教皇フランシスコの矛盾

ハンス・キュング   2013/5/21

 

この数週間に起きたことを、いったい誰が想像することができたでしょうか。

 

わたしが、 85 歳の誕生日を機にすべての職務を引退しようと決心したのは数ヶ月前のことです。そのときには、第 2 バチカン公会議に続いた後退の期間の後、カトリック教会が、教皇ヨハネ 23 世の下で起こったような再生をもう一度経験するのではないかというわたしの夢は、決して成就しないものと思い込んでいました。

 

ところが、数十年来の神学者仲間で、共に 85 歳になるジョセフ・ラッツィンガーが、突然、 2 月末をもって教皇の職務から引退すると宣言したのです。そして、聖ヨゼフの祝日であり、わたしの誕生日でもある 3 19 日、予想もできず、しかも良く計画された名前であるフランシスコを名乗る新しい教皇が、職務を引き継ぐことになりました。

ホヘル・マリオ・ベルゴリオは、なぜ、これまでの教皇たちが、敢えてフランシスコの名を選ぼうとしなかったのか、考えたことがあったのでしょうか。いずれにしても、このアルゼンチン人は、フランシスコの名をいただくことで、自分とアシジのフランシスコが繋がっていると感じていたのです。世界中にその名を知られているアシジのフランシスコは、 13 世紀の世捨て人で、アシジの富裕な織物商人の息子に生まれ、 24 歳になるまでは遊び人でした。 24 歳になったとき彼は家族と富と経歴を捨て、着ていた豪華な衣服までも父親に返しました。

驚いたことには、教皇フランシスコは選出された瞬間から、新しいスタイルを選択しました。前任者とは違い、金や宝石のついたミトラも、白テンで飾られた肩マントも、赤のあつらえ靴も身につけず、壮麗な司教座に座ることもしませんでした。新しい教皇が、もったいぶった仕草や大げさな美辞麗句を意図的に避け、ふつうの人の言葉で話していることも驚きです。

そして、最後の驚きは、新しい教皇が自分の人間的な部分を強調するやりかたです。彼は、祝福を与える前に、その人たちの祈りを求めます。他の人と同じように自分のホテル代を支払いました。同じ車に乗り合わせたり、共同生活の宿舎で出会ったりする枢機卿にも、また公的な別れの挨拶の時にも、親密な態度を示します。彼はまた、若い受刑者たちの足を洗いました。その中にはイスラム教徒の女性も含まれていました。地に足をつけた人間であることを行動で示す教皇と言えます。

これらすべては、アシジのフランシスコの心にかなうことでしょう。そして、教皇インノチェンチオ 3 世( 1198-1216 )によって代表される当時の風潮とは正反対です。 1209 年、フランシスコと 11 人の「小さき兄弟たち」は、ローマへと旅をし、教皇インノチェンチオに短い会則を提出しました。それは、すべて聖書からの引用で成り立っていました。彼らは「福音のことばに則って」貧しく暮らし、修道者(信徒)として説教する、自分たちの生き方への教皇の認可を求めました。

セーニの公爵だったインノチェンチオ 3 世は、 37 歳の若さで教皇に選出されましたが、生まれながらの統治者でした。彼はパリで教育を受けた神学者であり、雄弁で、有能な経営者、洗練された外交官でした。後にも先にも、彼ほどの権力を持った教皇は他には居ませんでした。インノチェンチオは、 11 世紀のグレゴリオ7世が始めた上からの革命(グレゴリオ改革)を完成させました。インノチェンチオは、「ペトロの後継者」の称号ではなく、「キリストの代理者」という称号の方を好みました。これは、 12 世紀までは、すべての司教や司祭によって使われた称号でした。第1千年期とは異なり、また東方教会には受け入れられませんでしたが、教皇は、そのとき以来、絶対的な支配者として、キリスト教の法律制定者、裁判官として振る舞ってきました。それは今日まで続いています。

 

