キリスト者の知恵の意味

年間第25主日聖書黙想 2009/9/20   トマス・ロシカ師

 

第一朗読の「知恵の書」が示す「正しい人」の姿は、イザヤ 52 13-53 12 の「第四の僕の歌」や、イザヤ 42 1 、および詩篇 22 8 に基づいています。「知恵の書」は、パレスチナのラビたちによってユダヤ教の聖典とはされませんでしたが、それにも拘わらず、新約聖書の筆者たちに影響を与えたようです。とりわけ、正しい人であるにもかかわらず、不当に有罪とされたイエスの描写には、その影響が見られます。

 

第一朗読の「知恵の書」 2:12 17-20 の中で、「神に従う(正しい)人」を待ち構える邪悪な人々に付きまとう表現は、聞く者にショックを与えます。邪悪な人々の思いと行動は、冷酷で、計算されたものです。「彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。敵の手から救い出されるはずだ。暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを試みるために。彼を不名誉な死に追いやろう。彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」 知恵 2:17 20

 

神に従う正しい人は、その生き方が、邪悪な人々にやましい気持を起させるために攻撃されます。「我々のすることに反対し、律法に背くといって我々をとがめ、教訓に反するといって非難するのだから。」 ( 知恵 2:12) と。

正しい人の忠実さは護られています。彼は、神の共同体の仲間であるが故に死ぬこと (訳注:永遠の死のことか?) はありません。正しい人は穏やかさと忍耐を特徴とし、試練に会い、迫害され、頑なで邪悪な人々に殺されることさえあります。邪悪な人々は、正しい人の生き方や言葉にやましさを覚えるために、彼らを迫害しようと決心します。 ( 知恵 2:12-16)  邪悪な人々は、正しい人の言葉を試そうと決心します。 ( 知恵 17-20)  邪悪な人は、自らの悪業によって死を招きよせます。

 

あなた方の中で、知恵があるのはだれか?

ヤコブの手紙 3 13 にある質問、「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか?」

言い換えれば、知恵をどのように受け入れるのでしょうか? 

ヤコブ 3:13-4:3 は、神の知恵と、その他の知恵の双方のしるしを述べます。「そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」 ( ヤコブ 3:15)

ヤコブ 4:4 は、知恵のある者と知恵のない者を、二つにはっきりと分別します。知恵のある者は、この世に敵対する者と特徴づけ、知恵のない者を「神の敵」として特徴づけます。 ( ヤコブ 4:4)

「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」 ( ヤコブ 3:17)

 

悪徳と善徳を、二種類の知恵に当てはめることは、ヤコブ 4:1-3 において一層強調されます。そこで、ヤコブ書の筆者は、心の中での二種類の知恵の葛藤という問題を提示します。動機と行動が互いに矛盾するのは、そこに知恵が存在しないことの証明です。ヤコブ書の筆者は、知恵を、従順、寛大、平和であることと定義づけます。これらの性質は、全て子どものうちに見られる資質です。

しかし、ヤコブ書や聖書の知恵文学はまた、これらを成熟した大人の資質とも認めます。そのような資質が無ければ、人は、対立、争論、戦争、殺人、羨望、口論、争いを呼び起こす「怪物」になってしまいます。そのような人々は、自分が受け取るものを、自身の楽しみのために浪費してしまいます。真のキリスト者の知恵は、他の人々のためのものです。嫉妬と不和は、自己中心のものです。この朗読箇所は、名声や富よりも知恵に倣うべきことを明らかにします。

 

構成要素:

今日の福音朗読(マルコ 9:30-37 はマルコ福音書におけるイエスの第二の受難予告です。イエスがご自分の受難と死について告げられると、弟子たちは言葉を失います。一方で彼らは、自分たちの間でだれが一番偉いかを議論します。これは、先週の福音朗読にも見られたように、「キリストの弟子であるための条件についての、予告、誤解、そして指示(命令)」という図式を辿っています。

 

マルコにとってこれらの光景は、キリスト者の知恵のすべての構成要素を含むものです。他の予告に似て、今日の箇所は、弟子であることについての一連の言葉が続きます。 ( マルコ 9:30-37) イエスと弟子との、この短いやりとりの中に、弟子たちの三つの特徴が示されます。 

 

第一に、弟子たちは、間違いを犯した後でさえも特別の命令のために選ばれます。

この物語の直前にある、子どもが汚れた霊にとりつかれて困っていた親子の物語は、弟子たちの無能力について詳しく述べています。 ( マルコ 9:14-29) イエスは、厳しく弟子たちを叱ります。なぜなら、彼らの失敗によって、またもや律法学者たちと対面しなければならなくなったからです。「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」 ( マルコ 9:19)

