(前号よりつづく)

質問7: 教会と共に考えること:
わたしは、教皇フランシスコに、聖イグナチオが、霊操の中に書いている「教会と共に考える」ということは、教皇にとって正確には何を意味しているのかを尋ねた。教皇はイメージを使って答えた。
訳注:Thinking With the Churchについての参照:
*Ignatius Loyola, Rules for Thinking with the Church  http://wps.ablongman.com/long_longman_lwcdemo_1/0,9493,1532993-,00.html
*霊操(改訂版)〜聖イグナチオ・デ・ロヨラ〜:http://shop-pauline.jp/?pid=2184483

答え7: 「わたしが好む教会のイメージは、聖なる、信仰深い神の民の教会です。これは、わたしがよく使う定義づけで、そのイメージは第2バチカン公会議の教会憲章(No.12)から生まれたものです。
訳注:第二バチカン公会議の教会憲章(No.12)「・・・聖なる方から塗油を受けた信者の総体は、信仰において誤ることができない。この特性は、“司教を初めとして、全ての信徒を含む”信者の総体が信仰と道徳の事がらにつて全面的に賛同する時、神の民全体の超自然的な信仰の感覚を通して現れる。・・・」

民の群れに属していることには、強い神学的価値があります。救いの歴史の中で、神は民の群れを救われました。民の群れに属さなければ、完全なアイデンティティーは存在しません。一人ぼっちのまま、孤立した状態で救われる人はいないのです。神は、人間の共同体で営まれる、複雑に絡み合った関係に目を留めながら、わたしたちを招いてくださいます。神は、このダイナミズムの中へ、すなわち、人間関係の複雑さへと関わってこられるのです。」

「民全体が一つの主題を構成します。そして、教会は、歴史を旅する神の民の群れです。そこには喜びや悲しみがあります。ですから、教会と共に考えることは、この民の群れの一部分としての、わたしの歩み方なのです。すべての信者は、全体的に考えると信仰に関しては不可謬です。そして、その民の群れは、共に歩むすべての人々の信仰の超自然的感覚を通して、the infallibilitas in credende――信仰における不可謬性――を表明します。これが、聖イグナチオが語る『教会と共に考えること』であると、今日、わたしは理解しています。人々と、司教団と、教皇との間の対話がこの道筋を進み、それが本物であるとき、その対話には聖霊の助けがあります。それゆえ、この「教会と共に考えること」は神学者だけのテーマではないのです。」

「これはマリアに関しても言えることです。: もし、マリアという人のことを知りたいのなら、神学者に尋ねてください。そして、もし、マリアを愛する方法を知りたいのなら、民に尋ねなければなりません。翻ってマリアは、マグニフィカト(ルカ 46-56)にあるように、民の心でイエスを愛しました。ですから、『教会と共に考えること』が、教会の位階制の中で考えることだけを意味するなどとは、ゆめゆめ考えてはいけません。」

教皇フランシスコは少し間を置いた後、誤解を避けるためとして次の点を強調した。
「そして、勿論のことながら、わたしが第2バチカン公会議の光に照らしてお話ししている、全ての民の不可謬性について、ある種の人民主義(ポピュリズム)とは考えないように十分注意しなければなりません。そうではないのです。それは、聖イグナチオがそう呼んだ『聖母なる位階制教会』、神の民の教会、司牧者も人々も共にある教会の体験なのです。教会は、神の民の総体として在るのです。」
「わたしは、神の民の神聖さを見ています。それは、この日常の神聖さです。」と教皇は続けた。
「『聖なる中庸の人々』という言葉があります。わたしたちは皆、その一員であるかも知れません。それは、マレグ(Malegue) がその著書に述べた聖性のことです。」
教皇は、フランスの作家ジョセフ・マレグ(Joseph Malegue,1876-1940) の、特にその未完の三部作『Black Stones: The Middle Classes of Salvatio(黒い石たち;中庸の人々の救い)』に言及した。
訳注:「聖なる中庸の人々」:有名な聖人でなくても、世に知られない隠れた聖人が沢山いる。その人たちをジョセフ・マレグは聖なる中庸の人々(中流階級)と表現した。
Joseph Malegue (1876?1940) was a French catholic novelist, principally author of Augustin ou le Maitre est la (fr) (1933) and Pierres noires. Les classes moyennes du Salut (fr). He was also a theologian and published some theological surveys, as Penombres about Faith and against Fideism. His first novel is, following the French historian of spirituality Emile Goichot, the most accurately linked to Modernism. Pope Francis quoted in several circumstances, among them in El Jesuita this Malegue's view about Incarnation : ‘’ It is not Christ who is incomprehensible for me if He is God, it is God who is strange for me if He is not Christ.‘

「わたしは、神の民の忍耐の中に聖性を見ます。」と教皇は続けた。「すなわち子供を育てる女性の中に、家族を養うために働く男性の中に、病気の人々の中に、心に多くの傷を負いながら、主に仕えるが故に顔には微笑みがある老いた司祭たちの中に、一生懸命働き、隠れた聖性を生きる修道女たちの中に……。これが、わたしにとっての、いわゆる神聖さです。」

「わたしはよく、神聖さを忍耐と結びつけます。その忍耐は、日常の出来事や身の回りの苦労を引き受けるという意味 [新約聖書のギリシャ語ではhypomone] での忍耐だけでなく、日々、変わることなく前進するという意味での「忍耐」でもあります。これも聖イグナチオが言ったことですが、闘う教会の神聖さです。これは、わたしの両親、父と母の神聖さであり、わたしをとても愛してくれた祖母ローザの神聖さでした。わたしの聖務日課書には、祖母ローザの最後の言葉が挟んであり、いつもそれを読んでいます。それは、わたしにとって祈りのようなものです。祖母は聖人です。彼女は病気で苦しみました。また精神的にも苦しみました。それでも、いつも勇気を持って前進する人でした。」