インノチェンチオによって力を誇示した教皇職は、その力が頂点に達したことを示すばかりでなく、転換点であることも意味していました。その在位中既に、今日までローマ教皇庁の組織の特徴となってきた腐敗の兆候が表れていました。すなわち、縁故主義、えこひいき、どん欲、汚職、怪しげな金融取引などです。しかしながら、 1170 年代と 1180 年代には、体制に従わない告解修道会や托鉢修道会(カタリ派、ワルド派)が発展し始めていました。しかし、歴代の教皇と司教たちはこれらの危険な流れに対抗して、信徒の辻説教を禁じ、審問によって「異端」を糾弾し、ついにはアルビジョア十字軍を送るに至りました。

訳注:  13 世紀の初め、南仏のアルビジョア派異端を討伐するために、教皇の呼びかけに応えた十字軍。

とはいえ、カタリ派のような執拗な「異端」に対してあらゆる根絶政策がとられている間でさえ、福音的・使徒的な托鉢修道会を教会に取り込もうとしたのはインノチェンチオ自身でした。インノチェンチオでさえ、教会刷新を急ぐ必要性を認識しており、輝ける第4ラテラノ公会議を招集したのはこのためだったのです。インノチェンチオは、アシジのフランシスコに長い訓戒を与えた上で、説教する許可を与えました。フランシスコ会の会則に定められている絶対的清貧の思想については、教皇は最初、祈りによって神の意志を知ろうとしました。言い伝えによれば、教皇は、ある修道会の小さくて取るに足らないメンバーが、ラテラノの聖ヨハネ大聖堂を崩壊から救う夢を見て、最終的にアシジのフランシスコの会則を認可したと言われています。教皇は、これを枢機卿会議に伝えましたが、決して記録には残させませんでした。

 

異なった道筋

 

実際、アシジのフランシスコは、ローマの組織に取って代わるものを突きつけていたのです。かりにインノチェンチオとその取り巻きが福音を真剣に受け止めたとしたら、どうなっていたことでしょう。かりに彼らが、福音を文字の上ではなく、霊的に理解したとしても、フランシスコの福音的要求は、 11 世紀以来、ローマのキリスト運動を引き継いできた権力のシステム、中央集権化され、法制化された、聖職者主義の権力システムに対する非常に大きな挑戦を意味していたし、今日でも意味しています。

 

インノチェンチオ 3 世は、その特異な性格故に、おそらくは完全に異なった道筋へと教会を導くことのできた、ただ一人の教皇だったのではないでしょうか。もしそうなっていれば、教皇職は 14 世紀と 15 世紀の分裂と捕囚から守られ、教会は 16 世紀のプロテスタントの宗教改革を免れることができたことでしょう。これが、既に 13 世紀のカトリック教会にとってのパラダイム・シフト (従来のものから置き換えられる重大な変化) を意味していたことは明らかです。それは、分裂に代わって、教会を復活させるシフト(変化)であり、同時に東方教会と西方教会を和解させるシフトでもあったのです。


このようにして、アシジのフランシスコが抱いた昔のキリスト者としての基本的な懸念は、今日においてもカトリック教会の懸念であり、また、自分の意思を表明し、フランシスコを名乗る教皇にとっても、今日的な課題であり続けています。今日、とりわけ真剣に受け止められるべきは、フランシスコの理想の三つの基本的な課題です。それは、清貧、謙遜、単純です。おそらくはこれが、これまでフランシスコの名前を敢えて名乗る教皇がいなかったことの説明になるでしょう。あまりに高い期待を恐れたためでしょうか。

 

このことは、 第二 の問題を提起します。もし、ある教皇が、勇敢にもフランシスコを名乗ったとすると、それはその人にとって何を意味するのでしょうか? もちろんアシジのフランシスコの個性を理想化してはなりません。フランシスコは偏った変人であったかも知れませんし、弱点も持っていました。彼は完全な人間の基準ではありません。けれども彼の、当時のキリスト者としての願いを真剣に受け止め、たとえそれが必ずしも文字通りに成就されないとしても、むしろ、教皇と教会によってそれを現代に適用する必要があります。