しかし、このような弟子たちの弱さにも拘らず、彼らのために神の国での暮らしを準備するイエスの熱意は、失われませんでした。

 

第二に、弟子たちはイエスのメッセージを不可解に思いました。これはイエスが、エルサレムにおける自分の運命を述べた二度目の予告でした。弟子たちはこの言葉の意味が分からなかったのですが、怖くて何も尋ねられませんでした。 ( マルコ 9:32) イエスが彼らに、道中で何を議論していたのかを訊ねたとき、彼らは大変当惑して何も言えなかったほどでした。彼らは十分には理解していなかったかもしれませんが、自分たちの議論が全く不適当であったことは分かっていました。彼らは、困惑し、赤面します。しかし、イエスはまだ彼らを諦めていません。

 

第三に弟子たちが経験するのは、「僕(しもべ)」であることについての深い教えを学ぶことです。

マルコが、きょうの福音の中で「僕」と言うとき、「助祭」を意味するギリシャ語を使っています。

この語は最初、カナの婚宴で水から変化したぶどう酒を奉仕する召し使い(ヨハネ 2:5,9 に用いられます。マタイは、その語を、婚宴のたとえ話で王の側近たち(マタイ 22:13 に用います。パウロは、自分を福音の僕 ( コロサイ 1:23; エフェソ 3:7) 、教会の僕 ( コロサイ 1:25) 、霊における新しい契約の僕 (2 コリント 6:4) と記述します。ヨハネは、その語を、イエスに従った人たち全般に用います。彼らはイエスの「助祭」、イエスの僕です ( ヨハネ 12:26)

 

イエスはご自身が、仕えられるためにこの世に来たのではない、仕えるために来たのだ、と語ります。 ( マタイ 20:28; マルコ 10:45). きょうの福音の前にある、 マルコ 8:34-38 の、十字架を担うことと自分の生命を失うことについての言葉は、イエスが「全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」と語るときに、新しい、特別な意味が付け加えられます。

 

再定義された偉大さ

偉大さについての総体的な考え方が、弟子たちのために再定義されます。(「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」)

成功と失敗、勝利と敗北、達成と未完成の意味を定める新しいカテゴリーが設定されます。

ここで、イエスは弟子たちの真ん中に子どもを立たせ、抱き上げます。ここで強調されるのは、子どもの純真さや無邪気さ、他人への信頼、あるいは遊び好きな点ではありません。子どもは、いつも権威あるものの下にいて無力な存在であり、その弱い立場こそが強調されるのです。

イエスは、新しい相互関係を創り上げます: 「わたしの名のためにこのような幼い子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 幼子、イエス、そして神との間に互いを温かく受け入れる交わりが確立されます。

 

子どもはよく、無力さと他人への全面的依存の象徴になります。マルコは、無力な人、一人前でない人を受け容れるように教えます。この姿勢を通して、イエスはわたしたち一人ひとりの中にある幼い子どもの資質を示すのです。イエスは、ご自身の内に子ども(の性質)をもち、弟子たちにも、まさにこの子どものような資質を求めるのです。 

 

弟子たちは、わたしたち自身の姿をはっきりと映し出す鏡になります。弟子たちの過ちや理解不足は、わたしたちのような後の時代の「弟子」の過ちのパターンを典型的に示します。後の時代の弟子たちもまた、根本的な変革を求めるイエスのメッセージを理解するのに時間がかかります。

 

知恵と徳

真の知恵を得ることについての、深い、普遍的な教えの一つは、神の僕である教皇ヨハネ・パウロ 2 世によって示されました。それは 1995 10 5 日、ニューヨークの国連総会での歴史的演説の中で語られました。その言葉は今もわたしの心の中に響いています。

世界各国の指導者たちを前に教皇は次のように語りました。

「わたしたちは未来への恐れを克服せねばなりません。しかし、共に行うのでなければ、それを完全には克服できないでしょう。恐れに対する『答え』は、強制や抑制ではなく、全世界に単一の社会的『モデル』を押し付けることでもありません。 20 世紀の終わりに当たって、人間の存在に影を落とす恐れへの回答は、平和、連帯、正義、そして自由の普遍的価値に基づいた、『愛の文明』を構築する共通の努力です。そして、愛の文明の「魂」は、自由の文化のうちにあります。それは、自己放棄の連帯と責任の内に息づく、個人の自由と諸国民の自由の文化です。」

 

