(前号よりつづく)

質問17: すべてのものの中に神を求め見いだす
リオデジャネイロのワールド・ユース・デーで、教皇フランシスコは、「神は実在します。今日、神はご自身を明らかに示されています。神はどこにもおられます。」と繰り返し宣言した。これらのフレーズは、イエズス会の霊性を表す語句「すべてのものの中に神を求め、見いだす」そのままである。そこで、わたしは教皇に訊ねた。「あなたは、どのようにしてすべてのものの中に神を見いだすのですか。」

答え17: 「リオデジャネイロで話したのは、神を求める『時』についてです。」と教皇は答えた。「事実、過去や可能性のある未来に神を求めようとする誘惑はあります。確かに神は、過去におられます。なぜなら神の足跡を見ることが出来るからです。そして、神は約束として未来にもおられます。しかし、神が『現実』におられるのは、いま(今日)です。従って、不平を言っても、それは、神を見いだす助けにはなりません。この世がいかに『野蛮』であるかという今日の不平…そういった不平は、結局のところ教会内に、純粋な保護という意味での秩序、すなわち防御体制を確立したいという欲求を生み出してしまうことになります。しかしこれは間違いです。今日の現実の世界で神と出会うべきです。神は歴史の中で、歴史的啓示のうちにご自身を明らかにされます。時がプロセスを惹き起し、空間がプロセスを具体化します。神は歴史の中に、プロセスの中におられるのです。」

「わたしたちは、権力が働いている場所に執着してはなりません。むしろ、長期にわたる歴史的なプロセスに着手すべきです。わたしたちは、場所を占領するより、プロセスを優先しなければいけません。神は、時間の中にご自身を明示され、歴史のプロセスの中に現存されます。これは、新しい歴史のダイナミズムを生み出す行動に重点を置くことです。そして、そのためには、忍耐し、待つことが必要です。」

「すべてのものに神を見いだすというのは、『経験上の発見(ひらめき、eureka)』ではありません。神に出会いたいと望むとき、わたしたちは経験的な方法で、すぐにも神を確認したいと思います。しかしこのような方法では神に出会えません。神は、エリヤが感じたような静かなそよ風の中に見いだされるのです。神を見いだす感覚は、聖イグナチオが霊性と呼んだ感覚です。イグナチオは、単なる経験的なアプローチを越えて、神に出会う霊的感受性を解放するよう求めています。観想的な姿勢が必要です。そして、それは、ものごとや状況に対する理解と愛情が、よい方向に向かって進んでいく感覚です。深い平安、霊的慰め、神の愛、神のうちにあるすべてのものの愛。これこそ、あなたがこの正しい道筋を歩いているしるしです。」
訳注:エウレカ(古典ギリシア語動詞「見つける」の一人称単数完了直説法能動態。「私は見つけた」「分かったぞ」「解けた」程度の意味。アルキメデスの原理に気づいた際、彼が思わず叫んだとされる言葉。The Eureka effect, also known as the aha! effect, refers to the common human experience of suddenly understanding a previously incomprehensible problem or concept.


質問18: 確信と誤り
「では、もし神との出会いが 『経験上の発見(ひらめき)』ではなく、歴史的視点から見た行程だとしたら、わたしたちも間違いを犯すことがあるということですか。」

答え18: 教皇は答えた。「そうです。この探求において、すべてのものの内に神を求め、見出そうとしても、依然としてそこには不確実な領域が残ります。そうでなければならないのです。誰かが、本当に確かに神に出会い、そこにはわずかな不確実さも及ぶことがないと言うならば、それはよいことではありません。わたしにとっては、これが重要な鍵になっています。もし人が、すべての疑問に対する答えを持っているとしたら、それは、神がその人と共にはいないという証明になります。それはすなわち、宗教を自分のために用いる偽預言者であるということを意味します。モーセのような、神の民の偉大な指導者たちは、常に疑問の余地を残してきました。わたしたちは、自分の確信のためにではなく、主のための場所(余地)を残しておかなければなりません。わたしたちは謙遜でなければなりません。真の識別にはすべて不確実性が内在します。それは、霊的慰めの中に確信を見出す余地として存在するのです。」

「ですから、すべてのものに神を求め、見出そうとするとき気をつけなければいけないのは、過剰な説明をしたがったり、人間的確信と傲慢によって 『ここに神がおられる。』 と宣言したくなることです。
わたしたちは、自分の尺度で測れる神しか見いだすことができません。採るべき姿勢は、聖アウグスチヌスのそれです――神を見出すために神を求め、永遠に神を求め続けるために神を見出しなさい――。わたしたちは、しばしば盲目のように探し求めます。それは、聖書で馴染みの人物のようです。そして、これは偉大な教父たちの経験したことです。彼らこそわたしたちの手本です。

ヘブライ人への手紙11章をもう一度読まねばなりません。アブラハムは、信仰によって、行く先も知らないまま故郷を後にしました。わたしたちの信仰における先祖は皆、約束された善いものを見ながら死にました。しかし遙か遠くから見たのです。・・・わたしたちのいのちは、全てが書き込まれた歌劇の台本のように、わたしたちに与えられたのものではありません。そうではなくて、進み、歩み、求め、見つめて行くものです。・・・わたしたちは、神との出会いを求める冒険へと、踏み込んでいかなければなりません。神がわたしを探し求め、わたしと出会うまで努めなければなりません。」

「神がまず初めにおられるのですから…神はいつも最初におられ、最初の行動を起こされます。
神は、アントニオ、あなたの故郷シチリア島のアーモンドの花と少し似ています。アーモンドの花は、いつも一番先に咲きます。預言書にも記されています。神に出会うのは道を歩いている最中です。
これについて、或る人は「それは相対論(相対主義)だ。」と言うかも知れません。これは相対論でしょうか?もし、これを一種の不明瞭な汎神論であると曲げて理解するならその通りです。しかし、聖書的感覚で理解するなら、これは相対論ではありません。神はいつも「驚き(surprise)」なのです。ですから、わたしたちは、どこで、どうやって神を見いだすかを知ることは出来ないのです。神に出会う時と場所をあなたが設定しているわけではありません。従ってあなたは、その出会いを識別しなければなりません。識別が大切なのです。」
訳注: インタビューアーのアントニオ・スパダロ編集長はシチリア島出身か。

