神からの賜物と神秘の忠実な管理人

年間第 25 主日 聖書黙想  2010/9/19  トマス・ロシカ師

 

 

今日の聖書朗読によれば、物質的な財産を適切に利用することは信仰生活にとって大切な要素であるとされています。今日の福音の三つの教えは、この世の富と永遠の富との相違を示しています。

 

ルカの「不正な管理人」のたとえ話(ルカ 16:1-8a )は、パレスチナの慣習として、主(あるじ)に代わって財産を管理する職業があったこと、また管理人は一般的に高利を取っていたことを考慮して読まなければなりません。この管理人の不正は、主人の財産を無駄遣いしている点にあります( 1 節)。

主人に借りのある人たちに、実際に主人に借りている金額だけを記した新しい証文を書かせ、自分の貰う手数料を免除した(差し引いた)管理人を、主人は褒めています。この不正な管理人は、自分が職を解かれそうだと知り、主人に借りのある人たちに取り入るためにこのような行動をとったのです( 3 節)。

 

今日の福音の第二の個所(ルカ 16:8b-13 )には、ルカが、不正な管理人のたとえ話の結論にするために集めた、イエスの独立した教えがいくつか入っています。結論の第一( 8b-9 )は、たとえ話の中で不正な管理人が見せたこの世の子らのふるまいから、(世の終わりの到来という視点で)自分の富を用心深く使うことを勧めます。不正にまみれた富を指す言葉の直訳は「邪悪なマンモン」です。マンモンは、通常「人が信頼するもの」という意味のヘブライ語、あるいはアラマイ語のギリシャ語字訳(音声を文字化したもの)です。富は、不正なものと性格づけられています。

 

結論の第二( 10-12 )は、責任ある立場の人々への変わらぬ忠実を勧めます。三番目の結論( 13 )は、神と富とに仕えることはできないという一般論です。富に頼ることは、イエスの教えにそむくことです。イエスは、キリストの弟子であるための資格の一つとして、神に完全に頼るようにと勧めました。(ルカ 12:22-39 )。ここでは、マンモンがそれ自体、神であるかのように扱われています。

 

このたとえ話の正確な意味

このたとえ話が言おうとしている正確なポイントは不明確です。普通に考えれば、生活の危機に直面してきっぱりと行動した管理人に倣い、まさかの時に神の国を目指す結論へと、弟子たちを促す狙いがあったのかも知れません。イエスは弟子たちに、この世の物は積極的に使いなさいと勧めます。

それは多分、貧しい人たちと分かち合い、更には神の意志に従ってそれらを使いなさい、ということなのでしょう。教訓はこうです。商売をする人が当面の利益を確保するために慎重を期するように、イエスに従う者たちも、神と共にあることの永遠の利益を確保するために慎重を期さなければなりません。キリスト者であるわたしたちは、神がわたしたちに下さったものの管理人です。わたしたちはそれを所有してはいません。この世で自分に委託されたものに忠実であると証しした人たちには、神の国で報いと責務が与えられることでしょう。

 

管理人の心構えとニューマン枢機卿

ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿は、神からの賜物と神秘の忠実な管理人でした。

彼は 1801 2 21 日に、イギリス国教会の信徒で銀行家の家庭に生まれました。幼い頃から、神と霊的な事柄に熱中し、「最初の回心」を 15 才で経験しました。 1825 年、オックスフォード大学卒業と同時にイギリス国教会の牧師に叙階されました。ニューマン枢機卿は、成人してからの生活の前半をオックスフォードで学者および説教者として送りました。彼はここで、イギリス国教会を刷新する運動の先頭に立ちました。

 

彼は、イギリス国教会からカトリックへの遍歴を経て、その偉大な知性と優れた文才を駆使して、何千もの人々をキリストのもとへ、またローマ・カトリック教会へと導きました。 カトリックに改宗するにあたり、ニューマンは多くの代償を払わなければなりませんでした。改宗の後、多くの友だちは彼との関係を断ち、家族も彼と距離を保つようになりました。そして、大学の特別研究員の地位から引退しなければならなくなり、唯一の収入源を失いました。この試練の間、自分を支えたただ一つのものは、ご聖体におけるキリストの現存であったとニューマンは語っています。彼は、後半生を、バーミンガムでカトリック司祭として働き、またオラトリオ会の共同体の長として神に仕えて過ごしました。

