたから来る真の、永続する光栄だけを望みますように。 アーメン」

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

Saint Frances Xavier Cabrini http://en.wikipedia.org/wiki/Frances_Xavier_Cabrini
による紹介 抄訳:
 
「マザー・カブリニ」(フランチェスカ)は、1850年7月15日、イタリーのロンバルディ地方のサンアンジェロ・ロディジアノに農家の13人目の末娘として生まれた。彼女は、18歳のとき教師免許を得、教師生活を送る。1877年に誓願。イエズス会のフランシスコ・ザベリオの名を自分の名に加える。コドーニョの「摂理の家孤児院」のマザーとなる。1880年11月14日6人の修道女と共に「イエスの聖心女子修道会」(MSC)を創設、マザーはその憲章と規約を制定。終生その会の総長であった。会は、イタリアで宗教施設、孤児院、学校、幼稚園などを開設、教皇レオ13世の注目を得る。中国への宣教がマザーの希望だったが、教皇は1889年に彼女をニューヨーク市のイタリア移民の支援のために米国に派遣。先ず、ニューヨーク教区コリガン大司教の許可を得て、孤児院を創設。1899年シカゴに会の本部を設け、その後、米国初め南米、欧州等各地に67の学校、病院等諸施設を開設し、移民と貧困者のために尽くした。マザー・カブリニは1909年にアメリカに帰化。1917年12月22日、シカゴで帰天。享年67歳。1946年教皇ピオ12世により列聖。アメリカ市民最初の聖人。「移民の守護の聖人」。

 


The Importance of Self-criticism and Humility

Biblical Reflection for 26th Sunday in Ordinary Time B

By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, SEPT. 23, 2009 (Zenit.org).- The biblical prophet is one who has received a divine call to be a messenger and interpreter of the Word of God. The word that comes to the prophet compels him to speak.

 

Amos asks: "The Lord has spoken, who can but prophesy?" (Amos 3:8). Jeremiah, despondent because of his unrelieved message of woe to the people he loved would stifle the word: "If I say, 'I will not mention him, or speak any more in his name,' there is in my heart as it were a burning fire shut up in my bones, and I am weary with holding it in, I cannot" (Jeremiah 20:9). Whatever the form of the message, the true Israelite prophet's vision of God has permeated the manner of his thoughts so that he sees things from God's point of view and is convinced that he so sees them. Fundamental to the mission of the prophet is obedience to God's Word.

 

Would that all the Lord's people were prophets!

 

In today's first reading from Numbers (11:25-29), God sent the spirit of prophecy upon others who took Moses by surprise. Moses had earlier complained to God that he could not provide for Israel in the desert all by himself. To alleviate the situation, God promised to confer Moses' prophetic spirit on 70 elders. Even though Eldad and Medad were not present in the camp when God conferred Moses' spirit, they still received the gift and began to prophesy.

 

When Moses' aide, Joshua, wished to squelch the so-called rebellion against authority, Moses replies: "Are you jealous for my sake? Would that all the Lord's people were prophets, and that the Lord would put his spirit on them!" (Numbers 11:29). Moses is pleased that the spirit of prophecy is shared with those not immediately present in the first commissioning of the elders. Joshua is upbraided for his jealousy. Spiritual authority can lead to serious abuses. It must be handled carefully, humbly and justly. The lesson is that God's ability to share the spirit is not restricted. God is the measure.

 

The present worthlessness of wealth

 

The severe denunciation of the unjust rich in today's second reading from the Letter of James (5:1-6) is reminiscent of the Old Testament prophets (e.g., Amos 8:4-8). It is not intended to influence the rich to whom it is rhetorically addressed, but is rather a salutary warning to the faithful of the terrible fate of those who abuse riches and perhaps also a consolation to those now oppressed by the rich (James 2:5-7). The identical mode of introduction in 5:1-6 and 4:13-17 and the use of direct address throughout indicate the parallelism of the two sections. However, the present passage is harsher in tone and does not seem to allow the chance for repentance. In 5:2-3, the perfect tense of the verbs used (rotted, moth-eaten, rusted) probably indicate the present worthlessness of wealth. Furthermore, although silver and gold do not actually rust (verse 3), the expression used for them indicates their basic worthlessness.

 

This reading from James does not parallel the other two readings, especially in the matter of spiritual gifts manifesting themselves outside the immediate circle of Jesus' disciples. Nevertheless it offers hard words against the wealthy who abused their workers and withheld wages and insight into abuse of power. James is speaking explicitly of the secular realm of employment, salaries and just recompense for work. The author of James maintains that the rich have mistreated their employees. Since they withheld the wages that were due, their silver and gold will corrode and their garments will fall prey to ravaging moths. The wealthy have not realized that God is the God of the poor, and intercedes on their behalf.