「もしも、あるキリスト者が原始キリスト教主義者、律法第一主義者だとしたら、そして彼が、あらゆる物事をはっきりさせて安心したいと望むとしたら、彼は何も見いださないでしょう。伝統と過去の記憶は、神への新しい領域を開拓する勇気を持つ手助けとなるものでなければなりません。今日、いつも厳格主義的な解決を求めている人々、大げさな教義上の「安全保障」を待ち望んでいる人々、もはや存在もしていない過去を取り戻そうと頑固に試みる人々、そのような人々は、停滞し切った、内向きのものの見方しかできません。それでは、信仰はその他のイデオロギーの中の一つに過ぎなくなってしまいます。」

「わたしには、ひとつの教義上の確信があります。それは、神はあらゆる人の生活の中におられる、という確信です。神は、すべての人の生活の中におられます。たとえ、誰かの生活が大きな不幸に見舞われても、たとえ、誰かの生活が不道徳や薬物などのために壊れたとしても、神はその人の生活の中におられます。あなたがたは、あらゆる人の生活に神を求めようと試みることができるし、また試みなければなりません。人の生活は、いばらと雑草だらけの土地であるけれども、そこには、よい種が育つことのできる空間がいつも用意されています。あなたがたは、神様を信頼しなければいけません。」


質問19: わたしたちは楽観的であるべきなのか?
教皇の言葉で、わたし(スパダロ)は、教皇の過去の省察を思い出した。その中で教皇は、一枢機卿の立場から、神は既に市井に、人々のただ中に住まい、一人一人と結ばれていると書いている。
これは、聖イグナチオが霊操の中に書いたことを言い換えたものとわたしは考える。すなわち、神はこの世で「汗を流し、働いておられる。」と言うのである。そこでわたしは訊ねた。「わたしたちは楽観的であるべきなのですか? 今日の世界にあって、希望のしるしとは何ですか? 危機にあるこの世界でどうやって楽観的になれるのですか?」

答え19: 「わたしは、楽観主義という言葉を好みません。なぜなら、それが心理学的態度を表すからです。」と教皇は答えた。「その代わりに、先ほど触れたヘブライ人への手紙11章に照らして、わたしは希望という言葉を使いたいのです。信仰の父たちは、歩みを止めることなく困難に立ち向かいました。そして、ローマ人への手紙に書かれているように、希望はわたしたちを欺くことがありません。プッチーニのオペラ 『トゥーランドット』 の最初の謎に置き換えて考えてみて下さい。」と教皇は示唆した。

そこでわたしは、このオペラに出てくる女王の謎にまつわる歌詞についての怪しげな記憶を呼び起こした。その答えは希望であった: 「この陰鬱な夜に飛ぶ幻(まぼろし) 玉虫色に光り / 翼を広げて舞い上がる / 無限の悲しみに沈む人々の上に。 / 全世界がそれを呼び / 全世界がそれを懇願する。 / しかし幻は夜明けと共に消え失せ / 心の中に生れ変わる。/ それは夜毎に生まれ / そして毎朝それは死ぬ!」
訳注:プッチーニの絶筆となったオペラ“トゥーランドット”の第二幕に3つの謎が出される:その第一の謎の答えは「希望」。因みに、第2の答えは「血」、第3は「トゥーランドット」である。   http://www3.cty-net.ne.jp/~kato543/p/Turandot.htm

「いいですか、」と教皇は言う。「キリスト者の希望は、幻(まぼろし)でもなければ、欺いたりもしません。それは神学上の徳であり、究極的な神からの賜物であって、楽観主義(のレベル)に引き下げることはできません。楽観主義は人間だけのものです。神は、希望を誤った方向に導くことはありません。神はご自身を否定することはできません。神は約束そのものです。」


質問20: 芸術と創造性
わたしは、教皇が希望の神秘について語るとき、プッチーニの「トゥーランドット」を引き合いに出したことに感動し、教皇が言及する芸術や文学についてもっとよく理解したいと思った。わたしは、教皇が2006年に、「偉大な芸術家は、人生の悲劇的で苛酷な現実を、美的に表現する方法を知っている。」と語ったことを指摘し、教皇が好む芸術家と作家はだれか、またその人たちには共通点があるのかどうかを訊ねた。

答え20: 「わたしが大好きな作家は、実に多種多様です。ドストエフスキーやヘルダーリンも大好きです。ヘルダーリンでは、祖母の誕生日のために書いた詩が印象に残っています。それはとても美しくて、霊的に大変豊かな詩です。それは、『人よ、幼子の約束せるものに固く縋れ』 という一節で終わっています。わたしも祖母のローザを愛していたので、印象が深かったのでしょう。この詩の中で、ヘルダーリンは、祖母をおとめマリアになぞらえています。マリアはイエスを生み、そのイエスは、誰をもよそ者扱いすることのない地上の友なのです。」
訳注:フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821 ? 1881) ロシアの小説家・思想家。代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など。
    ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリン(1770 ? 1843) ドイツの詩人、思想家。テュービンゲン大学で神学生としてヘーゲル、シェリングとともに哲学を学ぶ。『ヘルダーリン詩集』川村二郎訳、岩波文庫、2002年

「わたしは、アレッサンドロ・マンゾーニの「いいなづけ(The Betrothed)」を、これまで3回も読みました。そしてもう一度読みたいので今も机の上に置いてあります。マンゾーニは、わたしに多くのものを与えてくれました。わたしが子供の頃、祖母はThe Betrothedの最初の部分を暗記していて教えてくれました。『あのコモ湖の分岐は、切れ目のない二つの山脈の間で南の方向に向きを変える・・・』 
また、ジェラード・マンリ・ホプキンスも好きでした。
訳注: アレッサンドロ・フランチェスコ・トマソ・アントニオ・マンゾーニ (Alessandro Francesco Tommaso
Antonio Manzoni, 1785−1873) イタリアの詩人、作家。啓蒙思想家。
「いいなづけ」 平川祐弘訳 河出書房新社, 1989.12
「婚約者」 フェデリコ・バルバロ, 尾方壽恵譯 岩波書店, 1946.12-1949.7
訳注: ジェラード・マンリ・ホプキンス(Gerard Manley Hopkins、1844 - 1889) イギリス・ヴィクトリア朝時代の詩人、イエズス会所属の聖職者。