 

?    貧しさ :  インノチェンチオ 3 世の概念によれば、教会とは豊かで威風堂々たる教会のことであり、貪欲と金銭スキャンダルのつきまとう教会のことでした。これとは対照的に、フランシスコの概念では、教会とは透明な財務方針で、適度に質素な教会を意味しています。とりわけ貧しい人々、弱い人々、周辺に追いやられた人々と関わる教会です。富や資本を蓄積する代わりに、積極的に貧困と闘い、その職員に模範的な雇用条件を提供する教会です。
 
?    謙遜 :  インノチェンチオ 3 世の概念によれば、教会は権力と支配の教会であり、官僚主義、 差別、抑圧と異端審問の教会です。これとは対照的に、フランシスコの概念では、教会とは人間的で、対話に富み、兄弟姉妹的交わり、異なる考えを尊重する教会です。それは指導者たちの慎み深い奉仕と社会連帯を意味し、信仰上の新たな胎動やその考え方を排斥せず、むしろ、それらの発展を許す共同体を意味します。
 
?    単純さ: インノチェンチオの概念によれば、教会とは、教義的に不動で、道徳的に厳格で、法律的に拘束する存在であり、あらゆることを規定する教会法を持ち、全知のスコラ学者と恐怖が支配する教会です。これとは対照的に、アシジのフランシスコの概念では、教会とは、よき知らせと喜びの教会、純粋に福音に根ざした神学による教会であり、教義を押し付けるのではなく、人々の声に耳を傾ける教会であり、教えるだけでなく、常に学び続ける教会なのです。

 

以上の点から、アシジのフランシスコの懸念とそのアプローチに従って、今日のカトリック教会のために、基本的な選択肢と方策を考えることができます。今日の教会は一見、偉大なローマカトリックの伝統の輝きを保っているかのように見えますが、多くの国々では、教会の日常の中で内部構造が腐敗し、脆弱化しています。そのために、霊的に教会を離れる人が多く、さらに多くの人が実際に教会を去ってしまいました。

 

理性的な人であれば、一人の人間が、一夜にして改革を成し遂げるだろうと期待することはないでしょうが、 5 年あればパラダイム・シフトは可能かもしれません。このことは、グレゴリオ 7 世の改革のお膳立てをしたロレーヌの教皇レオ 9 在位 1049-54 が、また 20 世紀に第 2 バチカン公会議を招集したヨハネ 23 在位 1958-52 が示しています。しかし、いつの時代にもまして、今日こそ、もう一度方向性を明らかにしなければなりません。ポーランド人とドイツ人の教皇の下で行われたように、公会議以前に逆戻りすることではなく、第 2 バチカン公会議の精神に沿った改革のために、よく考えられ、計画された、分かりやすい道筋を示すことが必要です。

 

第三 の問題は、当時と同じように今日も提起されています。教会の改革は、厳しい反対を受けるのではないだろうか? 間違いなく、教皇は強力な反対勢力を呼び覚ましてしまうでしょう。とりわけ、ローマ教皇庁の強力な官僚たちの反発を抑えるのは至難の業です。バチカンの権力の中にいる人々は、中世から培ってきた権力を簡単にあきらめたりはしないでしょう。

 

教皇庁の圧力

 

アシジのフランシスコも、同じような教皇庁の圧力を経験しなければなりませんでした。貧しさの中に生き、すべてのものから自由になることを望んだフランシスコは、いっそう強く「聖なる母の教会」に寄り添いました。位階制度に異を唱えず、教皇と教皇庁に従順に従い、イエスに倣う生き方を望んだのです。それは、貧しい生活と辻説法の日々でした。彼とその従者たちは、聖職者風に剃髪さえしました。実際、これで説教がやり易くなりましたが、一方で、出来たばかりの共同体の中に聖職者主義を助長し、次第に司祭の数が増えていきました。このように、フランシスコの共同体がローマのシステムに組み込まれていったのは当然の成り行きでした。フランシスコの晩年は、イエスに従う者という本来の理想と、既存の修道生活のスタイルへの適応という、相反する二つの間に生じる緊張が色濃く影を落としていました。

