愛、それは兄弟が還る場所
年間第 24 主日 聖書黙想 2010/9/12
ルカ福音書の 15 章は、しばしば新約聖書の「失くしもの話」のコレクションと呼ばれます。この章は、見失った羊のたとえ話( 1-7 )で始まり、失くした銀貨( 8-10 )の話が続き、今日の福音の核心となる有名な放蕩息子のたとえ話( 11-32 )で最高潮に達します。 (訳註:今週の「聖書と典礼」は 1-10 までで、 11-32 は省略されています。)
「放蕩」( prodigal )という言葉には二つの意味があります。形容詞としては、極端で、贅沢で、節度のない浪費家を表します。「質素な、つましい」( frugal )の反対語です。名詞としては、道楽者、無駄遣いの多い人、浪費家、乱費家と同意語です。この聞き慣れた、愛すべき物語が、なぜ「放蕩息子のたとえ話」と呼ばれてきたかを理解するのはたやすいことです。この息子は、確かに父親のお金を浪費し、自分の相続した遺産を無駄に使い果たしました。しかしこの物語は、わがままな息子のことよりももっと多くのことを語っています。
わたしたちは、登場人物それぞれの役を演じたことがある。
ほとんどの人が、生活の中のいろいろな機会に、この物語に登場するそれぞれの人物の役を演じた経験を持っています。前後を顧みずに愛に溺れ、明らかに子供にのめり込みすぎている親を演じたこともあれば、罪深さとプライドのために落ちぶれて、懸命に憐れみを求める弟を演じたこともあり、また、兄のように、責任感が強くて非の打ち所がなく、そのために、(父親のような)他者の弱さや罪を受け容れる寛大さ、憐れみ深さを目の前にすると混乱してしまう役割を演じたかも知れません。
弟は、「財産を無駄使いしてしまった。」と書かれています。この息子は、明らかに異教徒(異邦人)の国に行ったのです。何故なら、誇りあるユダヤ人の農夫で、不浄な動物とされる豚を飼う人など居るはずがないからです。この息子が長い旅をしたのは確かです。彼は、どこか異国に行けば、自分の故郷では決して見つけることができなかった幸福や刺激を発見できるだろうと想像していました。
そして、結果は、まさに正反対でした。彼は、外国人の奴隷にまで身を落とし、不浄の動物の世話をさせられ、十分な食事をとれないまま、次第に餓死に向って行ったのです。
真の悔い改め?
キリスト者の悔い改めの良き模範として、放蕩息子の話がしばしば引き合いに出されますが、実際のところ、彼が家に戻った動機は決して立派なものではありませんでした。彼は飢えに苦しみ、ついには自分が最低の生活に落ち込んでいることを覚ったのです。彼は、父の家の雇い人にさえも値しないまでに落ちぶれてしまったのです。
この若者が自分を惨めに思うのは、悔い改めへと導く罪悪感のためではなく、自分が窮乏の状態にあるからです。彼は、自分がいかに愚かであったかに気が付いて「我に返り」ました。それは、本当の悔い改めではないとしても、悔い改めへの前触れです。(父親に会う前に)あらかじめ話すことを準備し、話す練習をしているという事実は、多少正直さに欠けていることを暗示しています。そして、彼は、引き続き、自分自身と自分が必要としているものにしか興味がありません。
父親の「不釣り合い」な反応
この物語では、父親は明らかに息子に対する望みを捨てていませんでした。父は、息子が戻ってくるかも知れない、再び家族同士になれるかも知れない、と願って地平線を見つめていたのです。還ってきた息子に対する父親の反応は、愛とあわれみと優しさのほとばしりです。父親は、「走り寄って首を抱き」、接吻し、僕たちに命じて、家族の中の自由と地位の象徴となる、いちばん良い服、履物、指輪を息子に戻します。まるで何事もなかったかのようです!