「わたしたちが共に考えるべきこの教会は、すべての人のふるさとです。選ばれた人々の小さなグループしか入れないような小さな礼拝堂ではありません。わたしたちは、普遍教会の包容力を、自らの凡庸さを許してくれる逃げ場に引き下げてはなりません。教会は母であり、実り豊かな家です。そうでなければなりません。お分り頂けると思いますが、聖職者や修道者(男女)の良くない行為を見たとき、先ずわたしの心に浮かぶことは、『ここに実を結ばない独身男性が居る。』 あるいは、『ここに婚期を逸した女性が居る。』です。霊的いのちを生み出すことができなかったという意味において、彼らは父親でも母親でもないのです。そうではなくて、例えばわたしがパタゴニアに渡ったサレジオ会の宣教者たちの生涯を読むとき、わたしは、豊かな人生と実りの物語を読んでいるのです。」
訳注:アルゼンチン最南端のパタゴニアは、寒冷・強風の地。サレジオ会の最初の宣教地。司牧者が少ない先住民族の人々の中での宣教を現在もしている:In 1845 Don John Bosco opened a night school for boys in Valdocco, in Italy. In the coming years, he opened several more schools, and in 1857 drew up a set of rules for his helpers, which became the Rule of the Society of St. Francis de Sales, which Pope Pius IX approved definitively in 1873. The institute grew rapidly, with houses established in France and Argentina within a year of the society's formal recognition. In 1875; at the request of Argentina and the Holy See,Don Bosco sent ten missionaries to Buenos Aires to care for Italian immigrants. Four years later, under the energetic leadership of Fr. John Cagliero (later Cardinal), they penetrated the hinterland of Patagonia down to the icy Strait of Magellan and the Falkland Islands. In ten years, Salesian missions were established in South America from Cape Horn to the lush jungles of Brazil's Rio Negro valley.

「別の事例として、わたしが経験した最近の出来事を新聞が取り上げました。手紙をくれた若者に、わたしが電話を掛けたことについての記事です。わたしが電話したのは、その手紙があまりにすばらしく、素朴だったからです。わたしにとって、これこそが何かを生み出す力を持った行為 (act of generativity) に思えたのです。わたしは、彼が成長のさなかにある若者であり、わたしの中に父親を感じ、彼の人生の何かを、手紙で父親に告げていることを理解しました。父親としては、「わたしに関係ないことだ。」とは言えません。このタイプの実り豊かさが、わたしにとってはとても好ましく感じられるのです。」


質問8: 若い教会と古くからの教会
わたしは、教会というテーマに留まりながら、ワールド・ユース・デーに照らして教皇に尋ねた。この大きなイベントは、若い人たちにスポットを当ててきたが、同時に、あの「霊的な肺(呼吸器)」にも光を当てることになった。これは、歴史的に見て近年、カトリック教会が見出したものである。
そこでわたしは尋ねた。「これらの教会から受け取るものによって、あなたが普遍教会によせる希望とは何ですか。」
訳注:「spiritual lungs」: アフリカ諸教会における新しい福音宣教運動:CNA(Catholic News Agency) のDavid Kerr によると、教皇ベネディクトの2011年11月の西アフリカ訪問後、2012年2月13-17日にローマで開催された「第2回アフリカ・ヨーロッパ司教シンポジウムにおいて、タンザニアのPolycarp Pengo枢機卿は「教皇ベネディクト16世が(アフリカの福音宣教に触れて)アフリカのカトリック諸教会を「人類にとっての霊的呼吸器」("the spiritual lungs of humanity’)と言及した」と述べた。これ以後アフリカを中心に見られる新しい福音宣教運動を"spiritual lungs"と表現する報道が現れるようになった。

答え8: 教皇は答えた。「若いカトリック教会は、成長するにつれ、信仰、文化、生活の相違を統合していくことでしょう。これは、古くからの教会が発展させてきた統合とは異なるものです。わたしにとっては、古くからの教会と若い教会の関係は、社会における若者と年長者の関係に似ています。教会は未来を作ります。若い教会はその強さで、他方はその知恵で。 もちろん、常に何らかのリスクは避けられません。若い教会は自己満足に陥りがちですし、古くからの教会は、若い教会に自分たちの教会の模範を押しつけたいと思いがちです。しかし、わたしたちは一緒に未来を作ります。」


質問9: 野戦病院としての教会
教皇ベネディクト16世は、辞任発表の際、現代世界は急速な変化にさらされており、信仰生活上の非常に重要な問題が課せられていると述べた。これらの諸問題を処理するには、頑健な肉体と魂が必要であると、教皇ベネディクトは述べている。わたしは、教皇フランシスコに尋ねた。「この歴史的な瞬間に、何が一番必要ですか? 必要なのは改革です? これからの何年かに、あなたが教会に望むことは何ですか? あなたが夢見るのは、どんな教会ですか?」

答え9: 教皇フランシスコは、前任者に対する大きな愛と限りない敬意を込めて語り始めた。
「教皇ベネディクトが行ったのは、神聖、偉大、謙遜の業でした。彼は神に仕える人です。」
教皇は続けてこう述べた。「教会が今日もっとも必要としているものは、人々の傷を癒し、信じる人々の心を和ませる力であることは明らかです。そのためには、人々に) 寄り添い、身近にいることが必要です。わたしは、教会を戦闘の後の野戦病院と考えます。重傷を負った人に、コレステロールが高いかとか、血糖値はどうかとか尋ねても何の役にも立ちません。彼の傷を癒すのが先決です。傷を癒した後に、初めて他のいろいろなことを話し合えるのです。傷を癒すこと、傷を癒すことです……全てを最初から始めなければなりません。」

「教会は時々、ちっぽけで狭量な規則に自らを閉じ込めてしまうことがありました。最も大切なのは福音宣教の最初の言葉です。イエス・キリストはあなたを救われた。そして教会の司牧者は、なによりも憐みの司牧者でなければなりません。たとえば、聴罪司祭は、厳格すぎるか甘すぎるかのどちらかに偏る危険にいつもさらされています。どちらも憐み深いとは言えません。なぜなら、どちらも、実は相手に対する責任をとっていないからです。厳格主義者は責任を取らずに、掟(戒律)に委ねます。
甘すぎる司牧者は、単に 『それは罪ではありません。』 などと言って責任を逃れます。司牧に携わる者は、人々に同伴し、その傷を癒さなければならないのです。」

「わたしたちは、神の民とどのように向き合っているでしょうか? わたしが夢見ているのは、母であり、羊飼い(訳注:女性形)でもある教会です。教会の司牧者は憐み深く、民に対する責任を引き受け、民に同伴しなければなりません。善きサマリア人のように、です。善きサマリア人は隣人を洗い清め、抱き起こします。これが真の福音です。神は罪よりも偉大です。構造的、組織的な改革は二の次です。それらは、後から付いてくるのです。」