 

「神は、ご自分が何をしているのかを御存知です」

ニューマンは、いったん神が自分に使命を与えたという揺るぎない感覚を得ると、こう宣言しました。

「ですからわたしは神を信頼します。もしわたしが病に冒されたら、その病が神に仕えるでしょう。もし困難に直面したら、その困難が神に仕えるでしょう。神がなさることに何一つ無駄はありません。神はわたしの友を奪い去ります。神はわたしを見知らぬ人々の中に投げ込みます。神はわたしに孤独な思いをさせ、気持ちを沈ませ、未来を覆い隠します。それでも神は、ご自分が何をしているのかを御存知です。」

 

ニューマンと若者たち

教えるということは、他者の発達の過程に自分の痕跡を残す業であると言われてきました。ニューマンは、まさにその業を何千という数の学生に行いました。彼は、大学で学ぶ若い男女にとって、知性、誠実さ、創造性、親切さ、もてなしの 模範像でした。 そのために彼は、 「ニューマン・センター」として知られる、世界中の大学付きカトリック司祭のための施設の保護者になっています。

 

ニューマンは優れた詩人でした。 「取り囲む憂鬱のただ中に優しい光をもたらし、我を導き給え」

これは、「雲の柱( The Pillar of the Cloud )」という詩の一節です。キリストは、彼にとってあらゆる種類の闇の奥に輝く光でした。彼はまた、深い洞察力に恵まれた説教者でもありました。彼がローマ・カトリックに入る 10 年以上前、 1834 年に行った説教の一節は、肉親に先立たれた遺族に大きな慰めを与えるものです。

「神が、この日一日、わたしたちを支えてくださいますように。日影が伸び、夕べが来て、慌ただしい世界が静まり、いのちの高まりが消え、わたしたちの仕事が終わるまで! その後は、神の憐れみによって、安全な宿、聖なる安息、そして最後には平和が与えられますように。」

 

わたしたちの中にあった宝

その人生の終わり近くなって、やっと、ローマ・カトリック教会はニューマンが宝物であったことを覚り、そして、彼が愛したオックスフォード大学は、失った人物の完全な価値を認識しました。 彼の傑出した業績と献身に敬意を表して、教皇レオ 13 世は 1879 年、ジョン・ヘンリー・ニューマン神父を枢機卿に任命しました。試練の一生を送ってきたニューマンは、このニュースを涙と大きな喜びのうちに受け取り、こう宣言しました。「垂れこめた雲は永遠に去った。」

 

ニューマンにとって、キリスト教を信じることは、恋に落ちるようなものでした。彼は、枢機卿として、フランシスコ・サレジオの名言を自分のモットーにしました。「心は、心に話しかける。」 彼によれば、威勢の良い利口ぶった議論は、わたしたちを神のもとに導いてはくれません。

訳注:フランシスコ・サレジオ( 1567-1622 ) カトリック教会、聖公会の聖人。
サレジオ会の創設者ヨハネ・ボスコは、自らの修道会に聖人の名を冠した。

 

ニューマン枢機卿は、 1890 8 11 日、 89 才で、エッジバストンのオラトリー・ハウスで亡くなりました。

彼は自分の墓碑銘として、次の言葉を選びました。「影と幻想から出て、十全の真理に至る。」( "Ex umbris et imaginibus in veritatem;" ) キリストこそは、彼が人生の旅路の最後に見出した真理でした。

 

ニューマン枢機卿は、 1991 年に、教皇ヨハネ・パウロ 2 世によって尊者にあげられました。

2010 9 19 日(本日)には、イギリスのバーミンガムで、この偉大なヴィクトリア朝のカトリック神学者、 19 世紀に最も影響力のあったイギリスのカトリック者が、ベネディクト 16 世によって列福されます。