この父親の反応は、人間の論理のレベルでは、息子にふさわしい対応と比べて全く不釣り合いです。弟息子には、父親に何かを期待する権利は全くありません。そして父親は、息子の非常に無礼な行動や家族にもたらした辱めを理由に、彼を家から追い出してもおかしくはなかったはずです。
神が見るように見るために
二人の息子の寛大な父親は、遺産を浪費した弟息子を喜んで迎え入れますが、父親に忠実でありながらもその気前の良さに抗議する兄息子に対しても、冷たい態度はとりません。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」( 31 節) 「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」( 32 節) 弟息子が戻ってきたことで、兄息子の忠実さの価値が失われることはないのです。
このたとえ話によって、イエスは、わたしたちの予想や範疇をくつがえし、(神と人、人と人の)関係性を、全く新しい、違った視点から見るように働きかけます。―「神が見るように見るために」。
わたしたちは、天国の「出納係」という神のイメージを捨てなければなりません。このイメージの神は、信仰のある人々の間で余りにも当たり前になっているもので、ごくわずかな誤りも逃さず責め立てようといつも身構えている神のイメージです。わたしたちは、聖ヨハネ・クリゾストモの言葉を決して忘れてはなりません。「神がわたしたちに求めるのは、ほんの少し心を開くことだけなのに、神は、おびただしい数の罪を赦してくださいます。」
兄息子の反応
兄の反応は、正当な怒りと言えるでしょう。彼は従順で信頼できる人物であり、弟が冒険を求めて無謀な出奔をした後も、家に留まって農園を管理し、父親の世話をしていました。それなのに、兄の言葉からすぐに分かったことは、彼のそのような行為が、愛や寛容によるものではないということです。むしろそれは押しつけられたもので、彼としては、何年もの間、相応しい感謝も示されないまま、父親のために奴隷のようにあくせくと働いてきたと感じているのです。兄息子が父親に話すときの厳しさや冷たさや悪意は、以前の弟のふるまいと全く同じレベルの無礼さを露呈しています。兄は、何を与えられてきたかではなく、何を奪われてきたかという気持ちにばかり目を向けます。彼は、今日、大流行の域に達している「権利の主張」という怖ろしい感染症を患っています。
兄は、弟のふるまいを具体的に非難し、父親に、弟がどのようにして「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶし」たのかを語ります。兄はどうしてそのことを知っているのでしょうか?ことによると彼は、弟について最悪のことを想像して、できるだけどぎつい言い方で話しただけかも知れません。誰かに怒って、その人について最悪のことを想像し、その欠点や失敗を推測し、信じられないレベルにまで話を誇張するとは、なんと安易なことでしょうか!
晴れない疑問
兄息子は、最終的に弟と和解して彼を喜んで迎え入れるのでしょうか? 兄は弟を許し、父親の喜びを共有する気持ちになれるのでしょうか? それとも、弟が疎外されたよりももっと疎外されていると感じるのでしょうか? 答えは無いまま、イエスが示さなかった結末に希望を残すだけです。それでも、ことによると、これが鍵かも知れません。一人一人が、自分で結末を書かなければならないのです。そして息子たちが、イエスの物語が明白に求めている種類の愛、憐れみ、共感で答えるかどうかを決めなければなりません。
イエスがわたしたちに何を求めているのか、わたしたちは知っています。当然のことながらそれはチャレンジです。その挑戦をわたしたちが喜んで受け入れ、自分の生き方と関係性の中で実行するかどうかを問うチャレンジです。わたしたちは、多分弟の側に立つでしょう。でも、それは、たとえ話の結果を知っているからに過ぎません。わたしたちは、心の奥底では、どちらの息子にとっても帰る場所となる「愛」にぶつぶつと不平を言っています。
教皇ヨハネ・パウロ 2 世は、 1984 年の使徒的勧告「教会の使命としての和解と償い( Reconciliatio et Pænitentia )」の中で、このすばらしい物語について書いています。「放蕩息子のたとえ話は、なによりも、父すなわち神の名状しがたい愛の物語です。父である神は、息子が自分のもとに帰ってくると、完全な和解という賜物を息子に与えます。・・・中略・・・それゆえ、このことは、御父の憐れみを再び発見することにより、また、兄弟姉妹の間の誤解と敵意に打ち勝つことにより、心の奥底から生まれ変わる必要があることを思い起こさせてくれます。」
「放蕩息子」、または「惜しみなく与える父」、あるいは「憤慨する兄」に関するたとえ話は、わたしたちの大きな悩みの種になるかも知れません。それは、本当の自分や、行為の動機が白日のもとに曝されるからです。 2002 年にトロントで行われたワールド・ユース・デイの閉会ミサでの、教皇ヨハネ・パウロ 2 世の別れの言葉を忘れないようにしましょう。「わたしたちの存在は、弱さや失敗の集積ではありません。わたしたちが神の子の似姿になるために、父なる神が、わたしたちと、わたしたちの真の力に向けて注いで下さる愛の集積なのです。」
ニューマン枢機卿とキリスト者の悔い改め:
ジョン・ニューマン枢機卿の、放蕩息子のたとえ話についての黙想は、わたしたちにとって今なお意味あるものです。 http://www.newmanreader.org/works/parochial/volume3/sermon7.html
「 人は、様々な時に悔い改めをしますが、その業は、 少しずつ、行きつ戻りつしながら完成されます。或いは、むしろ、 悔い改めという言葉の意味が変わって行かないと、その業は決して完全なものにはならないのです。 ・・・『悔い改め』が本来抱えている不完全さと、それを行うために次から次へと発生する事柄のために完成できないのです。わたしたちは罪から逃れることは出来ません。ですから、常に後悔の念と従順の意向を新たにし、赦しを求めて告白と祈りを繰り返すことが必要です。もしも、悔い改めの始まりが、自分の信仰の歩みの中で類のない独自なもので、遡ってそれを辿ることが出来るとしても、改めてそれを振り返る必要はありません。わたしたちは、いつも「始まる」ことしかできません。最も完全なキリスト者は、自分が「始まり」、すなわち神の恵みを浪費し、悔い改めた放蕩息子と同じ状態にあると考え、息子としてではなく、雇い人として、再び受け容れてもらうために主のもとに立ち帰るのです。
「それ故に、 戻ってきた放蕩息子 のたとえ話が、一般的なキリスト者の生活の中に明確に見られるように、先ず不従順な状態があり、それに続いて回心の状態があることを示しているのだ、と理解する必要はありません。それは、全てのキリスト者の、全ての状態について述べており、状況により、様々なケースによって、多少の違いはあっても完遂されます。それはまた、キリスト者としての歩みの始まりにおいて、ある方法と尺度で完遂され、その歩みの終わりには、別の方法と尺度で完遂されるのです。」
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聖書朗読:
出エジプト 32:7-1,13-14 : 32:7 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 32:8 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 32:9 主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 32:10 今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 32:11 モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 32:13 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 32:14 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。
1 テモテ 1:12-17 : (愛する者よ、わたしは) 1:12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 1:13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 1:14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 1:16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 1:17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