「偉大な画家たちの中でわたしが感嘆するのはカラヴァッジオです。彼の絵にはわたしに語りかけてくるものがあります。でも、シャガールの『白い十字架』 も同じですね。
音楽家たちの中では、もちろんモーツアルトが大好きです。
ミサ曲ハ短調の『聖霊によってマリアより生まれ』は比類のない素晴らしさですね。それは人を神の高みにまで引き上げます。わたしは、クララ・ハスキルの演奏するモーツアルトが好きです。モーツアルトはわたしを満たしてくれますが、彼の音楽について「考える」ことはできません。わたしはただ「聴く」ことしかできません。ベートーベンも好きですが、プロメテウス的(ギリシャ神話の神:天火を盗み人類に与えた罪で岩につながれ、ハゲワシに肝臓を食われた。)なものに惹かれるのです。そして、もっともプロメテウス的な解釈を
すると感じるのは、フルトヴェングラーです。
訳注:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571 ? 1610) バロック期のイタリア人画家。
訳注:シャガールの「白い十字架」:ユダヤ人が受けてきた迫害の歴史が描かれている。燃えるシナゴーグ、放置されたユダヤ教典、ロシア赤軍による弾圧、逃げ惑う人々。キリストが架かる 「T字(タウ)」の十字架は正しい人間、神を象徴している。
訳注:クララ・ハスキル(1895 - 1960) ルーマニア出身のピアニスト。
訳注:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886 - 1954) ドイツの指揮者。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者。「音楽ノート」(遺稿集)芦津丈夫訳 白水社 。「プロメテウスの創造物」(Die Geschopfe des Prometheus )作品43は、ベートーヴェンが作曲したバレエ音楽。プロメテウスは、人間に火を与えたギリシャ神話の神の名。

それから、バッハの『受難曲』 も好きです。わたしが大好きなバッハの曲は 『マタイ受難曲』の中のペトロの涙、『神よ、憐みたまえ、我が涙ゆえに』 です。これは素晴らしい音楽です。それから、別のレベルで、同じように心に沁みるというわけではないけれど、ワグナーも好きです。ただ、四六時中聴きたいという程ではありません。1950年、ミラノ・スカラ座でフルトヴェングラーが指揮したワグナーの『ニーベルングの指輪』 は最高です。1962年のクナッパーツブッシュの指揮による神聖祝典劇『パルジファル』 も良いですね。」
訳注:ハンス・クナッパーツブッシュ(1888 - 1965)ドイツの指揮者。第二次世界大戦後に再開されバイロイト音楽祭を支えた指揮者。ワーグナーやブルックナーの演奏で有名。

「映画についても話さなければいけませんね。フェリーニ監督による 『道』 は、多分わたしがもっとも好きな映画です。わたしは、暗黙のうちに聖フランシスコに言及しているこの映画に共感します。それから、10才から12才の間に、アンナ・マニャーニとアルド・ファブリッツィの出演した映画は全部見ました。もうひとつ、わたしが好きなのは 『無防備都市』 です。わたしの映画好きは、本当によく子供たちを映画に連れて行ってくれた両親のおかげです。」
訳注:「道」についてのある映画評から:“神の愛は信じぬ者にも及ぶ”という思いで作ったというフェデリコ・フェリーニ監督。だからこそ、「私は何の役にも立たない女よ」と言うジェルソミーナに、綱渡り芸人アルレッキーノが“この世で役に立たないものは何ひとつない”というせりふは、心に響くのだろう。“
http://www.geocities.jp/yurikoariki/lastrada
訳注:アンナ・マニャーニ(1908 - 1973) イタリアの女優。ローマ出身。
アルド・ファブリッツィ(1905?1990) イタリアの映画俳優。「神の道化師 フランチェスコ」(1950)
「無防備都市」 (1945)

「いずれにせよ、わたしは概して悲劇的要素のある作家、芸術家、特に古典の作家たちが好みです。セルバンテスが学士カラスコに語らせたドン・キホーテ物語を賞賛する見事な定義づけがあります。それは、『子供たちはそれを手にとり、若者はそれを読み、大人はそれを理解し、年寄りはそれを賞賛する。』 というものです。わたしにとっては、これが古典にふさわしい定義づけかも知れません。」
訳注: サンソン・カラスコ ドン・キホーテと同じ村の住人で、サラマンカ大学の予科学士、後編に登場。
ドン・キホーテに村で静養する約束を取り付けるため、自ら「鏡の騎士」なる遍歴の武芸者に扮して決闘を挑むもあえなく返り討ちに遭う。その後「銀月の騎士」として再度挑み、今度は勝利をおさめたため、ドン・キホーテは村に帰還することになる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%86


質問21: わたしは、教皇がかつて中学生に文学を教えたことについて訊ねた。
訳注:ベルゴリオは1958年のイエズス会入会後、ブエノスアイレスの神学校から、1960年にサン・ミゲル市のサン・ホセ高等学院で哲学を学び、その後1964〜1965年にサンタフェ州のインマクラーダ学院、1966年にはブエノスアイレスのサルバヴァドール学院、1966年にはブエノスアイレスのサルバヴァドール学院の3校で文学と心理学の教鞭をとった。