 

フランシスコの正義を行うために: フランシスコは 1226 10 3 日、 44 歳の若さで、その生涯と同じく貧しさのうちに亡くなりました。それに先立つこと 10 年、第 4 ラテラン公会議の一年後に、インノチェンチオ 3 世が 56 歳で急逝しました。教皇は 1216 7 16 日、ペルージアの大聖堂で、遺体で発見されました。それまでの教皇の誰よりも、教皇座の権力や財産、富を膨らませるやり方に通じていたインノチェンチオでしたが、その遺体は誰からも見捨てられ、自身の従者によって裸になるまで略奪されていました。世界を支配する教皇から無力な教皇への移行を告げるラッパが鳴り響きました。

13 世紀初頭には、栄光のうちに君臨するインノチェンチオ 3 世の姿がありました。その世紀の終わりには、権力欲の虜となり、フランス人たちに拘束されたボニファチオ 8 世の姿 在位 1294-1303 がありました。そして、 70 年間にわたるフランスのアヴィニョン捕囚の時代があり、教会大分裂によって 2 人の教皇が、そして最終的には 3 人の教皇が立つことになるのです。

フランシスコの死後わずか 20 年のうちに、ローマ教会は、イタリア国内で急速に広がっていたフランシスカンの運動をほぼ完全に手なづけてしまったようでした。間もなくそれは教皇に従う普通の修道会になり、異端審問の道具にさえなりました。ももし、ローマのシステムが、アシジのフランシスコとその従者たちを最終的に手なづけることが出来たのだとしたら、教皇フランシスコもまた、彼が改革を志していると思われるローマのシステムに彼自身が取り込まれてしまう可能性を除外できないことは明白です。教皇フランシスコ それ自体がパラドックスなのでしょうか? 「教皇」と「フランシスコ」は明らかに対極にあり、そもそも共存できるのでしょうか? それはただ、福音の精神と改革志向を抱く教皇だけに出来ることでしょう。

 

結論として、第 の問題: もし、わたしたちの改革への期待が上から抑え込まれてしまったら、どうしたらいいでしょうか? ともかく、教皇と司教団が信者たちの従順を計算に入れることができた時代は過ぎ去りました。 11 世紀のグレゴリオ改革も、ひとつの従順の神秘的概念を利用しています。それは次のようなものです。―― 神に従うことは教会に従うことであり、それはすなわち教皇に従うことを意味する。―― その時以来、すべてのキリスト者にとって教皇への従順は基本的な徳であることをカトリック信者は叩き込まれてきました。いかなる手段を用いても、従順を命じ、強制することがローマのスタイルとなってきました。しかし、「神への従順は、教会への従順とイコールであり、従って教皇への従順とイコールである。」という中世の方程式は、エルサレムの最高法院での使徒の言葉「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」 (使徒言行録 5 29 とは明らかに矛盾します。

    

ですから、わたしたちは諦めてはいけません。諦めずに、トップダウンの、位階組織からの改革が推進力を失ったならば、わたしたちの方から攻勢に出て、ボトムアップからの改革を強く求めなければなりません。もし教皇フランシスコが改革に取り組むならば、カトリック教会の垣根を遙かに超えた、広範な人々の支持を得ることでしょう。しかしながら、もし彼が物事を変えようとせず、「米女子修道会総長管区長会」の事例のように、いま問題になっている改革の行き詰まりを放置しておくならば、そのときは、「いまこそ怒りのとき! Indignez-vous ! (ステファン・エッセル著のベストセラーの書名) との呼び声がカトリック教会の中でますます大きく響き渡り、位階組織の側がどのように避けようとしても、その意に反してボトムアップの改革が行われるでしょう。最悪のケースとして、かつてわたしが教皇選挙の前に書いたように、カトリック教会は、春を迎える代わりに新たな氷河期を体験し、相対的に大きな宗派であるというだけの存在になり下がる危険を冒すことになるでしょう。

