イエスの使命の確言、本性、その目的

年間第24主日(B年)福音黙想 2009/9/13  トマス・ロシカ師

 

 

今日の福音朗読は、イエスの使命の確言、本性、その目的について語っています。マルコは、このエピソードを彼の福音書の中央に据えます。それはイエスがベドサイダで盲目の人を癒した物語の直後に位置しています。

 

この視力の回復の物語は、きっとペトロの信仰告白とご変容の栄光の瞬間のための舞台設定に違いありません。今やイエスの本性が、弟子たちに次第に明らかされます。弟子たちは、目の見えない状態からは進歩しましたが、まだ自分たちの目にしていることの意味を完全には理解してはいません。

ここから後は、マルコの福音書の全ての記述がイエスの十字架に向かって進行します。

 

マルコ福音書の、イエスの公的宣教についての記述に「変換点」があるとしたら、それは今日の福音の個所です。

 

1990 年代、イスラエルでの研究の間に、私は、カエサリア・フィリピ(フィリポ・カエサリア)の発掘で、 イスラエルの考古学チームと親しく交わり、共に働く機会に恵まれました。カエサリア・フィリピは、  現在は、 Paneas (ギリシャ神話の牧羊神パン)に当てはまるバニアス( Banias )という名で知られています。当時この、ギリシャ神パンの礼拝の中心地には、性的奔放さと暴力が蔓延していました。

 

イエスの時代に、ヘルモン山の麓の、イスラエルとシリアの国境にあるこの異教徒の神殿では、

豊かな収穫を求める祭儀が盛んでした。イエスと弟子たちは、住み慣れた環境を離れ、長い旅の途中でフィリポ・カエサリア地方に入ります。

 

フィリポ・カエサリアは、イエスの時代のヘロデとは別の世代のヘロデ一族に当たる、フィリピが造った都市で、ローマ軍が駐屯していました。今、異教のギリシャ神パン崇拝の中心であるこの地で、イエスは、彼らが自分の本性をどのように理解しているのか尋ねます。イエスは、人々が自分について何と言っているかを尋ねるのです。人々は自分のすることをどのように見ているのか。そして、人々は自分を誰だと思っているのか。

 

弟子たちは、多分この質問に不意を打たれ、ガリラヤ湖畔の漁村で 小耳にはさんだ 批評、過去の会話や、広まっていた意見やうわさ話の記憶を掘り起こします。イエスご自身は、自分がおよそどのように言われているかはご存知で、ナザレの故郷の町の人々の棘のある態度も十分に知っておられます。

 

イエスの質問に答えて、弟子たちは、人々がイエスについて語るさまざまな表現を上げました。これらの表現はイエスに寄せられるさまざまな期待を表しています。イエスを、当時の権力者たちと現実的に対立するエリヤのような人だと考える人もありました。また別な人々はイエスを、むしろ熱情は同じだが、内面の旅路、人生の個人的側面をより重視するエレミアに似ていると考えました。

 

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」、とイエスは質問をさらに進めます。「あなたは、メシアです。」唯一の真の神ですと、ペトロが答えます。イエスは、この認識を認めますが、ご自分のメシア(救い主)としての役割をだれにも話さないようにと弟子たちを戒めます。それは、当時のメシアという呼び名が持つ曖昧な意味合いがもたらす混乱を避けるためです。それからイエスは、幾分謎めいた態度でこう続けます。人の子は、必ず多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、復活することになっている。

 

ユダヤ教におけるメシアの概念:

ユダヤ教の「メシア」には統一された概念はありませんでした。メシアすなわち「油注がれた者」で、ダビデの系譜に属す理想的な王であるというのが当初の理解であったようです。しかし、マカバイの時代 (163-63 B.C.) には、マカバイ一族が属していたレビ族からメシアが出ると信じられていたことが「十二族長のギリシャ語聖書」によって証拠付けられています。

 

死海文書には、いろいろな考えが出てきます。すなわち、祭司であるメシアとイスラエルの民であるメシア、またはモーゼのような預言者 ( 申命記 18:18-19) 、それはヤコブの一族から出る星でもあります ( 民数記 23:15-17) 。しかし、ダビデの家系に属するメルキゼデクもまた救い主ですが、メシアとは呼ばれていません。

 