答え21: 「あれは少し危険だったのです。」と教皇は答えた。「わたしは、生徒たちにエル・シッド(El Cid) を読むかどうか確かめなければなりませんでした。しかし、生徒たちはエル・シッドが好きではなく、ガルシア・ロルカを読みたいと言いました。そこで、エル・シッドは自宅学習にして、授業では生徒たちがもっとも好きな作家たちを教えようと決めました。もちろん、若い人たちは、より 『痛快な』文学を読みたがりました。たとえば、現代物ではロルカの 『不貞をする妻』<La Casada Infiel (The Unfaithful Wife)>であり、古典では、フェルナンド・デ・ロハスのラ・セレスティーナ<La Celestina>といった作品です。」
訳注: エル・シッド(El Cid) 11世紀後半にレコンキスタで活躍したスペインの英雄ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Diaz de Vivar、1045? - 1099)の通称。彼を題材にした多くの叙事詩がある。
訳注: ガルーシア・ロルカ: (1898-1936) スペインンの詩人、劇作家。リベラルな作品と言動のため、スペイン内戦の際にフランコ派の反乱軍によって銃殺された。
訳注: フェルナンド・デ・ロハス(1945−1541) スペインの作家。改宗ユダヤ教徒。スペイン文学の代表作の一つといわれる「ラ・セレスティーナ」(正式題名:「カリストとメリベーアの悲喜劇」。セレスティーナは登場人物の名)は1499年に発表された対話(戯曲)スタイルの小説。

「しかし、これらの作品を読むことで、生徒たちは文学や詩を好むようになり、授業はさらに他の作家へと移っていったのです。それは、わたしにとって素晴らしい経験でした。わたしは授業を計画通りに完了しましたが、それは体系的な内容ではありませんでした。すなわち、わたしが当初考えた手順に則ったものではなく、これらの作家を読むうちに自然に生まれてきた順序で完了したのでした。
そして、この流儀はわたしに適していました。わたしは窮屈な日程を好まず、むしろ、読書をしながら一体どこへ行き着くのか?と、行き着く先を漠然と感じながらも、それを知りたかったのです。それから、生徒たちに書かせることも始めました。その結果、生徒たちが書いた二つのストーリーを、ボルヘス(アルゼンチンの作家)に送ることに決めました。彼の秘書を知っていたからです。その人は以前わたしのピアノの先生でした。ボルヘスはそのスト−リーを大変気に入り、生徒の作品集に序文を書いてくれました。
訳注: ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Francisco Isidoro Luis Borges Acevedo、1899 - 1986) アルゼンチン出身の作家、小説家、詩人。夢や迷宮、無限と循環、宗教・神などをモチーフとする幻想的な短編作品によって知られる。

質問: 「つまり、教皇様、創造力は人生にとって大切だということでしょうか?」とわたしは訊ねた。
教皇は笑って答えた。「イエズス会士にとっては、極めて大切なことです!イエズス会士は創造的でなければなりません。」(註: 質問4で教皇は関連した内容の答えをしている。)

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余談: 教皇フランシスコは2013年8月21日、ローマを訪れていた埼玉県の西武学園文理中学校の生徒約200人に、冗談も交えて親しく話し掛けた。同中学校は毎年、3年生全員と引率の教職員をイタリアへの研修旅行に送り出している。
教皇は、暑いさなかもバチカンに留まり、数カ月後には始まるとみられる教皇庁改革への準備を進めている。
「全ての戦争や紛争、未解決の問題をめぐる私たちの衝突は、対話がないために発生します」と教皇は中学生に語り、彼らのイタリア旅行を「違った人々と知り合い、他の文化に親しむ」方法の一つと称えた。「私たちは出て行って、違った人々や他の文化、他の宗教と出会うなら、成長し、対話という美しい冒険を始めることになります。こうした体験によって私たちは成長するのです」と教皇は続け、「私たちは自分自身のうちに閉じこもってしまっては…自分のもっているものだけになってしまい、文化的に成長することはできません」と付け加えた。
教皇のあいさつの後、一人の女子生徒がイタリア語で、教皇に感謝の気持ちを伝えた。教皇フランシスコは冗談交じりに応じた。「あなたはナポリ生まれですか? 上手なイタリア語を話しますね!」
(カトリック新聞オンラインから) http://www.cathoshin.com/2013/08/23/pope-seibu-bunri/

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質問22: フロンティアと研究室
当誌La Civilta Cattolica(「カトリック文明」)の司祭団とスタッフによる訪問の間に、教皇は、「対話、識別、フロンティア」という三要素の重要性について語っていた。そして特に最後の点を強調し、パウロ6世と、彼が行ったイエズス会に関する有名なスピーチ(下記)に言及した。
「教会のあらゆる場所において、もっとも困難で先端的な分野でも、イデオロギーが交差するところでも、社会の下層部でも、「人類のもっとも奥深い欲求」と、「永続する福音のメッセージ」の間の会話は、過去も、現在も続いています。そこにはいつもイエズス会士が居たし、今も居るのです。」 
わたしは教皇フランシスコに、イエズス会が発行する定期刊行物で優先すべきことは何かと訊ねた。

答え22: 「La Civilta Cattolicaに推薦した三つのキーワードは、イエズス会の定期刊行物にも関連します。もっともそれぞれの特質や目的によって強調点は変わるかも知れません。フロンティアを強調する場合、わたしは特別な視点から、文化の世界で働いている人々のニーズについて考えます。彼らが活動し、思索している文脈に沿った視点で考えるのです。研究室に閉じこもることには、いつも危険が潜んでいます。大切なのは 『研究室の信仰』ではなく、『旅路を行く信仰』、歴史の中を歩む信仰です。神は、抽象的な真理の要約としてではなく、歴史(的事実)としてご自分を啓示されます。わたしは研究室を警戒しています。なぜなら、研究室で問題を扱う場合、家に持ち帰って自分の中で都合よく処理し、本来の文脈(状況)から離れた解釈をしてしまうからです。誰もフロンティアを家に持ち帰ることはできません。わたしたちは「辺境」に生き、かつ大胆でなければならないのです。」


質問23: 教皇の個人的体験の具体例は?