今日の第 2 朗読のテモテへの手紙 1 2:1-8 の言葉は、ニューマン枢機卿が口にするにふさわしいものです。「これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」

 

ニューマンの、友情という賜物

ニューマン枢機卿は友情の輝かしい模範でした。ニューマンは、 32 冊にまとめられた 20,000 通の手紙が証明しているように、生涯を通して、男女を問わず多くの人々と深い友情を結ぶという、並はずれた能力を持っていました。この個人的な影響力は、彼の著作を読み、友情の本当の意味を発見した多くの人々にとても強く及んでいます。彼はかつて手紙にこう書きました。「あまねく世界を愛するための、そして十分に賢明に世界を愛するための最善の準備は、すぐ近くに居る人々への親密な友情と優しい思いやりを養うことです。」

 

今日、わたしたちはそのような友情を育てることが可能でしょうか? そのような親密な友情がわたしたちの間に存在し得るでしょうか? 男性も女性も、同性の仲間と強い友情を持つことは度々あります。その友情には性的な要素はありません。しかしわたしたちは、それについてどのように語ったらいいか戸惑っているばかりでなく、語ることを怖れてさえいます。今日、「友」という言葉は、ウェブ上のソーシャルネットワーキング・プロファイル (インターネット上の情報交換の場で公開する個人情報、横顔) に付け加える言葉として、あるいは結婚していない性的パートナーを意味する婉曲な表現としても使われています。

 

フランス人作家のフランソワ・モーリアックは、かつて友情について次のように書いています。「もしも、あなたがキリストの友であるなら、他の多くの人々が、あなたの火で暖まることでしょう。あなたが最早愛に燃えなくなった日には、多くの人々が凍え死ぬことでしょう。」 

ニューマン枢機卿の心の中の「優しい光」と燃える炎は、多くの人々にいのちと暖かさを与え、いまも与え続けています。そのなかの一人であるわたしは、長年、この偉大な師の足下に暖かさと慰めを見出してきました。この消すことの出来ない炎の源泉は、彼とイエス・キリストとの深い友情にありました。今日のわたしたちにとって、ニューマンの優しい光と、輝かしい聖なる模範が、これまでにも増して必要なのです。

 


ヘンリー・ニューマン枢機卿に奉納されるミサのための公式の祈り

 

「神よ、あなたは、司祭である福者ジョン・ヘンリー・ニューマンに

あなたの教会の中で、あなたの暖かな光に導かれて平和に至る恵みをお与えになりました。

彼のとりなしと模範を通して、憐みをもって聞き入れてください。

わたしたちが、 影と幻想から出て、十全の真理に至る ことができますように。

 

あなたの御子、わたしたちの主イエス・キリストによって、

主は、聖霊と 唯一の神と の交わりの中で、あなたとともに 世々に生き、支配しておられます。」

 

◇◇◇

 

聖書朗読

 

アモス 8:4-7 : 商人の不正 8:4 このことを聞け。貧しい者を踏みつけ/苦しむ農民を押さえつける者たちよ。 8:5 お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。 8:6 弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」 8:7 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らが行ったすべてのことを/いつまでも忘れない。」

 

1 テモテ 2:1-8 : 祈りに関する教え(愛する者よ、)

2:1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 2:2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 2:3 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 2:6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。 2:7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。 2:8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

 

ルカ 16:1-13 : (「不正な管理人」のたとえ) 16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

  16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


Faithful Stewards of God's Gifts and Mysteries

Biblical Reflection for 25th Sunday in Ordinary Time C, By Father Rosica, CSB

 

 

TORONTO , SEPT. 14, 2010 Zenit.org .- Today's Scripture readings see the proper use of material possessions as an essential ingredient in the life of faith. The three sayings of today's Gospel suggest a contrast between worldly wealth and eternal wealth.

Luke's parable of the dishonest steward Luke 16:1-8a must be understood in the light of the Palestinian custom of agents acting on behalf of their masters and the usurious practices common to such agents. The dishonesty of the steward consisted in the squandering of his master's property 1 .