「最初に改革すべきなのはその姿勢です。キリストの福音を伝える人は、人々の心を和ませることが出来、闇の夜を共に歩み、人々と語り合い、人々を包む夜の中へ、その闇の中へと、自らを沈めるすべを知り、しかも道に迷うことのない人でなければなりません。神の民は羊飼いを必要としているのであって、官僚主や役人のように振る舞う聖職者が必要なわけではありません。特に司教たちは、その民のだれ一人をも置き去りにしないよう、忍耐の心で神の働きを助けることができなければなりません。しかし、司教たちはまた、新しい道を見いだす能力(嗅覚)を持った羊の群れと共に歩むこともできなければなりません。」

「ただ単に、扉を開け放って人々を歓迎し受け入れるだけの教会ではなく、新しい道を探求する教会を目指してみましょう。すなわち、教会の外へと一歩を踏み出し、ミサに参加しない人々のところへ、教会を離れたり、無関心になったりしている人々のところへと、出かけていくことができる教会です。教会を離れている人には、それなりの理由がある場合もあります。その理由が十分に理解され、検討されたなら、その人は戻ってくるかもしれません。」


質問10: わたしは教皇フランシスコに、「教会にとっては不法とされる状況、あるいは、複雑な状況にあるキリスト者が居て、その人々は、公にそれと分かる心の傷を体現している。」 と述べた。また、離婚し再婚した人々、同性愛カップル、その他の難しい状況について述べた。そして、「これらのケースで、わたしたちにできるのはどんな司牧の業なのか? わたしたちが用いることができるのは、どんな手段なのか?」と尋ねた。

答え10: 「わたしたちは、あらゆる街角で福音を宣言する必要があります。」と教皇は言う。
「そして、神の国のよい知らせを説きます。わたしたちのような者の説教であっても、様々な病気や傷を癒すのです。 ブエノスアイレスにいた頃、わたしは、『社会的に傷つけられている』 同性愛者たちから手紙を貰っていました。彼らが手紙をよこしたのは、教会がいつも自分たちを非難しているように感じているからです。しかし、それは教会が望んでいることではありません。」
「リオ・デ・ジャネイロ(ワールド・ユース・デー)からの帰路、わたしは、同性愛者が善意で神を求めているなら、わたしは裁く立場ではないと言いました。 わたしはカテキズムに書かれていることを述べたにすぎません。宗教は、人々に奉仕する中で、自らの意見を表明する権利を持っています。しかし、創造の神はわたしたちを自由な存在にしてくださいました。個人の生活に霊的に干渉することはできないのです。」
訳注:教皇フランシスコはブラジルからローマに戻る専用機内で7月29日、バチカン内部に同性愛の聖職者がいると伝えられた問題について記者団の質問に答え、「もし同性愛の人が主を求めていて、善意の持ち主であるならば、私に裁く資格があるだろうか。彼らを排除すべきではない。(同性愛の)傾向は問題ではない。彼らは私たちの兄弟だ」と述べた。http://www.cnn.co.jp/world/35035297.html

「かつて、或る人がわたしに、同性愛を是認するかどうかを挑発的な態度で尋ねたことがあります。
わたしは別の質問で答えました。『教えてください。神がゲイの人を見るとき、この人の存在を、愛を持って是認なさるでしょうか。それとも、この人を拒否し、お咎めになるでしょうか。』  わたしたちは、いつも、その人のことをよく考えなくてはなりません。 ここにおいてわたしたちは、人間存在の神秘に入り込みます。人生において、神は人々に同伴なさいます。わたしたちも、その人が置かれた状況から出発して、人々に同伴しなければなりません。あわれみの心で同伴することが必要です。 それが出来たなら、聖霊が、司祭に正しい言葉を語れるように霊感を与えてくれます。」
「これはまた、秘跡としての告解の大きな利点(恵み)でもあります。一つ一つの事例を慎重に見極め、神とその恵みを求める人に何をしてあげるのが一番いいのかを識別します。告解室は拷問部屋ではありません。そこは、主の憐みによって、わたしたちがよりよく生きていくための動機付けを与えられる場所なのです。

過去に結婚に失敗し、中絶もした女性の状況について考えてみます。この女性は、その後再婚して今は幸せに暮らし、5人の子供がいます。過去のあの中絶が、ひどく彼女の良心の重荷になっていて、彼女は心から悔いています。彼女は、キリスト者として前向きに生きたいと思っています。聴罪司祭はどうすべきでしょうか。」
「わたしたちは、中絶、ゲイの結婚、避妊具の使用をめぐる問題だけに固執することはできません。
それは不可能なのです。わたしはこれまで、このような問題についてあまり話したことがなく、そのことで非難されました。しかし、わたしたちがこれらの問題について話すときには、前後関係(背景・脈絡)をふまえて話さなければなりません。 それについての教会の教えははっきりしており、わたしは教会の子どもです。しかし、こうした問題について、いつもいつも語る必要はないのです。」

「教会が教える教義や道徳は、必ずしも、全てが同等の重みを持っている訳ではありません。教会で司牧に当たる人は、相互に関係のない沢山の教義をしつこく押し付けようなどと思い込んではいけません。 宣教のスタイルにおける宣言は、本質的で重要な事柄に集中すべきです。それは又、何がより魅力的で心を惹きつけるか、何が心を燃え立たせるかということでもあります。その好例は、エマオで弟子たちの上に行われたことです。(ルカ24:13-35参照) わたしたちは、新しいバランス感覚を身につけなければなりません。さもないと、教会の倫理体系は積木の家のように崩れかねません。そして、福音の新鮮さと香りは失われてしまいます。福音を伝えることはもっと単純素朴で、もっと深く、光り輝いていなければなりません。 このようなやり方でこそ、倫理的な良い結果が生まれるのです。