「わたしたちは、未来を恐れてはなりません。人間を恐れてはなりません。わたしたちが今ここに居るのは偶然ではありません。人間の一人ひとりは、存在する全ての原点である方、神の『似姿』に創造されています。わたしたちは自分の内に知恵と徳の能力を備えています。これらの賜物と神の恵みの助けによって、わたしたちは来るべき世紀に、そして次の千年期に、人間人格に値する文明を、真の自由の文化を建設できます。わたしたちはそれが可能ですし、そうしなければなりません! そうすることで、わたしたちは、この 20 世紀に流された涙が、人間精神の新しい春の季節のための土壌を整えているのを見ることになりましょう。」

 

祈りましょう。 主が人の心に蒔いた、正義、知恵と、徳の種が大きな収穫をもたらしますように。

これらの賜物なしには、わたしたち全てが望む、愛の文明と自由の文化の到来は不可能です。 

 

 


The Meaning of Christian Wisdom

Biblical Reflection for 25th Sunday in Ordinary Time B

By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, SEPT. 16, 2009 (Zenit.org).- The picture of the righteous one in today's first reading from the Book of Wisdom is based on the fourth Servant Song [Isaiah 52:13-53:12], as well as on Isaiah 42:1 and Psalm 22:8. Though the Book of Wisdom book was not accepted into the canon by the rabbis of Palestine, nonetheless it seems to have influenced the writers of the New Testament, especially in their portrait of Jesus, the righteous one who was unjustly condemned.

 

The haunting description of the wicked who lie in wait for the righteous in today's first reading (Wisdom 2:12 and 17-20) leaves the hearers shocked. The thoughts and actions of the wicked are cold and calculated: "Let us see if his words are true, and let us test what will happen at the end of his life; for if the righteous man is God's child, he will help him, and will deliver him from the hand of his adversaries. Let us test him with insult and torture, so that we may find out how gentle he is, and make trial of his forbearance. Let us condemn him to a shameful death, for, according to what he says, he will be protected" (2:17-20).

 

The righteous one is attacked because his lifestyle is a condemnation of the wicked: "He reproaches us for sins against the law" (2:12).

The righteous one's fidelity is vindicated. He does not die because he shares community with God. The righteous person is characterized by gentleness and patience, is tested, persecuted and even killed by the self-confident wicked. They resolve to persecute the righteous one because his life and words are a reproach to them (2:12-16), and they determine to test the claims of the righteous one (17-20). The wicked invite death by their evil deeds.

 

Who is wise among you?

The question introduced at the beginning the Letter of James 3 frames the entire discussion: "Who is wise and understanding among you?" In other words, how is wisdom perceived? James (3:13-4:3) addresses the symptoms of wisdom, both godly wisdom and another kind of wisdom, which is "earthly, unspiritual, devilish" (3:15). With 4:4, James spells out a sharp dichotomy between the wise and the unwise, characterizing the wise person as one who is an enemy of the world and the unwise as one who is "an enemy of God" (4:4). "Real wisdom is first pure, then peaceable, gentle, willing to yield, full of mercy and good fruits, without a trace of partiality or hypocrisy" [3:17].

 

The assigning of various vices and virtues to differing wisdoms becomes more intense in 4:1-3, where the author introduces questions of internal conflict with one another. When motives and behaviors are in conflict with one another, they provide another clue that wisdom is absent. The author of James defines wisdom as being docile, lenient, and peaceful. All of these are qualities of children, yet James and the Wisdom literature of the Bible also recognize these as mature adult qualities. Without such qualities, the person turns into a monster guilty of conflicts, disputes, wars, murder, envy, quarreling and fights. Such people squander what they receive on their own pleasures. True Christian wisdom is dedicated to others; jealousy and strife are self-centered. This passage makes it clear that we should imitate wisdom rather than fame and wealth.

 

Ingredients

Today's Gospel passage (Mark 9:30-37) is the second of the Passion predictions of Jesus in Mark's Gospel. Jesus' announcement of his passion and death leaves the disciples without words. In the meantime, they argue who was the most important among them. We find the same pattern as in last week's Gospel -- the prediction, misunderstanding, and instruction on the nature of discipleship.

 

For Mark, these scenes contain all the ingredients of Christian wisdom. Like the other predictions, today's passage is followed by a series of sayings on discipleship (9:30-37). In this brief discussion with Jesus, three features of the disciples are revealed.

 

First, even after failure, the disciples are singled out for special instruction. The immediate preceding incident details the inability of the disciples to help the father and his son who was troubled with an unclean spirit (9:14-29). Jesus scolds them harshly, since their failure has led to another confrontation with the scribes: "How much longer must I put up with you?" (9:19). Yet the weakness of the disciples has not diminished his zeal to prepare them for life in the Kingdom of God.