答え23: 「社会問題についてですが、例えば、スラム区域での薬物問題を学ぶ集まりを持つことと、直にスラム区域に行ってそこに住み、内側からその問題を理解し学ぶこととには大きな違いがあります。アルペ神父が、貧困問題に関する社会調査活動センター(the Centre for Social Research and Action on Poverty)に送ったすばらしい手紙があります。そこには、貧困のある場所に直接関わって貧困を体験することなしに貧困について語ることはできないとはっきりと書かれています。この言葉は危険も伴います。なぜなら、或る修道会がこれを一時的熱狂と受け取り、識別の欠如故に最悪の事態を招いてしまったことがあるからです。しかし、これは本当に大切なことです。」
訳注:ペドロ・アルペ(Fr. Pedro de Arrupe y Gondra S.J., 1907 - 1991)スペイン・ビルバオ生まれ。イエズス会第28代総長 (1965 - 1983) 。元上智大学教授。1927年イエズス会入会、1936年叙階。1940年に日本に派遣。1941年の真珠湾攻撃の日、ミサ後に投獄され、約1ヶ月で釈放された。1942年3月から広島・長束修練院院長。1945年8月6日広島に原爆が投下されると医師として被爆者の第一次救護にあたった。1980年代に「解放の神学」に反対の教理省見解が示され、2008年の回勅『希望による救い』("Spe salvi") にそれが反映されたが、中米ではイエズス会士も解放の神学を実践。殉教者が出たがアルペは彼らを励まし続けた。1981年ローマ空港で倒れ、1983年に総長の退任。生前に退任した最初の総長となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9A

「フロンティアはたくさんあります。病院で働く修道女たちのことを考えてみましょう。彼女たちはフロンティアに生きています。わたしはその中の一人のおかげで今生きているのです。わたしが肺疾患で入院したときに、医者はある量のペニシリンとストレプトマイシンを処方しました。担当の修道女は、その投与量を3倍にしました。彼女は大胆に機敏な行動を取ったのです。彼女は一日中病気の人々と一緒に居るのですから、何をすべきか分かっていたのです。医者は本当に優れた人でしたが、研究室の中で生きている人だったのです。一方、その修道女はフロンティアに生きていて、日々その最前線との対話の中に居たのです。フロンティアのことが分かっていると思い込んでいても、実際は、距離を置いて話しているだけ、研究室に閉じ込もっているだけなのです。研究室は有用ですが、考察は常に経験から出発しなければなりません。」


質問24: 人間の自己理解
わたし(Spadaro編集長)は、社会に起きている大きな変化と 人間が自己理解をし直す方法について訊ねた。

答え24: ここで教皇は、立って机の上から聖務日課書をとってきた。それは使い古されたラテン語版であった。教皇は、年間第27週の金曜日の朗読箇所を開き、レリンスの聖ビンセントの第一の指示書簡(the Commonitorium Primum of St. Vincent of Lerins)の一節を読んで聞かせた。
「…キリスト教の教義も、これらの法(指示)に従って、年月を費やして体系化し、時間をかけて練り上げ、時代と共に深めていかなくてはならない。」

教皇はこの一節に説明を加えた。「レリンスの聖ビンセントは、人間の生物学的発達と、一つの時代から次の時代へと続く信仰の蓄積の伝達とを比較しているのです。信仰は時代と共に成長し、強められます。そこでは、人間の自己理解も時と共に変化し、また意識も深まります。奴隷制度が容認され、死刑が当たり前のように許容された時代があったことを思い出してください。」
訳注: Saint Vincent of Lerins -- A leading theologian of the Church of Gaul in the 5th century, St. Vincent settled in the island monastery of Lerins off the southern coast of France in order that "avoiding the concourse and crowds of cities.
He defined orthodoxy as quod ubique, quod semper, quod ab omnibus: that which has been believed in the Church "everywhere, always, by everyone." (Alan: If "the Church" is defined as ALL Christians - and not Catholic Christians - the implications for orthodoxy and ecumenism are vast. Already, Pope Francis anticipates the cross-fertilization and spiritual unification of Roman and Orthodox Churches. http://en.wikipedia.org/wiki/Vincent_of_L%C3%A9rins
http://stvincentoflerins.blogspot.com/2010/05/our-father-among-saints-vincent-of.html

「そのように、わたしたちは真理の理解と共に成長します。釈義学者や神学者は、教会の判断力の成熟を助けます。他の科学分野も、その進歩も、(事象に対する)理解力の成長によって教会を助けます。かつては有効だったけれども、現在では価値も意味も失われた教会の決まりごとや教訓があります。教会の教えを、ニュアンスや理解の違いを認めない一枚岩のように考えるのは誤っています。」

「結局のところ、歴史のいつの時代にも、人間は自分をより良く理解し、より良く表現しようと努力しています。それゆえ人間は、時と共に自分自身の理解の方法を変えるのです。‘サモトラケの勝利の女神ニケ’の彫刻で自分を表現した人には彼の方法があり、カラヴァッジョやシャガールにはまた別の方法、ダリには更にまた別の方法があります。真理を言い表す様式でさえも様々な形があり得ます。そして、まさにこれこそが、時間を超越した意味を持つ福音を伝えるために必要なことなのです。」
訳注:サモトラケのニケ:ギリシャ共和国のサモトラケ島で発掘され、ルーヴル美術館に所蔵されている勝利の女神ニーケーの彫像。
The Winged Victory of Samothrace, also called the Nike of Samothrace, is a 2nd century BC marble sculpture of the Greek goddess Nike (Victory). Since 1884, it has been prominently displayed at the Louvre and is one of the most celebrated sculptures in the world.

「人間は、自分自身を捜し求めています。そして、もちろん、この探求の途中で間違いを犯すこともあります。教会は、トマス・アクィナスの頃のような輝かしい時代を経験したこともありますが、その一方で、考える力が衰えた時代も経験してきました。たとえば、トマス・アクィナスの非凡な才能と、衰退期のトマス主義者の解釈の時代とをごっちゃにしてはなりません。残念なことに、わたしは、トマス主義の衰退期、あるいはほとんど破綻した頃に作られた教科書で哲学を勉強しました。人間について考えるとき、教会は、天才に学ぶべきであって、退廃から学んではいけないのです。」

「系統的な思考が役に立たなくなるのはどんなときでしょうか。それは、その思考が人間を見失ったとき、あるいは人間を恐れたとき、更には、自身を欺くようになったときです。騙された思考は、サイレンの歌声を聞いたユリシーズ、または、サテュロス(好色家)や酒神バッカスの信者(飲み騒ぐ人)に囲まれて酒宴の最中のタンホイザー、あるいは、ワグナーの神聖祝典劇『バジルファル』 第2幕でクリングゾルの城に居るバルジファルのようなものです。
教会の思考は、天才を取り戻し、今日、人間が自らをどのように認識するかをよりよく理解しなければなりません。それは、教会の思考を発展させ、深めるためです。」