 

訳注: 「米女子修道会総長管区長会」( Leadership Conference of Women Religious ―LCWR ―1956 年設立)は、教義省から「教義的に問題あり」として 5 年以内の組織再編を命じられている。その理由はフェミニズムや貧困、社会正義をしばしばとりあげる一方で、中絶、同性愛への言及が不足していることなど。米国にはもう一つ、ローマ寄りで規模の小さな「米 女子修道会総長管区長評議会」( The Council of Major Superiors of Women Religious ―CMSWR―1992 年設立)もある。

 

[ 神学者ハンス・キュング  ドイツ・チュービンゲンにて記 ]

  


The paradox of Pope Francis

Hans Kung  |  May. 21, 2013

 

Who could have imagined what has happened in the last weeks?


When I decided, months ago, to resign all of my official duties on the occasion of my 85th birthday, I assumed I would never see fulfilled my dream that -- after all the setbacks following the Second Vatican Council -- the Catholic church would once again experience the kind of rejuvenation that it did under Pope John XXIII.

 

Then my theological companion over so many decades, Joseph Ratzinger -- both of us are now 85 -- suddenly announced his resignation from the papal office effective at the end of February. And on March 19, St. Joseph 's feast day and my birthday, a new pope with the surprising and programmatic name Francis assumed this office.

 

Has Jorge Mario Bergoglio considered why no pope has dared to choose the name of Francis until now? At any rate, the Argentine was aware that with the name of Francis he was connecting himself with Francis of Assisi, the world-famous 13th-century downshifter who had been the fun-loving, worldly son of a rich textile merchant in Assisi, until at the age of 24, he gave up his family, wealth and career, even giving his splendid clothes back to his father.

 

It is astonishing how, from the first minute of his election, Pope Francis chose a new style: unlike his predecessor, no miter with gold and jewels, no ermine-trimmed cape, no made-to-measure red shoes and headwear, no magnificent throne. Astonishing, too, that the new pope deliberately abstains from solemn gestures and high-flown rhetoric and speaks in the language of the people.

 

And finally it is astonishing how the new pope emphasizes his humanity: He asked for the prayers of the people before he gave them his blessing; settled his own hotel bill like anybody else; showed his friendliness to the cardinals in the coach, in their shared residence, at the official goodbye; washed the feet of young prisoners, including those of a young Muslim woman. A pope who demonstrates that he is a man with his feet on the ground.

 

All this would have pleased Francis of Assisi and is the opposite of what Pope Innocent III 1198-1216 represented in his time. In 1209, Francis and 11 “lesser brothers” fratres minores or friars minor traveled to Rome to lay before Innocent their short rule, consisting entirely of quotations from the Bible, and to ask for papal approval for their way of life, living in poverty and preaching as lay preachers “according to the form of the Holy Gospel.”

 

Innocent III, the duke of Segni, who was only 37 when he was elected pope, was a born ruler; he was a theologian educated in Paris, a shrewd lawyer, a clever speaker, a capable administrator and a sophisticated diplomat. No pope before or after him had ever had as much power as he had. Innocent completed the revolution from above initiated by Gregory VII in the 11th century “the Gregorian Reform” . Instead of the title of “Successor of St. Peter,” Innocent preferred the title of “Vicar of Christ,” as used by every bishop or priest until the 12th century. Unlike in the first millennium and never acknowledged in the apostolic churches of the East, the pope since then has acted as the absolute ruler, lawgiver and judge of Christianity -- until today.

The triumphal pontificate of Innocent proved itself to be not only the high point but also the turning point. Already in his time, there were signs of decay that, up until in our own time, have remained features of the Roman Curia system: nepotism, favoritism, acquisitiveness, corruption and dubious financial dealings. Already in the 1170s and 1180s, however, powerful nonconformist penitent and mendicant orders Cathars, Waldensians were developing. But popes and bishops acted against these dangerous currents by banning lay preaching, condemning “heretics” by the Inquisition, and even carrying out the Albigensian Crusade.