 

Problems in Mark's Church community

 

Today's Gospel passage (Mark 9:38-43, 45, 47-48) is rather loosely put together and seems to reflect the problems of Mark's Church community. First there is the exchange between John and Jesus about the foreign exorcist (9:38), followed by Jesus' rejection of the elitism of the disciples (verses 39-40). In the second part (verse 41), anyone who gives the disciple a drink will belong to Christ; in the third part (verse 42), Jesus holds up the little ones as totally dependent on God, whom no one may lead astray.

 

There is a certain irony about Jesus' explanation of the disciples' action in trying to stop the foreign exorcist. In 9:14-29, the disciples, themselves, fail to exorcise an unclean spirit from a young boy and are sharply rebuked by Jesus. Now they want to restrain a successful exorcist simply because he is not part of their own group. The issue is clearly not whether the exorcist is acting in the name and power of Jesus, but whether he is part of their own chosen establishment. The exclusivist attitudes of the disciples are exposed for all to see. The success of the foreign exorcist is a threat to the status of the "official" disciples! Jesus answers with an inclusive word, and yet one that realistically recognizes the problem of unauthorized ministries (9:39). The disciples need to nurture the gifts of generosity and graciousness.

 

The need for self-criticism

 

In the second half of the passage, we find a miscellaneous collection of sayings that call for a stance of self-criticism. The disciples are directed to reflect on their own style of life and ministry. Do any of their words or actions serve as stumbling blocks for the children of the Church? Mark uses words of Jesus against scandal and the misuse of one's hands, eyes and feet. Jesus does not mandate mutilation. He has a typically Semitic way of speaking -- graphic, vivid, even exaggerated. Nothing, no one comes before Christ. Jesus' command to "cut it off" is not mutilation, but rather an invitation to liberation. It liberates us to love without reservation, not trapped in the self-love where everything and perhaps everyone, even God, himself, must revolve around me. The fascinating paradox of this story is this: The more we focus on the God who lives in us, on the people God cherishes in a special way because they are more needy, and on the earth that God saw as being "very good" (Genesis 1:31), the richer will be our delight in ourselves. Human life is a matter of relationships: with God, with people, with earth.

 

Despite its disjointedness, today's Gospel passage provides a strong antidote to the ever-present temptation to overestimate one's own position as the chosen of God. Human nature tends to be judgmental. Sometimes our inclination to judge results in elitism, concluding that others are not worthy of our company. We make difficulties, not thinking of others but blindly plunging ahead with feet, hands and eyes. We ignore God's consecration of our hands to work, of our eyes to perceive, and of our feet to walk God's special ways. We reject others as outsiders, foreign to our own ranks and status in life. Instead of questioning the validity of other active, and perhaps successful groups, we are reminded in graphic fashion of the importance of self-criticism and humility.

 

A final thought on humility

 

Jesus said, "Learn of me, because I am meek, and humble of heart: and you shall find rest to your souls" (Matthew 11:29). Most of the saints prayed for and manifested humility in their lives. Many of us live in societies and cultures that value self-promotion of worth, assertiveness, competitiveness, communicating our accomplishments if we wish to get anywhere and make a difference.

 

The virtue of humility is a quality by which a person considering his or her own defects has a lowly opinion of himself and willingly submits himself or herself to God and to others for God's sake. How can we strike a balance between being humble and meek, and assertive enough to succeed in the world today? Or do we need to sacrifice one for the other? In living just and upright lives, we can do a good job as a humble leader, but that is different from been able to succeed and being placed in greater positions of responsibility.

 

Mother Cabrini's humility

 

When I was growing up in an Italian-American household, we often heard stories of the saints and blesseds from my grandparents and parents. Two Italians, of course, were at the top of the list: Mother Cabrini and Padre Pio. St. Frances Xavier Cabrini (1850 - 1917) was the first American citizen to be canonized by the Church. As a child, Mother Cabrini's prayer for humility was given to us and I have kept it ever since in my Bible. The life of Mother Cabrini and the words of this prayer embody many of the thoughts found in today's Scripture readings.

 

St. Frances Xavier Cabrini (1850 - 1917) was the first American citizen to be canonized by the Church. As a child, Mother Cabrini's prayer for humility was given to us and I have kept it ever since in my Bible. The life of Mother Cabrini and the words of this prayer embody many of the thoughts found in today's Scripture readings.

 

"Lord Jesus Christ, I pray that you may fortify me with the grace of your Holy Spirit, and give your peace to my soul, that I may be free from all needless anxiety and worry. Help me to desire always that which is pleasing and acceptable to you, so that your will may be my will.

 

"Grant that I may be free from unholy desires, and that, for your love, I may remain obscure and unknown in this world, to be known only to you.

 

"Do not permit me to attribute to myself the good that you perform in me and through me, but rather, referring all honor to you, may I admit only to my infirmities, so that renouncing sincerely all vainglory which comes from the world, I may aspire to that true and lasting glory that comes from you. Amen."

 


 

 

朗読:

 

民数記 11:25~29: 主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

 

ヤコブ 5:1~6: 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。

 

マルコ 9:38~43, 45, 47~48: ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。