質問25: 祈り
わたしは、教皇フランシスコに、どのような祈り方が好きかを訊ねた。

答え25: 「毎朝、聖務日課を唱えます。わたしは詩編で祈るのが好きです。そしてその後、ミサを捧げます。わたしはロザリオも祈ります。本当に好きなのは夕べの祈りです。気が散って別のことを考えたり、祈りながら眠り込んでしまったりしても、夕べの祈りは好きです。それから、夜の7時から8時までの1時間、ご聖体の前で祈りながら過ごします。もっとも、歯医者の待合室や、他の時間でも心の中で祈っています。」

「わたしの祈りは、いつも記憶や追憶に満ちています。わたし自身の過去、あるいは主が、教会や、どこかの小教区でなさったことを想起することもあります。わたしにとっての祈りは、聖イグナチオが「霊操」の第1週に語る、十字架上の憐み深いキリストとの出会いの想起です。わたしは自分に問いかけます。『わたしは、キリストのために何をしてきたか? わたしは、キリストのために何をしているか? わたしは、キリストのために何をすべきか?』 そして祈りは、イグナチオが 『(神の)愛を得るための観想』 の中で語る言葉の想起です。そこでイグナチオは、わたしたちに、これまで頂いた賜物を思い出すよう求めています。」

「なにはさておき、わたしは、主がこのわたしを覚えていて下さることも知っています。わたしが主を忘れることはあり得ますが、主は決して、永遠にわたしを忘れないことを知っています。記憶は、イエズス会士の心の中で基本的な役割を果たしています。それは、神の恵みの記憶、申命記に記された記憶、すなわち、神と民との契約の基礎になる、神の働きの記憶です。この記憶こそ、わたしが神の子(his son)であり、また司祭(a father)でもある拠りどころなのです。」

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インタビューアーのアントニオ・スパダロ(Antonio Spadaro), S.Jは、1850年以来、ローマで発行されるイエズス会誌La Civilta Cattolicaの編集長である。本稿の英訳者は:Massimo Faggioli, Sarah Christopher Faggioli, Dominic Robinson, S.J., Patrick J. Howell, S.J.,および Griffin Oleynickである。

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Q17 To Seek and Find God in All Things At the World Youth Day in Rio de Janeiro, Pope Francis repeatedly declared: “God is real. He manifests himself today. God is everywhere.” These are phrases that echo the Ignatian expression “to seek and find God in all things.” So I ask the pope: “How do you seek and find God in all things?”

A17 “What I said in Rio referred to the time in which we seek God,” he answers. “In fact, there is a temptation to seek God in the past or in a possible future. God is certainly in the past because we can see the footprints. And God is also in the future as a promise. But the ‘concrete’ God, so to speak, is today. For this reason, complaining never helps us find God. The complaints of today about how ‘barbaric’ the world is ? these complaints sometimes end up giving birth within the church to desires to establish order in the sense of pure conservation, as a defence. No: God is to be encountered in the world of today. God manifests himself in historical revelation, in history. Time initiates processes, and space crystallises them. God is in history, in the processes. ”

“We must not focus on occupying the spaces where power is exercised, but rather on starting long-run historical processes. We must initiate processes rather than occupy spaces. God manifests himself in time and is present in the processes of history. This gives priority to actions that give birth to new historical dynamics. And it requires patience, waiting.”

“Finding God in all things is not an ‘empirical eureka.’ When we desire to encounter God, we would like to verify him immediately by an empirical method. But you cannot meet God this way. God is found in the gentle breeze perceived by Elijah. The senses that find God are the ones St. Ignatius called spiritual senses. Ignatius asks us to open our spiritual sensitivity to encounter God beyond a purely empirical approach. A contemplative attitude is necessary: it is the feeling that you are moving along the good path of understanding and affection toward things and situations. Profound peace, spiritual consolation, love of God and love of all things in God ? this is the sign that you are on this right path.”

Q18 Certitude and Mistakes I ask, “So if the encounter with God is not an ‘empirical eureka,’ and if it is a journey that sees with the eyes of history, then we can also make mistakes?”

A18 The pope replies: “Yes, in this quest to seek and find God in all things there is still an area of uncertainty. There must be. If a person says that he met God with total certainty and is not touched by a margin of uncertainty, then this is not good. For me, this is an important key. If one has the answers to all the questions ? that is the proof that God is not with him. It means that he is a false prophet using religion for himself. The great leaders of the people of God, like Moses, have always left room for doubt. You must leave room for the Lord, not for our certainties; we must be humble. Uncertainty is in every true discernment that is open to finding confirmation in spiritual consolation.”

“The risk in seeking and finding God in all things, then, is the willingness to explain too much, to say with human certainty and arrogance: ‘God is here.’ We will find only a god that fits our measure. The correct attitude is that of St. Augustine: seek God to find him, and find God to keep searching for God forever. Often we seek as if we were blind, as one often reads in the Bible. And this is the experience of the great fathers of the faith, who are our models.

We have to re-read the Letter to the Hebrews, Chapter 11. Abraham leaves his home without knowing where he was going, by faith. All of our ancestors in the faith died seeing the good that was promised, but from a distance.... Our life is not given to us like an opera libretto, in which all is written down; but it means going, walking, doing, searching, seeing.... We must enter into the adventure of the quest for meeting God; we must let God search and encounter us.”

“Because God is first; God is always first and makes the first move. God is a bit like the almond flower of your Sicily, Antonio, which always blooms first. We read it in the Prophets. God is encountered walking, along the path. At this juncture, someone might say that this is relativism. Is it relativism? Yes, if it is misunderstood as a kind of indistinct pantheism. It is not relativism if it is understood in the biblical sense, that God is always a surprise, so you never know where and how you will find him. You are not setting the time and place of the encounter with him. You must, therefore, discern the encounter. Discernment is essential.”