 

Yet it was Innocent himself who tried to integrate into the church evangelical-apostolic mendicant orders, even during all the eradication policies against obstinate “heretics” like the Cathars. Even Innocent knew that an urgent reform of the church was needed, and it was for this reform that he called the glorious Fourth Lateran Council. And so, after long admonition, he gave Francis of Assisi permission to preach. Concerning the ideal of absolute poverty as required by the Franciscan rule, the pope would first seek to know the will of God in prayer. On the basis of a dream in which a small, insignificant member of an order saved the papal Basilica of St. John Lateran from collapsing -- so it was told -- the pope finally allowed the Rule of Francis of Assisi. He let this be known in the Consistory of Cardinals but never had it committed to paper.


A different path


In fact, Francis of Assisi represented the alternative to the Roman system. What would have happened if Innocent and his like had taken the Gospel seriously? Even if they had understood it spiritually rather than literally, his evangelical demands meant and still mean an immense challenge to the centralized, politicized and clericalized system of power that had taken over the cause of Christ in Rome since the 11th century.

 

Innocent III was probably the only pope who, because of his unusual characteristics, could have directed the church along a completely different path, and this would have saved the papacies of the 14th and 15th centuries schism and exile, and the church in the 16th century the Protestant Reformation. Obviously, this would already have meant a paradigm shift for the Catholic church in the 13th century, a shift that instead of splitting the church would have renewed it, and at the same time reconciled the churches of East and West.

 

Thus, the early Christian basic concerns of Francis of Assisi remain even today questions for the Catholic church and now for a pope who, indicating his intentions, has called himself Francis. It is above all about the three basic concerns of the Franciscan ideal that have to be taken seriously today: It is about poverty, humility and simplicity. This probably explains why no previous pope has dared to take the name of Francis: The expectations seem to be too high.

 

That begs a second question: What does it mean for a pope today if he bravely takes the name of Francis? Of course the character of Francis of Assisi must not be idealized; he could be one-sided, eccentric, and he had his weaknesses, too. He is not the absolute standard. But his early Christian concerns must be taken seriously even if they need not be literally implemented but rather translated into modern times by pope and church.

 

?   Poverty: The church in the spirit of Innocent III meant a church of wealth, pomp and circumstance, acquisitiveness and financial scandal. In contrast, a church in the spirit of Francis means a church of transparent financial policies and modest frugality. A church that concerns itself above all with the poor, the weak and the marginalized. A church that does not pile up wealth and capital but instead actively fights poverty and offers its staff exemplary conditions of employment.

 

?   Humility: The church in the spirit of Innocent means a church of power and domination, bureaucracy and discrimination, repression and Inquisition. In contrast, a church in the spirit of Francis means a church of humanity, dialogue, brotherhood and sisterhood, hospitality for nonconformists; it means the unpretentious service of its leaders and social solidarity, a community that does not exclude new religious forces and ideas from the church but rather allows them to flourish.

 

?   Simplicity: The church in the spirit of Innocent means a church of dogmatic immovability, moralistic censure and legal hedging, a church of canon law regulating everything, a church of all-knowing scholastics and of fear. In contrast, a church in the spirit of Francis of Assisi means a church of good news and of joy, a theology based purely on the Gospel, a church that listens to people instead of indoctrinating from above, a church that does not only teach but one that constantly learns.

 

So, in the light of the concerns and approaches of Francis of Assisi, basic options and policies can be formulated today for a Catholic church whose facade still glitters on great Roman occasions but whose inner structure is rotten and fragile in the daily life of parishes in many lands, which is why many people have left it in spirit and often in fact.

 

While no reasonable person will expect that one man can effect all reforms overnight, a paradigm shift would be possible in five years: This was shown by the Lorraine Pope Leo IX 1049-54 who prepared Gregory VII's reforms, and in the 20th century by the Italian John XXIII 1958-63 who called the Second Vatican Council. But, today above all, the direction should be made clear again: not a restoration to pre-council times as there was under the Polish and German popes, but instead considered, planned and well-communicated steps to reform along the lines of the Second Vatican Council.