The master commends the dishonest steward who has forgone his own commission on the business transaction by having the debtors write new notes that reflected only the real amount owed the master i.e., minus the steward's profit . The dishonest steward acts in this way in order to ingratiate himself with the debtors because he knows he is being dismissed from his position 3 .

 

The second part of today's Gospel Luke 8b-13 involves some independent sayings of Jesus gathered by Luke to form the concluding application of the parable of the dishonest steward. The first conclusion 8b-9 recommends the prudent use of one's wealth in view of the coming of the end of the age after the manner of the children of this world, represented in the parable by the dishonest steward.The word used for dishonest wealth is literally " mammon of iniquity." Mammon is the Greek transliteration of a Hebrew or Aramaic word that usually means "that in which one trusts." Wealth is characterized as being dishonest.

訳注: Mammon is a term, derived from the Christian Bible, used to describe material wealth or greed, most often personified as a deity. Webster's dictionary defines "Mammon" or "Mann" as: 1 the false god of riches and avarice. 2 riches regarded as an object of worship and greedy pursuit; wealth as an evil, more or less personified.[1] Winston defines it to mean: 1 wealth, worldly gain; 2 greed for riches; cupidity.[2] Oxford defines: god of wealth, regarded as evil or immoral; 'those who worship mammon' are equivalent to greedy people who value money too highly.

 

The second conclusion 10-12 recommends constant fidelity to those in positions of responsibility. The third conclusion 13 is a general statement about the incompatibility of serving God and being a slave to riches. To be dependent upon wealth is opposed to the teachings of Jesus who counseled complete dependence on the Father as one of the characteristics of the Christian disciple Luke 12:22-39 . Mammon is used here as if it were itself a god.

 

Exact meaning of the parable

The exact point of the parable is unclear. It may ordinarily have been intended to urge disciples to a decision for the kingdom in a time of crisis, imitating the manager who acted decisively when faced with a crisis in his life. Jesus urges his disciples to be enterprising in their use of the world's goods, presumably by sharing them with the needy, and more generally, by using them according to God's will. The lesson is this: Just as people in business use prudence to secure their passing advantage, so too the followers of Jesus must use prudence to secure lasting advantage with God. As Christians we are stewards of what God has given us. We do not own it. In the kingdom, rewards and responsibilities will be given to those who demonstrated a faithfulness in their earthly entrustments.

 

Stewardship and Cardinal Newman

Cardinal John Henry Newman was a faithful steward of God's gifts and mysteries. Born on Feb. 21, 1801, into an Anglican family of bankers, from an early age he had a passion for God and spiritual matters, having experienced his "first conversion" at 15. He was ordained an Anglican minister in 1825, when he finished his studies at the University of Oxford . Cardinal Newman spent the first half of his adult life as a scholar and preacher in Oxford , where he led a movement to renew the Anglican Church.

 

He journeyed from Anglicanism to Catholicism and used his great intellect and masterful writing ability to win over thousands of people to Christ and the Catholic Church. In becoming a Catholic, Newman had to make many sacrifices. Many of his friends broke off relations with him after his conversion, and his family kept him at a distance. He had to resign his teaching fellowship and lost his only source of income. Newman said that the one thing that sustained him during this trying period was Christ's presence in the Blessed Sacrament. He spent the second half of his life working as a Catholic priest in Birmingham , serving as head of his community of Oratorians.

 

"He knows what He is about"

Once Newman had come to that unshakeable sense of the mission entrusted to him by God, he declared: " Therefore, I will trust Him. ... If I am in sickness, my sickness may serve Him, in perplexity, my perplexity may serve Him. ... He does nothing in vain. ... He may take away my friends. He may throw me among strangers. He may make me feel desolate, make my spirits sink, hide the future from me. Still, He knows what He is about."

 

Newman and young adults

It has been said that teaching is the art of leaving a vestige of oneself in the development of another.