“If the Christian is a restorationist, a legalist, if he wants everything clear and safe, then he will find nothing. Tradition and memory of the past must help us to have the courage to open up new areas to God. Those who today always look for disciplinarian solutions, those who long for an exaggerated doctrinal ‘security,’ those who stubbornly try to recover a past that no longer exists ? they have a static and inward-directed view of things. In this way, faith becomes an ideology among other ideologies. ”

“I have a dogmatic certainty: God is in every person’s life. God is in everyone’s life. Even if the life of a person has been a disaster, even if it is destroyed by vices, drugs or anything else ? God is in this person’s life. You can, you must try to seek God in every human life. Although the life of a person is a land full of thorns and weeds, there is always a space in which the good seed can grow. You have to trust God.”

Q19 Must We Be Optimistic? The pope’s words remind me of some of his past reflections, in which as a cardinal he wrote that God is already living in the city, in the midst of all and united to each. It is another way, in my opinion, to say what St. Ignatius wrote in the Spiritual Exercises, that God “labours and works” in our world. So I ask: “Do we have to be optimistic? What are the signs of hope in today’s world? How can I be optimistic in a world in crisis?”

A19 “I do not like to use the word optimism because that is about a psychological attitude,” the pope says. “I like to use the word hope instead, according to what we read in the Letter to the Hebrews, Chapter 11, that I mentioned before. The fathers of the faith kept walking, facing difficulties. And hope does not disappoint, as we read in the Letter to the Romans. Think instead of the first riddle of Puccini’s opera ‘Turandot,’” the pope suggests.

At that moment I recalled more or less by heart the verses of the riddle of the princess in that opera, to which the solution is hope: “In the gloomy night flies an iridescent ghost./ It rises and opens its wings/ on the infinite black humanity./ The whole world invokes it/ and the whole world implores it./ But the ghost disappears with the dawn/ to be reborn in the heart./ And every night it is born/ and every day it dies!”

“See,” says Pope Francis, “Christian hope is not a ghost and it does not deceive. It is a theological virtue and therefore, ultimately, a gift from God that cannot be reduced to optimism, which is only human. God does not mislead hope; God cannot deny himself. God is all promise.”

Q20 Art and Creativity I am struck by the reference the pope just made to Puccini’s “Turandot” while speaking of the mystery of hope. I would like to understand better his artistic and literary references. I remind him that in 2006 he said that great artists know how to present the tragic and painful realities of life with beauty. So I ask who are the artists and writers he prefers, and if they have something in common.

A20 “I have really loved a diverse array of authors. I love very much Dostoevsky and Holderlin. I remember Holderlin for that poem written for the birthday of his grandmother that is very beautiful and was spiritually very enriching for me. The poem ends with the verse, ‘May the man hold fast to what the child has promised.’ I was also impressed because I loved my grandmother Rosa, and in that poem Holderlin compares his grandmother to the Virgin Mary, who gave birth to Jesus, the friend of the earth who did not consider anybody a foreigner. ”

“I have read The Betrothed, by Alessandro Manzoni, three times, and I have it now on my table because I want to read it again. Manzoni gave me so much. When I was a child, my grandmother taught me by heart the beginning of The Betrothed: ‘That branch of Lake Como that turns off to the south between two unbroken chains of mountains....’ I also liked Gerard Manley Hopkins very much.”

“Among the great painters, I admire Caravaggio; his paintings speak to me. But also Chagall, with his ‘White Crucifixion.’ Among musicians I love Mozart, of course. The ‘Et incarnatus est’ from his Mass in C minor is matchless; it lifts you to God! I love Mozart performed by Clara Haskil. Mozart fulfils me. But I cannot think about his music; I have to listen to it. I like listening to Beethoven, but in a Promethean way, and the most Promethean interpreter for me is Furtwangler.

And then Bach’s Passions. The piece by Bach that I love so much is the ‘Erbarme Dich,’ the tears of Peter in the ‘St. Matthew Passion.’ Sublime. Then, at a different level, not intimate in the same way, I love Wagner. I like to listen to him, but not all the time. The performance of Wagner’s ‘Ring’ by Furtwangler at La Scala in Milan in 1950 is for me the best. But also the ‘Parsifal’ by Knappertsbusch in 1962.”

“We should also talk about the cinema. ‘La Strada,’ by Fellini, is the movie that perhaps I loved the most. I identify with this movie, in which there is an implicit reference to St. Francis. I also believe that I watched all of the Italian movies with Anna Magnani and Aldo Fabrizi when I was between 10 and 12 years old. Another film that I loved is ‘Rome, Open City.’ I owe my film culture especially to my parents who used to take us to the movies quite often.

“Anyway, in general I love tragic artists, especially classical ones. There is a nice definition that Cervantes puts on the lips of the bachelor Carrasco to praise the story of Don Quixote: ‘Children have it in their hands, young people read it, adults understand it, the elderly praise it.’ For me this can be a good definition of the classics.”

Q21 I ask the pope about teaching literature to his secondary school students.

A21 “It was a bit risky,” he answers. “I had to make sure that my students read El Cid. But the boys did not like it. They wanted to read Garcia Lorca. Then I decided that they would study El Cid at home and that in class I would teach the authors the boys liked the most. Of course, young people wanted to read more ‘racy’ literary works, like the contemporary La Casada Infiel or classics like La Celestina, by Fernando de Rojas. ”

“But by reading these things they acquired a taste in literature, poetry, and we went on to other authors. And that was for me a great experience. I completed the programme, but in an unstructured way ? that is, not ordered according to what we expected in the beginning, but in an order that came naturally by reading these authors. And this mode befitted me: I did not like to have a rigid schedule, but rather I liked to know where we had to go with the readings, with a rough sense of where we were headed. Then I also started to get them to write. In the end I decided to send Borges two stories written by my boys. I knew his secretary, who had been my piano teacher. And Borges liked those stories very much. And then he set out to write the introduction to a collection of these writings.”

“Then, Holy Father, creativity is important for the life of a person?” I ask. He laughs and replies: “For a Jesuit it is extremely important! A Jesuit must be creative.”