「わたしがこのようなことを話すのは、説教について、またその内容についても考えるからです。
美しい説教、真の説教は、最初の福音宣言、すなわち救いの宣言で始まらなければなりません。
この宣言ほど、純粋で、深く、確かなものは無いからです。その後で教理を教えて下さい。そうすることで、倫理的な良い結果を引き出すことが出来ます。とにかく、神の愛による救いの宣言は、倫理や宗教的義務の前に来なくてはいけません。」
「今日、この順序が逆になる傾向がしばしば見られます。説教は、司牧者が人々にどこまで近づけているか、また彼の能力はどの程度かを測る試金石です。なぜなら、説教をする人々は、その共同体の心を把握する必要があり、神を求める心が生き生きと輝く場所を知ることが出来なければならないからです。従って、福音のメッセージを、関連はあるにしても、それ自身はイエス・キリストのメッセージの中心を示していない解釈へと、矮小化してはいけないのです。」
訳注:”preachinf"、“homily”、“sermon”の違い
What is the difference between a Sunday “homily”and a “sermon”?
http://www83.homepage. villanova.edu/richard.jacobs/homilies/homily-sermon.htm
In general, a “homily” is a scripturally-based reflection provides “food for thought” about the challenges of living as a Catholic in today’s busy and hectic world. The Second Vatican Council suggested that it is Christ, not the minister, speaking to his disciples through the Sunday homily.
In contrast, a “sermon” takes the form of a lecture or discourse given for the purpose of providing religious instruction or inculcating moral behavior. The goal of a sermon is to get the people in the congregation to change their moral behavior as a sermon indicates. In this sense, then, a sermon is more about “doing” than “thinking about.”
“Preaching” originates from the ministry of Jesus, the Word of God, and his mandate to "go and make disciples of all nations . . . teaching them to obey everything that I have commanded you" (Matthew 28:19). “Expository preaching” is a form of preaching that throws light upon the meaning of a particular text or passage of Scripture. As "throwing light," this term is more general than exegesis, which is used for more technical and grammatical exposition, a careful drawing out of the exact meaning of a passage in its original context.


質問11: 修道会出身の教皇
カマリルドリ修道会の修道僧で、1831年に選出されたグレゴリウス16世以来、教皇フランシスコまで、修道会出身の教皇は居なかった。
「今日の教会で、修道者と修道女が置かれた立場はどのようなものですか?」
訳注:グレゴリウス16世(Papa Gregorio XVI (1765 - 1846)は、カマルドリ修道会出身のローマ教皇(在位1831 -1846)、本名Bartolomeo Alberto Cappellari。現教皇フランシスコ(イエズス会出身)以前では修道会司祭出身として最後の教皇である。近代主義と世俗国家のあり方を糾弾しつつ、教会が自らの中に閉じこもっていったグレゴリウス16世時代のスタイルは後の第1バチカン公会議にいたる伏線となっていく。カマルドリ修道会(Monastero di Camaldoli)は、1894年創業のベネディクト会から派生したイタリアの修道会。

答え11: 「修道者と修道女は預言者です。」と教皇は言う。「彼らは、御父への従順、清貧、共同生活と貞潔のうちにイエスの生活に倣うことで、イエスに付き従うことを選んだ人たちです。この意味で、誓願はカチカチュア(まねごと)で終わらせるわけにはいかないのです。そうでなければ、例えば共同体生活は地獄になり、貞潔は独身者の実りのない生き方に過ぎなくなってしまいます。貞潔の誓願は豊かな実りを結ばなければなりません。」

「教会の中で、修道者たちには特別の召命があります。 先ず、イエスがこの地上でどのように生きたのかを示す預言者になること、そして、神の国が完全に実現するとはどのようなことかを宣言することです。修道者は、決して預言を放棄してはなりません。これは、教会の位階制に対立することではありません。預言者の役割と位階制の構造とは別なものです。わたしはいつも積極的な提案をしていますが、それを気にして臆病になってはいけません。アボットの聖アントニオ以来の多くの偉大な聖人たち、修道僧、そして修道者と修道女が成し遂げたことを考えてみましょう。預言者であるということは、時には波風を立てるという意味を含むかも知れません。何と言ったらいいでしょうか……預言者は、不快な雑音を立て、騒ぎを引き起こします。それを『混乱(mess)』と言う人もいます。しかし実際には、修道者のカリスマはイースト菌のようなものです。預言者は福音の精神を告げ知らせるのです。
訳注: Anthony the Great or Anthony the Abbot (ca. 251?356) was a Christian saint from Egypt, a prominent leader among the Desert Fathers. He is celebrated in many churches on his feast days: 17 January in the New-Calendar Eastern Orthodox Church, the Bulgarian Orthodox Church, the Roman Catholic Church and the Coptic Catholic Church.


質問12:ローマ教皇庁について
わたしは教皇に、教皇庁の決定機関、すなわち教皇の使命を助けるさまざまな省庁について、どう考えるかを尋ねた。
訳注:ローマ教皇庁(Curia Romana)は、使徒ペトロに由来するとされる使徒継承教会の首長としての地位の継承者として存続するカトリック教会の使徒座のこと。Curiaの語は、集会、評議会、法廷を指し、公的議題が議論、決定される場を言い、古代ローマでは民会、中世では王の諮問機関(Curia Regis)をさしたが、今日ではローマ・カトリック教会の教皇庁をさす。
訳注:教皇庁の諸組織は、国務省以下、行政機関である9省(Pontifical Councils)、司法機関である裁判所(Tribunals)、12評議会(Pontifical Councils)、4事務局(Offices)、教皇内事管理室(Institutes) がある。

答え12: 「ローマ教皇庁の決定機関は、教皇と司教団のために働きます。」と教皇は言う。「各省庁は、個々の教会にも司教会議にも手を差し伸べなければなりません。彼らは手助けの道具なのです。しかしながら、彼らが正しく機能しないと検閲のための機関になってしまう危険があります。正統的信仰に反するという非難の事例がローマに届くのを見ることは驚きです。そのようなケースは、地元の司教会議が調査すべきだとわたしは考えます。地元の司教会議はローマから有益な援助を受けることができます。実際、それらのケースはその地域で対処する方がはるかにいいのです。ローマの諸省庁は調停役であって、仲介者でも管理者でもありません。

質問13: 6月29日、34人の首都大司教のパリウム着衣祝福式で、教皇フランシスコは、教会が 「(教皇の)首位性による働きと調和した成長」 を遂げるように導く道筋として、「(司教の)共働性の道」 をとりあげた。そこで、わたしは次のように尋ねた。「どのようにしたら、ペトロ聖座の首位性と共働性との関係を、調和のうちに折り合いをつけることができるのですか? エキュメニカルの視点からしても実現可能な道はどちらでしょうか?」
  訳注:パリウム=カトリック教会で教皇が身に着け、管区大司教に教皇から親授される祭服の一種。