 

A third question presents itself today as much as then: Will a reform of the church not meet with serious opposition? Doubtless, he will thus awaken powerful opposition, above all in the powerhouse of the Roman Curia, opposition that is difficult to withstand. Those in power in the Vatican are not likely to abandon the power that has been accumulated since the Middle Ages.

 

Curial pressures


Francis of Assisi also had to experience the force of such curial pressures. He who wanted to free himself of everything by living in poverty clung more and more closely to “ Holy Mother Church .” Not in confrontation with the hierarchy but rather in obedience to pope and Curia, he wanted to live in imitation of Jesus: in a life of poverty, in lay preaching. He and his followers even had themselves tonsured in order to enter the clerical state. In fact, this made preaching easier but on the other it encouraged the clericalization of the young community, which included more and more priests. So it is not surprising that the Franciscan community became increasingly integrated into the Roman system. Francis' last years were overshadowed by the tensions between the original ideals of Jesus' followers and the adaptation of his community to the existing type of monastic life.

 

To do Francis justice: On Oct. 3, 1226, aged only 44, he died as poor as he had lived. Just 10 years previously, one year after the Fourth Lateran Council, Innocent III died unexpectedly at the age of 56. On July 16, 1216, his body was found in the Cathedral of Perugia: This pope who had known how to increase the power, property and wealth of the Holy See like no other before him was found deserted by all, naked, robbed by his own servants. A trumpet call signaling the transition from papal world domination to papal powerlessness: At the beginning of the 13th century there is Innocent III reigning in glory; at the end of the century, there is the megalomaniac Boniface VIII 1294-1303 arrested by the French; and then the 70-year exile in Avignon , France , and the Western schism with two and, finally, three popes.

 

Barely two decades after Francis' death, the Roman church seemed to almost completely domesticate the rapidly spreading Franciscan movement in Italy so that it quickly became a normal order at the service of papal politics, and even became a tool of the Inquisition. If it was possible for the Roman system to finally domesticate Francis of Assisi and his followers, then obviously it cannot be excluded that a Pope Francis could also be trapped in the Roman system that he is supposed to be reforming. Pope Francis: a paradox? Is it possible that a pope and a Francis, obviously opposites, can ever be reconciled? Only by an evangelically minded, reforming pope.

 

To conclude, a fourth question: What is to be done if our expectations of reform are quashed from above? In any case, the time is past when pope and bishops could reckon with the obedience of the faithful. The 11th-century Gregorian Reform also introduced a certain mysticism of obedience: Obeying God means obeying the church and that means obeying the pope. Since that time, it has been drummed into Catholics that the obedience of all Christians to the pope is a cardinal virtue; commanding and enforcing obedience -- by whatever means -- has become the Roman style. But the medieval equation, “Obedience to God equals obedience to the church equals obedience to the pope,” patently contradicts the word of the apostle before the Sanhedrin in Jerusalem : “Man must obey God rather than other men.”

 

We should then in no way fall into resignation; instead, faced with a lack of impulse toward reform from the top down, from the hierarchy, we must take the offensive, pushing for reform from the bottom up. If Pope Francis tackles reforms, he will find he has the wide approval of people far beyond the Catholic church. However, if he just lets things continue as they are, without clearing the logjam of reforms as now in the case of the Leadership Conference of Women Religious, then the call of “Time for outrage! Indignez-vous !” will ring out more and more in the Catholic church, provoking reforms from the bottom up that will be implemented without the approval of the hierarchy and frequently even in spite of the hierarchy's attempts at circumvention. In the worst case -- as I already wrote before this papal election -- the Catholic church will experience a new ice age instead of a spring and run the risk of dwindling into a barely relevant large sect.

 

 

[Theologian Fr. Hans Kung writes from Tubingen , Germany .]

This story appeared in the May 24- June 6, 2013 print issue under the headline: The paradox of Pope Francis

 

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