Q22 Frontiers and Laboratories During a visit by the fathers and staff of La Civilta Cattolica, the pope had spoken about the importance of the triad “dialogue, discernment, frontier.” And he insisted particularly on the last point, citing Paul VI and what he had said in a famous speech about the Jesuits: “Wherever in the church ? even in the most difficult and extreme fields, in the crossroads of ideologies, in the social trenches ? there has been and is now conversation between the deepest desires of human beings and the perennial message of the Gospel, Jesuits have been and are there.”
I ask Pope Francis what should be the priorities of journals published by the Society of Jesus.

A22 “The three key words that I commended to La Civilta Cattolica can be extended to all the journals of the Society, perhaps with different emphases according to their natures and their objectives. When I insist on the frontier, I am referring in a particular way to the need for those who work in the world of culture to be inserted into the context in which they operate and on which they reflect. There is always the lurking danger of living in a laboratory. Ours is not a ‘lab faith,’ but a ‘journey faith,’ a historical faith. God has revealed himself as history, not as a compendium of abstract truths. I am afraid of laboratories because in the laboratory you take the problems and then you bring them home to tame them, to paint them, out of their context. You cannot bring home the frontier, but you have to live on the border and be audacious.”

Q23 I ask for examples from his personal experience.

A23 “When it comes to social issues, it is one thing to have a meeting to study the problem of drugs in a slum neighborhood and quite another thing to go there, live there and understand the problem from the inside and study it. There is a brilliant letter by Father Arrupe to the Centres for Social Research and Action on poverty, in which he says clearly that one cannot speak of poverty if one does not experience poverty, with a direct connection to the places in which there is poverty. The word insertion is dangerous because some religious have taken it as a fad, and disasters have occurred because of a lack of discernment. But it is truly important.”

“The frontiers are many. Let us think of the religious sisters living in hospitals. They live on the frontier. I am alive because of one of them. When I went through my lung disease at the hospital, the doctor gave me penicillin and streptomycin in certain doses. The sister who was on duty tripled my doses because she was daringly astute; she knew what to do because she was with ill people all day. The doctor, who really was a good one, lived in his laboratory; the sister lived on the frontier and was in dialogue with it every day. Domesticating the frontier means just talking from a remote location, locking yourself up in a laboratory. Laboratories are useful, but reflection for us must always start from experience.”

Q24 Human Self-Understanding I ask Pope Francis about the enormous changes occurring in society and the way human beings are reinterpreting themselves.

A24 At this point he gets up and goes to get the breviary from his desk. It is in Latin, now worn from use. He opens to the Office of Readings for Friday of the 27th Week in Ordinary Time and reads me a passage from the Commonitorium Primum of St. Vincent of Lerins:

“Even the dogma of the Christian religion must follow these laws, consolidating over the years, developing over time, deepening with age.”
The pope comments: “St. Vincent of Lerins makes a comparison between the biological development of man and the transmission from one era to another of the deposit of faith, which grows and is strengthened with time. Here, human self-understanding changes with time and so also human consciousness deepens. Let us think of when slavery was accepted or the death penalty was allowed without any problem. ”

“So we grow in the understanding of the truth. Exegetes and theologians help the church to mature in her own judgment. Even the other sciences and their development help the church in its growth in understanding. There are ecclesiastical rules and precepts that were once effective, but now they have lost value or meaning. The view of the church’s teaching as a monolith to defend without nuance or different understandings is wrong.”

“After all, in every age of history, humans try to understand and express themselves better. So human beings in time change the way they perceive themselves. It’s one thing for a man who expresses himself by carving the ‘Winged Victory of Samothrace,’ yet another for Caravaggio, Chagall and yet another still for Dali. Even the forms for expressing truth can be multiform, and this is indeed necessary for the transmission of the Gospel in its timeless meaning.”

“Humans are in search of themselves, and, of course, in this search they can also make mistakes. The church has experienced times of brilliance, like that of Thomas Aquinas. But the church has lived also times of decline in its ability to think. For example, we must not confuse the genius of Thomas Aquinas with the age of decadent Thomist commentaries. Unfortunately, I studied philosophy from textbooks that came from decadent or largely bankrupt Thomism. In thinking of the human being, therefore, the church should strive for genius and not for decadence.”

“When does a formulation of thought cease to be valid? When it loses sight of the human or even when it is afraid of the human or deluded about itself. The deceived thought can be depicted as Ulysses encountering the song of the Siren, or as Tannhauser in an orgy surrounded by satyrs and bacchantes, or as Parsifal, in the second act of Wagner’s opera, in the palace of Klingsor.
The thinking of the church must recover genius and better understand how human beings understand themselves today, in order to develop and deepen the church’s teaching.”

Q25 Prayer I ask Pope Francis about his preferred way to pray.

A25 “I pray the breviary every morning. I like to pray with the psalms. Then, later, I celebrate Mass. I pray the Rosary. What I really prefer is adoration in the evening, even when I get distracted and think of other things, or even fall asleep praying. In the evening then, between seven and eight o’clock, I stay in front of the Blessed Sacrament for an hour in adoration. But I pray mentally even when I am waiting at the dentist or at other times of the day.

“Prayer for me is always a prayer full of memory, of recollection, even the memory of my own history or what the Lord has done in his church or in a particular parish. For me it is the memory of which St. Ignatius speaks in the First Week of the Exercises in the encounter with the merciful Christ crucified. And I ask myself: ‘What have I done for Christ? What am I doing for Christ? What should I do for Christ?’ It is the memory of which Ignatius speaks in the ‘Contemplation for Experiencing Divine Love,’ when he asks us to recall the gifts we have received. ”

“But above all, I also know that the Lord remembers me. I can forget about him, but I know that he never, ever forgets me. Memory has a fundamental role for the heart of a Jesuit: memory of grace, the memory mentioned in Deuteronomy, the memory of God’s works that are the basis of the covenant between God and the people. It is this memory that makes me his son and that makes me a father, too.”

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Antonio Spadaro, S.J., is the editor in chief of La Civilta Cattolica, a journal published in Rome by the Society of Jesus since 1850. The translators were: Massimo Faggioli, Sarah Christopher Faggioli, Dominic Robinson, S.J., Patrick J. Howell, S.J., and Griffin Oleynick.

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