答え13: 教皇は答えた。「一般信者、司教、そして教皇は、共に歩んで行かねばなりません。司教の合議制(Synodality)が教会内のさまざまなレベルで生かされるべきです。ことによると、司教会議のやり方を変えるべき時なのかも知れません。なぜなら、わたしには現在のやり方がダイナミズムに欠けているように見えるからです。これにはエキュメニカルな価値もあるでしょう。それは特に(東方)正教会の兄弟たちとの関係の中で言えることです。わたしたちは、正教会の兄弟から、司教の共働性と合議制の伝統の意味についてより多くのことを学ぶことができます。」
訳注:Synodalityについて:
(1) Synod and Synodality:The Synod of Bishops, in the Catholic Church is an advisory body for the Pope. It is "a group of bishops who have been chosen from different regions of the world and meet together at fixed times to foster closer unity between the Roman Pontiff and bishops, to assist the Roman Pontiff with their counsel in the preservation and growth of faith and morals and in the observance and strengthening of ecclesiastical discipline, and to consider questions pertaining to the activity of the Church in the world".  In Bruges, theologians, historians, canonists and members of several Christian denominations discussed the problems of synodality within various traditions and tried to assess the significance of the synodal experience in various denominations.
The interdisciplinary and interconfessional approach helped draw a rich and diversified picture, which makes it possible to look concurrently at the churches' past and present. By paying attention to the central and peripheral aspects, the dimension of theological reflection invariably intersected the dimension of normative production and the historical reconstruction of a few meaningful test cases.
(2) “America”誌Jul 1 2013 付け“Listen for this Word: 'Synodality'”記事参照
http://americamagazine.org/content/all-things/listen-word-synodality
訳注:August 28, 2013付Catholic Voices Comments掲載”Synodality, collegiality: two keys to the coming Francis reform”参照 http://cvcomment.org/2013/08/28/synodality-collegiality-two-keys-to-the-coming-francis-reform/

「教会が東西に分裂する前の、最初の数世紀、教会がどのように統治されていたかを顧みる共同作業は、やがて実を結ぶでしょう。エキュメニカルな相互関係では、互いによく知り合うだけではなく、相手の中に聖霊が播いた種は、同時に自分たちへの賜物であると認めることも大切です。わたしは、2007年に始まった、カトリック教会と正教会との合同委員会による、ペトロ聖座の首位権行使の方法に関する話し合いを続けていきたいと願っています。この話し合いは、ラヴェンナ文書の署名に至りました。わたしたちは、この歩みを続けなければなりません。」
訳注:ラヴェンナ文書(Ravenna Document) :2007年カトリック−正教会神学的対話のための合同委員会声明「教会の秘跡的性格がもたらす教会論的・教会法的帰結―教会の交わり、公会議制、権威」発表(ラヴェンナ)。


質問14: わたしは、教皇フランシスコのこの答えを踏まえて、未来の教会の一致をどう描いているかを尋ねた。

答え14: 教皇は答えた。「わたしたちは、それぞれの違いの中で、一致して歩まねばなりません。
一致への道は他にはありません。これがイエスの道です。」

質問15: 教会生活における女性たち
そして、教会生活における女性たちの役割についてはどうか? 教皇はこれまで、しばしばこの問題に言及してきた。教皇はリオデジャネイロからの帰途、この問題を取り上げ、教会は未だ女性神学を深めるに至っていないと主張した。わたしは尋ねた。「教会における女性の役割はどうあるべきですか? 今日、女性の役割を、どうすればもっと具体的に分かりやすくできるのでしょうか?」

答え15: 教皇は答えた。「わたしは、『強い女性が望ましい』 といった結論にとびつかないようにしたいのです。女性は男性とは違う被造物です。けれども、わたしが耳にする女性の役割は、『男らしさ(強さ)』 の思想に触発されたものが多いのです。女性たちの問いかけは、取り組まねばならない深い問題を含んでいます。教会に女性の存在と働きが無ければ本当の教会とは言えません。女性は教会に欠かせない存在なのです。女性であるマリアは、司教たちより重要です。わたしがこう言うのは、『役割』と『位階』とを混同してはならないからです。ですからわたしたちは、教会における女性の役割を更に精査しなければならないのです。わたしたちは、徹底した女性の神学を発展させることに一層努めなければなりません。」
訳注:”female machismo”:”machismo” is a word derived from Spanish and Portuguese, where it has the meaning of a belief in the “supremacy of men over women.” However, in English the word means instead the sense of “being macho or manly.” The word “macho” in Spain, means the ideal societal role men must have in a given society. “Macho” in Spanish is a strictly masculine term, derived from the Latin masc?lus meaning male. Machos in Iberian-descended cultures are supposed to have bravery, courage and strength as well as wisdom and leadership.

「教会内の女性の役割をよりよく検討するためには、ここから始めるしかないのです。重要な決定をする場面では、どこであれ女性の能力(才能)が必要です。いま取り組むべき課題は次の点です――すなわち、教会の権威が行使されるさまざまな分野において、女性のためにも特別な場所を考慮することです。」


質問16: 第2バチカン公会議
「第2バチカン公会議が達成したものは何ですか。」とわたし(スパダロ編集長)は尋ねた。

答え16: 「第2バチカン公会議は、現代文化に照らしながら福音を読み直す作業でした。」と教皇は語る。「第2バチカン公会議は、福音だけを導き手にして刷新のうねりを生み出しました。その実りの大きさは量り知れません。典礼を思い出して下さい。典礼刷新の結果、人々は具体的な歴史状況を想起しながら福音を読み直すことができるようになりました。」