ルカ 15:1-32 or 15:1-10 : (「見失った羊」のたとえ)
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。 15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
(「無くした銀貨」のたとえ) 15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
(「放蕩息子」のたとえ) 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
A Love That Makes a Home for Both Sons
Biblical Reflection for 24th Sunday in Ordinary Time C, By Father Rosica, CSB
TORONTO, SEPT. 7, 2010 ( Zenit.org ) .- Chapter 15 of Luke's Gospel is often referred to as the "lost and found" collection of the New Testament. The chapter begins with the parable of lost sheep ( 1-7 ) , followed by the parable of lost coin ( 8-10 ) , reaching its crescendo in the masterpiece of the parable of prodigal son ( 11-32 ) , at the heart of today's Gospel.
The word "prodigal" has two meanings: as an adjective it describes someone who is excessive, extravagant, immoderate and wasteful -- the opposite of "frugal." As a noun it is a synonym for the profligate, the spendthrift, the squanderer, the wastrel. It is easy to understand why this familiar and beloved story has been called the "parable of the prodigal son." The boy certainly squandered his father's money and was wasteful of his inheritance. But the story is about much more than a wayward boy.
We have played each of the roles
At different times in our lives, most of us have played each of the roles in this story: that of the doting, loving, apparently overindulgent parent; that of the younger son whose sinfulness and pride have brought them low, and desperately in need of mercy; the older son, who is responsible and above reproach, and who is upset at the generosity and leniency with which the weaknesses and sins of others are understood.
We are told that younger boy "squandered his property." The son has obviously gone to a pagan ( Gentile ) nation, since no self-respecting Jewish farmer would raise pigs -- non-kosher animals. The son apparently traveled a long way, imagining that he would find in some other country the happiness and excitement he had apparently not found in his own land -- and the result was just the opposite: He is reduced to slavery to foreigners, forced to tend to unclean animals, and ill-fed, so that he is slowly starving to death.
True repentance?
Although we often point to the prodigal son as the example of appropriate Christian repentance, the fact is that his motivations for returning home are less than noble. He is desperately hungry, and finally realizes the extreme degradation in which he is living -- a degradation that places him even below the household servants in the home of his father.
The young man is in misery not because of a sense of sin that might lead to repentance, but from his destitution. He came to realize how foolish he had been and so "came to his senses." That is a prelude to repentance, even if not repentance itself. The fact that he prepares and rehearses his speech in advance suggests a certain lack of sincerity; he continues to be only interested in himself and his own needs.
The father's disproportionate response
In the story, the father has evidently never given up hope on his son, and has continued to scan the horizon for signs that he might return, and that they might once again be a family. The father's reaction to his son's return is an overflowing of love, compassion and tenderness: He "falls on his son's neck," hugging and kissing him, and demands that the symbols of his freedom and of his status within the family -- the best robe, sandals, the ring -- be restored to him, as if nothing had happened!