 

Second, the disciples find Jesus' message baffling. This is the second time that Jesus predicts his destiny in Jerusalem, yet the disciples fail to understand and are so intimidated that they will not even ask any questions (9:32). When Jesus asks them what they are arguing about on the road, they were so embarrassed that they had nothing to say. They may not have understood much but they knew enough that their argument was completely out of order. They are baffled and humiliated. But Jesus has not given up on them yet.

 

The third thing that happens to the disciples is that they learn a profound lesson about what it means to be servant. When Mark uses the word "servant" in today's Gospel, he is using the Greek word which also means deacon. This word is first used of the waiters who serve the water-made-wine at the wedding feast at Cana (John 2:5,9). Matthew uses it for the king's servants in the parable of the marriage feast (Matthew 22:13). St. Paul describes himself as a servant of the Gospel (Colossians 1:23; Ephesians 3:7), servant of the Church (Colossians 1:25), servant of the new covenant in the Spirit (2 Corinthians 6:4). John uses it of Jesus' adherents in general; they are his "deacons," his servants (John 12:26).

 

Jesus tells us that he himself did not come on earth to be served; he came to serve [Mt 20:28; Mk 10:45]. The previous words on cross-bearing and losing one's life (Mark8:34-38) are given added meaning and specificity when Jesus speaks of being last of all and servant of all (Mark9:35).

 

Greatness redefined

The whole notion of greatness is redefined for the disciples. New categories are established for determining success and failure, winning and losing, achievement and unfulfillment. At this point Jesus introduces the child into their midst. It is not the child's naïveté or innocence, trustfulness or playfulness that is highlighted here, but the child's lowly status, as one always under the authority of another and without rights. Jesus forges a new system of relationships: welcome the little child in my name and you welcome me; welcome me and you are welcoming no less than God himself.

A communion of hospitality is established between the little child, Jesus, and God.

 

The child is an apt symbol for powerlessness and total reliance on others. Mark teaches us to welcome the powerless and the disenfranchised. Through this gesture, Jesus illustrates the qualities of the little child within each of us. Jesus possessed the child within in himself and he expects nothing less than these childlike qualities from his disciples.

 

The disciples become mirrors in which we see ourselves all too clearly. Their failures, their inability to understand typify the patterns of future generations of disciples like us who are also slow to understand the radical message of Jesus.

 

Wisdom and virtue

One of the profound, universal lessons about acquiring true wisdom was taught by the Servant of God Pope John Paul II during his historic address to the General Assembly of the United Nations in New York City on Oct. 5, 1995. Those words still ring in my heart and mind today. Addressing the leaders of the nations of the world, the Holy Father said: "We must overcome our fear of the future. But we will not be able to overcome it completely unless we do so together. The 'answer' to that fear is neither coercion nor repression, nor the imposition of one social 'model' on the entire world. The answer to the fear which darkens human existence at the end of the 20th century is the common effort to build the civilization of love, founded on the universal values of peace, solidarity, justice, and liberty. And the 'soul' of the civilization of love is the culture of freedom: the freedom of individuals and the freedom of nations, lived in self-giving solidarity and responsibility.

 

"We must not be afraid of the future. We must not be afraid of man. It is no accident that we are here. Each and every human person has been created in the 'image and likeness' of the One who is the origin of all that is.

We have within us the capacities for wisdom and virtue. With these gifts, and with the help of God's grace, we can build in the next century and the next millennium a civilization worthy of the human person, a true culture of freedom.

We can and must do so! And in doing so, we shall see that the tears of this century have prepared the ground for a new springtime of the human spirit."

 

Let us pray that the Lord will bring to harvest the seeds of righteousness, wisdom and virtue sown in human hearts. Without these gifts, the civilization of love and the culture of freedom for which we all long will not be possible.

 

 

 


 

朗読:

 

知恵 2:12, 17-20: (神に逆らう者は言う。)「神に従う人は、邪魔だから、だまして陥れよう。我々のすることに反対し、律法に背くといって我々をとがめ、教訓に反するといって非難するのだから。「彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。敵の手から救い出されるはずだ。暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。その寛容ぶりを知るために、悪への忍耐ぶりを試みるために。彼を不名誉な死に追いやろう。彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」

 

ヤコブ 3:13-4:3: あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。

 

ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

 

マルコ 9:30-37: (イエスと弟子たちは)そこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

 

 

 

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