「確かに、連続性と不連続性という(相反する)解釈がありますが、一つのことははっきりしています。福音を読むことから生まれるダイナミズム、福音のメッセージを現代に生かすこと――それこそ第2バチカン公会議の特徴を示すものですが――この動きを逆回転させることは決してできないのです。
また、古い祭式書(Vetus Ordo) による典礼のように、特別な問題もあります。教皇ベネディクト16世は、2007年7月7日、トリエント・ミサの適用拡大を許可する決定をなさいました。わたしは、この決定が慎重に考えられたもので、古いミサに慣れ親しんだ人々の感性を尊重したいという願いに動機づけられたものと考えています。しかし、ここで懸念されるのは、Vertus Ordoがイデオロギー化する危険です。それは身勝手な拡大解釈です。」
訳注: 連続性と非連続性: 近年、第2バチカン公会議の評価、とりわけ同公会議のカトリックの伝統と
の連続性と非連続性の解釈をめぐって活発な議論が繰り広げられている。(2013年度上智大学
シラバス 神学部講義概要より)(「神学ダイジェスト」101号、オマリー「伝統との非連続性」参照)
訳注:トリエント・ミサ(Tridentine Mass)は、1570年に定められ、1970年ごろまで全世界のカトリック教会で共通して用いられたミサの様式。式文のほとんどがラテン語で、「伝統的ラテン語ミサ」、「聖伝のミサ」(Traditional Mass)などと呼ばれる。1970年以降、第2バチカン公会議の精神に従って新たに定められた各国語による新しいミサ形式が用いられるようになり、トリエント・ミサが行われる機会は少なくなった。なお、トリエント・ミサのことを「ラテン語ミサ」と呼ぶこともあるが、新しいミサもラテン語で執り行われることがある。 2007年7月7日に教皇ベネディクト16世は自発教令Summorunum Pontoficumを発表し、ミサに関する規定をより寛大なものへと変更した。その要点は次の通りである。1.トリエント・ミサを廃止は絶対に出来ない。2.ローマ典礼様式の特別形式の挙行をする権能は、全ての司祭に与えられている。教区長又は上長からのいかなる特別の許可を必要としない。」3.堅信・聖務日課・儀式書の古い形式を自由に使うことができる。

 (つづく)

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Q7 Thinking With the Church  I ask Pope Francis what it means exactly for him to “think with the church,” a notion St. Ignatius writes about in the Spiritual Exercises. He replies using an image.

A7 “The image of the church I like is that of the holy, faithful people of God. This is the definition I often use, and then there is that image from the Second Vatican Council’s ‘Dogmatic Constitution on the Church’ (No. 12).

Belonging to a people has a strong theological value. In the history of salvation, God has saved a people. There is no full identity without belonging to a people. No one is saved alone, as an isolated individual, but God attracts us looking at the complex web of relationships that take place in the human community. God enters into this dynamic, this participation in the web of human relationships.”

“The people itself constitutes a subject. And the church is the people of God on the journey through history, with joys and sorrows. Thinking with the church, therefore, is my way of being a part of this people. And all the faithful, considered as a whole, are infallible in matters of belief, and the people display this infallibilitas in credendo, this infallibility in believing, through a supernatural sense of the faith of all the people walking together. This is what I understand today as the ‘thinking with the church’ of which St. Ignatius speaks. When the dialogue among the people and the bishops and the pope goes down this road and is genuine, then it is assisted by the Holy Spirit. So this thinking with the church does not concern theologians only.”

“This is how it is with Mary: If you want to know who she is, you ask theologians; if you want to know how to love her, you have to ask the people. In turn, Mary loved Jesus with the heart of the people, as we read in the Magnificat. We should not even think, therefore, that ‘thinking with the church’ means only thinking with the hierarchy of the church.”

After a brief pause, Pope Francis emphasises the following point, in order to avoid misunderstandings:
“And, of course, we must be very careful not to think that this infallibilitas of all the faithful I am talking about in the light of Vatican II is a form of populism. No; it is the experience of ‘holy mother the hierarchical church,’ as St. Ignatius called it, the church as the people of God, pastors and people together. The church is the totality of God’s people.”
“I see the sanctity of God’s people, this daily sanctity,” the pope continues. “There is a ‘holy middle class,’ which we can all be part of, the holiness Malegue wrote about.”
The pope is referring to Joseph Malegue, a French writer (1876?1940), particularly to the unfinished trilogy Black Stones: The Middle Classes of Salvation.

“I see the holiness,” the pope continues, “in the patience of the people of God: a woman who is raising children, a man who works to bring home the bread, the sick, the elderly priests who have so many wounds but have a smile on their faces because they served the Lord, the sisters who work hard and live a hidden sanctity. This is for me the common sanctity. ”

”I often associate sanctity with patience: not only patience as hypomone [the New Testament Greek word], taking charge of the events and circumstances of life, but also as a constancy in going forward, day by day. This is the sanctity of the militant church also mentioned by St. Ignatius. This was the sanctity of my parents: my dad, my mom, my grandmother Rosa who loved me so much. In my breviary I have the last will of my grandmother Rosa, and I read it often. For me it is like a prayer. She is a saint who has suffered so much, also spiritually, and yet always went forward with courage.”

“This church with which we should be thinking is the home of all, not a small chapel that can hold only a small group of selected people. We must not reduce the bosom of the universal church to a nest protecting our mediocrity. And the church is Mother; the church is fruitful. It must be. You see, when I perceive negative behaviour in ministers of the church or in consecrated men or women, the first thing that comes to mind is: ‘Here’s an unfruitful bachelor’ or ‘Here’s a spinster.’ They are neither fathers nor mothers, in the sense that they have not been able to give spiritual life. Instead, for example, when I read the life of the Salesian missionaries who went to Patagonia, I read a story of the fullness of life, of fruitfulness.”

“Another example from recent days that I saw got the attention of newspapers: the phone call I made to a young man who wrote me a letter. I called him because that letter was so beautiful, so simple. For me this was an act of generativity. I realised that he was a young man who is growing, that he saw in me a father, and that the letter tells something of his life to that father. The father cannot say, ‘I do not care.’ This type of fruitfulness is so good for me.”


Q8 Young Churches and Ancient Churches  
Remaining with the subject of the church, I ask the pope a question in light of the recent World Youth Day. This great event has turned the spotlight on young people, but also on those “spiritual lungs” that are the Catholic churches founded in historically recent times. “What,” I ask, “are your hopes for the universal church that come from these churches?”

A8 The pope replies: “The young Catholic churches, as they grow, develop a synthesis of faith, culture and life, and so it is a synthesis different from the one developed by the ancient churches. For me, the relationship between the ancient Catholic churches and the young ones is similar to the relationship between young and elderly people in a society. They build the future, the young ones with their strength and the others with their wisdom. You always run some risks, of course. The younger churches are likely to feel self-sufficient; the ancient ones are likely to want to impose on the younger churches their cultural models. But we build the future together.”


Q9 The Church as Field Hospital 
Pope Benedict XVI, in announcing his resignation, said that the contemporary world is subject to rapid change and is grappling with issues of great importance for the life of faith. Dealing with these issues requires strength of body and soul, Pope Benedict said. I ask Pope Francis: “What does the church need most at this historic moment? Do we need reforms? What are your wishes for the church in the coming years? What kind of church do you dream of?”