Newman did just that with thousands of students. He was an exemplary model of intellect, fidelity, creativity, graciousness and hospitality to young men and women at the university. For this reason, he is the patron of university Catholic chaplaincies around the world known as "Newman Centers."

 

Newman was a masterful poet. "Lead kindly light amid the encircling gloom, lead Thou me on," Newman wrote in "The Pillar of the Cloud"; and for him Christ was the light at the heart of every kind of darkness. He was also a profound and penetrating preacher. One passage from a sermon he preached in 1834, more than a decade before he entered the Roman Catholic Church, often provided great comfort for the bereaved: "May He support us all the day long, till the shades lengthen, and the evening comes, and the busy world is hushed, and the fever of life is over, and our work is done! Then in His mercy may He give us a safe lodging, and a holy rest, and peace at the last."

 

The treasure in our midst

It was only late in his life that the Roman Catholic Church realized the treasure Newman was, and Oxford -- a university he loved -- recognized the full value of the man it had lost. As a tribute to his extraordinary work and devotion, Pope Leo XIII named Father John Henry Newman a cardinal in 1879. After a life of trials, Newman received the news with tears and great joy, declaring: "The cloud is lifted forever."

 

For Newman, believing in Christianity was like falling in love. He took as his motto as a cardinal the phrase of St. Francis de Sales, "Heart speaks to heart;" bullying and clever arguments, he said, do not bring us to God.

 

Cardinal Newman died at the age of 89 at the Oratory House in Edgbaston on Aug. 11, 1890. For his tomb he chose the inscription: "Ex umbris et imaginibus in veritatem;" Out of shadows and images into the fullness of truth . Christ was the truth he had found at the end of his life's journey.

 

Cardinal Newman was declared venerable in 1991 by Pope John Paul II. On Sunday Sept. 19, 2010, in Birmingham , England , this great Victorian Catholic theologian and one of the most influential English Catholics of the 19th century will be proclaimed blessed by Benedict XVI. The words of today's second reading from the First Letter to Timothy 2:1-8 could easily flow from the lips of Cardinal Newman: "This was the testimony at the proper time. For this I was appointed preacher and apostle. I am speaking the truth, I am not lying, teacher of the Gentiles in faith and truth. It is my wish, then, that in every place the men should pray, lifting up holy hands, without anger or argument."

 

Newman's gift of friendship

Cardinal Newman was a brilliant model of friendship. During his lifetime, Newman had an extraordinary capacity for deep friendship with many people, both men and women, as his 20,000 letters collected in 32 volumes attest. This personal influence has been exerted very powerfully upon millions of people who have read his works and discovered what friendship really means.

He once wrote in a letter: "The best preparation for loving the world at large, and loving it duly and wisely is to cultivate an intimate friendship and affection for those who are immediately about."

 

Are we able to foster such friendships today? Can such intimate friendships exist for us?

Men and women often have intense friendships with members of their own sex, friendships that have no sexual component; yet we are at a loss to speak about them or even afraid to do so. Today "friend" is one you add to a social networking profile on the Web; or it is a euphemism for a sexual partner outside marriage.

 

The French writer François Mauriac once wrote about friendship: "If you are friends with Christ many others will warm themselves at your fire. ... On the day when you no longer burn with love, many will die of the cold." I am certain that the "kindly light" and flame in Cardinal Newman's heart gave and continues to give life and warmth to millions of people. I, for one, have found warmth and consolation at the feet of this great master for many years. The source of the unquenchable fire was Newman's deep friendship with Jesus Christ. We need Newman's kindly light and brilliant, holy example today more than ever.

 

Official prayer for the votive mass of Cardinal John Henry Newman:

 

"O God, who bestowed on the Priest Blessed John Henry Newman

The grace to follow your kindly light and find peace in your Church;

Graciously grant that, through his intercession and example,

We may be led out of shadows and images

Into the fullness of your truth.

 

"Through our Lord Jesus Christ, your Son,

Who lives and reigns with you in the unity of the Holy Spirit,

One God, forever and ever."

 

 

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