The father's response is on the level of human logic, entirely out of proportion to what the son deserves. The younger son has forfeited his right to expect anything from his father, and the father would have been well within his rights to turn the son away, on the basis of his deeply insulting actions, and the shame he had caused his family.
To see as God sees
The generous father of both sons welcomes back the youth who squandered his inheritance but does not repudiate the older son who protests the father's prodigality yet remains faithful to the father. "Son, you are always with me, and all that is mine is yours" ( 31 ) . The restoration of the son who "was dead and has come to life," who "was lost and has been found" ( 32 ) , does not invalidate the fidelity of the older son.
In this parable, Jesus overturns our expectations and categories and challenges us to see our relationships from a radically new and different perspective -- "to see as God sees."
We must abandon the image -- all too common among people of religious faith -- of God as the heavenly accountant, poised to pounce on the slightest mistake. We must never forget the words of St. John Chrysostom: "All that God looks for from us is the slightest opening and he forgives a multitude of sins."
The older brother's reaction
The reaction of the elder son is one of righteous indignation: He has been the obedient, responsible one, staying at home to manage the farm and take care of their father after his younger brother's precipitous departure in search of adventure. And yet the elder brother's words quickly make it clear that, although he has done so, it has apparently not been out of any sense of love or generosity; instead, he feels that he has been imposed upon, has "slaved away" for years for his father without appropriate gestures of gratitude. The bitterness, coldness and spite with which the elder son addresses his father reveals a level of rudeness that is every bit as insulting as the earlier actions of his younger brother. He focuses, not on what he has been given, but on what he feels he has been deprived of. He suffers from the terrible disease of entitlement that has reached pandemic proportions in our day!
The elder brother is concrete in condemning his younger brother's behavior; telling his father how the younger brother has "devoured your money with prostitutes." How does the elder brother know this? Perhaps he simply imagines the worst about his brother, and describes him in the harshest possible terms. How easy it is, when we are angry with someone, to imagine the worst about them, to speculate about their faults and failings and magnify them to incredible proportions!
Lingering questions...
Does the elder son finally make peace with his brother and welcome him back? Does he find it in his heart to forgive, and to share in the father's rejoicing? Or does he find himself even more alienated than his younger brother had been? We are left with no answers, hoping for a conclusion that Jesus never provides. And yet perhaps that is the key: that each person must write the conclusion for him/herself, must decide whether they will respond with the type of love, mercy and compassion that Jesus' story evidently demands.
We know what Jesus asks of us; the challenge, of course, is whether we are willing to accept that challenge and put it into practice in our own lives and relationships. We probably side with the younger brother only because we know the outcome of the parable ahead of time. In our heart of hearts, we grumble at love that makes a home for both sons.
Pope John Paul II, in his 1984 apostolic exhortation "Reconciliatio et Pænitentia," wrote about this magnificent story: "The parable of the prodigal son is above all the story of the inexpressible love of a Father -- God -- who offers to his son when he comes back to him the gift of full reconciliation. [...] It therefore reminds us of the need for a profound transformation of hearts through the rediscovery of the Father's mercy and through victory over misunderstanding and over hostility among brothers and sisters."
The parable of "the prodigal son" or "the prodigal father" or the "indignant elder brother" can cause much grief for us, as we see ourselves and our motives exposed for what they really are. Let us not forget the parting words of Pope John Paul II at the closing Mass of World Youth Day 2002 in Toronto: "We are not the sum of our weaknesses and failures; we are the sum of the Father's love for us and our real capacity to become the image of his Son."
Cardinal Newman and Christian repentance
Cardinal John Henry Newman's reflections on today's Gospel parable of the prodigal son are still relevant for us: http://www.newmanreader.org/works/parochial/volume3/sermon7.html
"Repentance is a work carried on at diverse times, and but gradually and with many reverses perfected. Or rather, and without any change in the meaning of the word repentance, it is a work never complete, never entire -- unfinished both in its inherent imperfection, and on account of the fresh and fresh occasions that arise for exercising it. We are ever sinning; we must ever be renewing our sorrow and our purpose of obedience, repeating our confessions and our prayers for pardon. No need to look back to the first beginnings of our repentance, should we be able to trace these, as something solitary and peculiar in our religious course; we are ever but beginning; the most perfect Christian is to himself but a beginner, a penitent prodigal, who has squandered God's gifts, and comes to Him to be tried over again, not as a son, but as a hired servant.
"In this parable, then, we need not understand the description of the returning prodigal to imply that there is a state of disobedience and subsequent state of conversion definitely marked in the life of Christians generally. It describes the state of all Christians at all times, and is fulfilled more or less, according to circumstances, in this case or that; fulfilled in one way and measure at the beginning of our Christian course, and in another at the end."