A9 Pope Francis begins by showing great affection and immense respect for his predecessor: “Pope Benedict has done an act of holiness, greatness, humility. He is a man of God.”
“I see clearly,” the pope continues, “that the thing the church needs most today is the ability to heal wounds and to warm the hearts of the faithful; it needs nearness, proximity. I see the church as a field hospital after battle. It is useless to ask a seriously injured person if he has high cholesterol and about the level of his blood sugars! You have to heal his wounds. Then we can talk about everything else. Heal the wounds, heal the wounds.... And you have to start from the ground up.“

“The church sometimes has locked itself up in small things, in small-minded rules. The most important thing is the first proclamation: Jesus Christ has saved you. And the ministers of the church must be ministers of mercy above all. The confessor, for example, is always in danger of being either too much of a rigorist or too lax. Neither is merciful, because neither of them really takes responsibility for the person. The rigorist washes his hands so that he leaves it to the commandment. The loose minister washes his hands by simply saying, ‘This is not a sin’ or something like that. In pastoral ministry we must accompany people, and we must heal their wounds.“

“How are we treating the people of God? I dream of a church that is a mother and shepherdess. The church’s ministers must be merciful, take responsibility for the people and accompany them like the good Samaritan, who washes, cleans and raises up his neighbour. This is pure Gospel. God is greater than sin. The structural and organizational reforms are secondary¬ ? that is, they come afterward.“

“The first reform must be the attitude. The ministers of the Gospel must be people who can warm the hearts of the people, who walk through the dark night with them, who know how to dialogue and to descend themselves into their people’s night, into the darkness, but without getting lost. The people of God want pastors, not clergy acting like bureaucrats or government officials. The bishops, particularly, must be able to support the movements of God among their people with patience, so that no one is left behind. But they must also be able to accompany the flock that has a flair for finding new paths.“

“Instead of being just a church that welcomes and receives by keeping the doors open, let us try also to be a church that finds new roads, that is able to step outside itself and go to those who do not attend Mass, to those who have quit or are indifferent. The ones who quit sometimes do it for reasons that, if properly understood and assessed, can lead to a return. But that takes audacity and courage.“

Q10 I mention to Pope Francis that there are Christians who live in situations that are irregular for the church or in complex situations that represent open wounds. I mention the divorced and remarried, same-sex couples and other difficult situations. What kind of pastoral work can we do in these cases? What kinds of tools can we use?

A10 “We need to proclaim the Gospel on every street corner,” the pope says, “preaching the good news of the kingdom and healing, even with our preaching, every kind of disease and wound. In Buenos Aires I used to receive letters from homosexual persons who are ‘socially wounded’ because they tell me that they feel like the church has always condemned them. But the church does not want to do this. ”
“During the return flight from Rio de Janeiro I said that if a homosexual person is of good will and is in search of God, I am no one to judge. By saying this, I said what the catechism says. Religion has the right to express its opinion in the service of the people, but God in creation has set us free: it is not possible to interfere spiritually in the life of a person. ”

“A person once asked me, in a provocative manner, if I approved of homosexuality. I replied with another question: ‘Tell me: when God looks at a gay person, does he endorse the existence of this person with love, or reject and condemn this person?’ We must always consider the person. Here we enter into the mystery of the human being. In life, God accompanies persons, and we must accompany them, starting from their situation. It is necessary to accompany them with mercy. When that happens, the Holy Spirit inspires the priest to say the right thing.”
“This is also the great benefit of confession as a sacrament: evaluating case by case and discerning what is the best thing to do for a person who seeks God and grace. The confessional is not a torture chamber, but the place in which the Lord’s mercy motivates us to do better.

I also consider the situation of a woman with a failed marriage in her past and who also had an abortion. Then this woman remarries, and she is now happy and has five children. That abortion in her past weighs heavily on her conscience and she sincerely regrets it. She would like to move forward in her Christian life. What is the confessor to do?”
“We cannot insist only on issues related to abortion, gay marriage and the use of contraceptive methods. This is not possible. I have not spoken much about these things, and I was reprimanded for that. But when we speak about these issues, we have to talk about them in a context. The teaching of the church, for that matter, is clear and I am a son of the church, but it is not necessary to talk about these issues all the time.

“The dogmatic and moral teachings of the church are not all equivalent. The church’s pastoral ministry cannot be obsessed with the transmission of a disjointed multitude of doctrines to be imposed insistently. Proclamation in a missionary style focuses on the essentials, on the necessary things: this is also what fascinates and attracts more, what makes the heart burn, as it did for the disciples at Emmaus. We have to find a new balance; otherwise even the moral edifice of the church is likely to fall like a house of cards, losing the freshness and fragrance of the Gospel. The proposal of the Gospel must be more simple, profound, radiant. It is from this proposition that the moral consequences then flow.

“I say this also thinking about the preaching and content of our preaching. A beautiful homily, a genuine sermon must begin with the first proclamation, with the proclamation of salvation. There is nothing more solid, deep and sure than this proclamation. Then you have to do catechesis. Then you can draw even a moral consequence. But the proclamation of the saving love of God comes before moral and religious imperatives. ”
“Today sometimes it seems that the opposite order is prevailing. The homily is the touchstone to measure the pastor’s proximity and ability to meet his people, because those who preach must recognize the heart of their community and must be able to see where the desire for God is lively and ardent. The message of the Gospel, therefore, is not to be reduced to some aspects that, although relevant, on their own do not show the heart of the message of Jesus Christ.”


Q11 A Religious Order Pope 
Pope Francis is the first pontiff from a religious order since the Camaldolese monk Gregory XVI, who was elected in 1831. I ask:
“What is the specific place of religious men and women in the church of today?”

A11 “Religious men and women are prophets,” says the pope. “They are those who have chosen a following of Jesus that imitates his life in obedience to the Father, poverty, community life and chastity. In this sense, the vows cannot end up being caricatures; otherwise, for example, community life becomes hell, and chastity becomes a way of life for unfruitful bachelors. The vow of chastity must be a vow of fruitfulness.”

“ In the church, the religious are called to be prophets in particular by demonstrating how Jesus lived on this earth, and to proclaim how the kingdom of God will be in its perfection. A religious must never give up prophecy. This does not mean opposing the hierarchical part of the church, although the prophetic function and the hierarchical structure do not coincide. I am talking about a proposal that is always positive, but it should not cause timidity. Let us think about what so many great saints, monks and religious men and women have done, from St. Anthony the Abbot onward. Being prophets may sometimes imply making waves. I do not know how to put it.... Prophecy makes noise, uproar, some say ‘a mess.’ But in reality, the charism of religious people is like yeast: prophecy announces the spirit of the Gospel.”


Q12 The Roman Curia 
I ask the pope what he thinks of the dicasteries of the Roman Curia, the various departments that assist the pope in his mission.

A12 “The dicasteries of the Roman Curia are at the service of the pope and the bishops,” he says. “They must help both the particular churches and the bishops’ conferences. They are instruments of help. In some cases, however, when they are not functioning well, they run the risk of becoming institutions of censorship. It is amazing to see the denunciations for lack of orthodoxy that come to Rome. I think the cases should be investigated by the local bishops’ conferences, which can get valuable assistance from Rome. These cases, in fact, are much better dealt with locally. The Roman congregations are mediators; they are not middlemen or managers.”


Q13 On June 29, during the ceremony of the blessing and imposition of the pallium on 34 metropolitan archbishops, Pope Francis spoke about “the path of collegiality” as the road that can lead the church to “grow in harmony with the service of primacy.” So I ask: “How can we reconcile in harmony Petrine primacy and collegiality? Which roads are feasible also from an ecumenical perspective?”
訳注: The pallium (derived from the Roman pallium or palla, a woolen cloak) is an ecclesiastical vestment in the Catholic Church, originally peculiar to the pope, but for many centuries bestowed by him on metropolitans and primates as a symbol of the jurisdiction delegated to them by the Holy See. At present, only the pope, metropolitan archbishops, and the Latin Rite Patriarch of Jerusalem wear the pallium.
Under the 1917 Code of Canon Law, a metropolitan had to receive the pallium before exercising his office in his ecclesiastical province, even if he was previously metropolitan elsewhere, but these restrictions were absent in the revised 1983 Code of Canon Law. No other bishops, even non-metropolitan archbishops or retired metropolitans, are allowed to wear the pallium unless they have special permission. An explicit exception is made for the rarely realised scenario in which a person not yet a bishop is appointed pope, in which case the bishop ordaining the new pope wears the pallium during the ceremony. When a pope or metropolitan dies in office, he is buried wearing the pallium. If a metropolitan (or, presumably, a pope) leaves his office before he dies, his pallium is rolled up and placed with him in his coffin.
訳注:Collegialityはカトリックでは「司教団が教皇と共に行政に参加する共働性」を意味する。 Collegiality is power and authority that is shared among peers, especially the sharing of collegiate power among Roman Catholic bishops. Colleagues are those explicitly united in a common purpose and respecting each other's abilities to work toward that purpose. The word “college” is sometimes used in a broad sense to mean a group of colleagues united in a common purpose, and used in proper names, such as Electoral College, College of Cardinals, College of Pontiffs.


A13 The pope responds, “We must walk together: the people, the bishops and the pope. Synodality should be lived at various levels. Maybe it is time to change the methods of the Synod of Bishops, because it seems to me that the current method is not dynamic. This will also have ecumenical value, especially with our Orthodox brethren. From them we can learn more about the meaning of episcopal collegiality and the tradition of synodality. ”

“The joint effort of reflection, looking at how the church was governed in the early centuries, before the breakup between East and West, will bear fruit in due time. In ecumenical relations it is important not only to know each other better, but also to recognise what the Spirit has sown in the other as a gift for us. I want to continue the discussion that was begun in 2007 by the joint [Catholic?Orthodox] commission on how to exercise the Petrine primacy, which led to the signing of the Ravenna Document. We must continue on this path.”
The Declaration of Ravenna is a Roman Catholic?Eastern Orthodox document issued on 13 October 2007, re-asserting that the bishop of Rome is indeed the Protos, although future discussions are to be held on the concrete ecclesiological exercise of papal primacy. The signing of the declaration highlighted the internal tensions between the Patriarch of Constantinople and the Moscow Patriarchate, who did not fully agree on the whole extent of the statement, with the Moscow delegation walking out of the talks at one point.


Q14 I ask how Pope Francis envisions the future unity of the church in light of this response.

A14  He answers: “We must walk united with our differences: there is no other way to become one. This is the way of Jesus.”


Q15 Women in the Life of the Church  And what about the role of women in the church? The pope has made reference to this issue on several occasions. He took up the matter during the return trip from Rio de Janeiro, claiming that the church still lacks a profound theology of women. I ask: “What should be the role of women in the church? How do we make their role more visible today?”

A15 He answers: “I am wary of a solution that can be reduced to a kind of `female machismo,’ because a woman has a different make-up than a man. But what I hear about the role of women is often inspired by an ideology of machismo. Women are asking deep questions that must be addressed. The church cannot be herself without the woman and her role. The woman is essential for the church. Mary, a woman, is more important than the bishops. I say this because we must not confuse the function with the dignity. We must therefore investigate further the role of women in the church. We have to work harder to develop a profound theology of the woman.”

“ Only by making this step will it be possible to better reflect on their function within the church. The feminine genius is needed wherever we make important decisions. The challenge today is this: to think about the specific place of women also in those places where the authority of the church is exercised for various areas of the church.”


Q16 The Second Vatican Council “What did the Second Vatican Council accomplish?” I ask.

A16 “Vatican II was a re-reading of the Gospel in light of contemporary culture,” says the pope. “Vatican II produced a renewal movement that simply comes from the same Gospel. Its fruits are enormous. Just recall the liturgy. The work of liturgical reform has been a service to the people as a re-reading of the Gospel from a concrete historical situation. ”

“Yes, there are hermeneutics of continuity and discontinuity, but one thing is clear: the dynamic of reading the Gospel, actualising its message for today ? which was typical of Vatican II ? is absolutely irreversible. Then there are particular issues, like the liturgy according to the Vetus Ordo. I think the decision of Pope Benedict [his decision of July 7, 2007, to allow a wider use of the Tridentine Mass] was prudent and motivated by the desire to help people who have this sensitivity. What is worrying, though, is the risk of the ideologisation of the Vetus Ordo, its exploitation.”
訳注:新しいミサ(la Nuova Messa)とは、第2バチカン公会議(1962-1965)後の1969年に発布された、新しい典礼様式によるミサである;教皇パウロ6世は、1969年4月3日付け典礼憲章により「ミサの新しい式次第」(Novus Ordo Missae)の使用を許可した。新しいミサのミサ典書(Editio typica)は、発表直後の1970年に改訂され、1975年にも改訂があり、更に2002年に改訂版が出版された。


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