イエスをメシアであると宣言することは、たいへん危険を伴う声明でした。イエスの敵がイエスへの攻撃に必要としているのはその声明だけでした。そして、王の称号詐称を罪状にして攻撃に参加しようと待ちかまえている人は大勢居ました。しかし、こうしたことには全く関わりなく、イエスの役割は、そのようなものではありませんでした。イエスは、決してそのような軍事上の、または政治上の救い主メシアになる心算もなければ、そうなることもないのです。

 

現代のイエスの役割を確認する

イエスの本性とメシア(救い主)としてのイエスの役割を確認しようという努力は今日も続いています。ある人たちは、個々のキリスト者と教会全体はエリヤに倣って、制度、組織、国策に公に立ち向かうべきだと言います。それがエリヤの、自分の役割に対する見方でした。列王記上17章〜21章には、エリヤが何に耐えていたのかが記されています。

 

暴力をあふれ持つ人々は、どんな場合でも、著しい不公正と誤りの状況に平和と正義をもたらすことはできません。ある人はエレミアのように、教会を通したキリストの支配は、生活の個人的、私的側面であると言います。そして今日の世界の中で、実際に多くの人々は、宗教と信仰を私的な問題に矮小化しようとしています。

 

イエスは、二つの考え方の先に思いを巡らせて、こう尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 ペトロが彼らしい性急さで思わず口にした「あなたは、メシアです。」という答えの中には、上述の二つの考えを含むと同時に、両者を超える概念があります。このメシアは、社会に入り込み、個人の生活に入り込み、すべての点において、公私の区別に一致をもたらします。この質問に対する私たちの答えの質は、私たちの弟子としての質を測ることのできる最良の尺度です。

全ての人にとって、いつの日か、フィリポ・カエサリアに自分の身を置いて、「それでは、あなたはわたしを何者だと言うのか。」というイエスの質問に答えなければならない場面があるはずです。

 

イエスに関する事実

「私たちにとって、イエスとは何ものなのか」という質問に答え続ける中で、イエスのバックグラウンド、イエスの本性と使命に関して確実な事実を呼び起こしてみましょう。それこそが、今日の世界の教会の使命を準備したものなのですから。

 

•  イエスは、政治的なユダヤの部族に生まれました。祭司のレビの部族の出でも、祭司のザーディク一族の出でもありませんでした。イエスは、政治家ではありませんでした。
•  しかし、イエスは、鋭い政治感覚を持っていました。世界的宣教使命は、政治との深い相互関係抜きで、独立独歩で果たせるものではありません。
•  イエスは、砂漠の中のクムランとか、雑踏から離れたどこかの村や場所ではなく、カペルナウムで身を立てました。ガリラヤ湖の北西岸にあるカペルナウムには、主要道路が通り、徴税人が居て、ローマ軍の百人隊との取引がありました。イエスは、カペルナウムでは、エルサレムと違い気楽に過ごしました。

4)イエスは、汚れた人たち、病人や死にかけている人たち、罪人たち、社会の片隅に追いやられている人たちと親しく交わりました。イエスはその生活を通し、真福八端を宣言して聖書の正義を実践します。真の正義とは、病者たち、障害者たち、貧しい人たち、飢えている人たちと自分自身を結びつけることです。しかし、イエスは、その他の人たちを無視することはありませんでした。イエスは、貧しい人たち、しいたげられている人たちばかりでなく、金持ちや力ある人たちとも食事を共にしました。

イエスは、その時代の罪人たちや悲惨な境遇にある人たちの友となり、悪い行為には厳しく接しましたが、一方で、その人たちに生活を改めるよう勧めました。イエスは、ご自分が教え、癒す人々と「共にいる」ことで、その生き方を、私たちに教えてくれます。汚れた人たち、不正な人たち、罪人とのイエスの人間的な連帯は、また救いでもあります。

5)イエスは、ダビデの政治的な王国ではなく、神の王国を説きました。またあらゆるものに訴え、あらゆるものを、ご自分の王国のビジョンに組み込む偉大な能力を持っていました。イエスは、その生涯の間、イスラエルの希望を実現しようとひたすら試みました。イエスの説いた善い知らせは、究極的には愛についてでした。

今日でも広く流布している考え方に反して、イエスは、社会的な革命家ではありませんでした。イエスは、不正を糾弾するのではなく、愛で立ち向かいました。イエスのたとえ話の多くが、不正義の状況を前提としていることは印象的です。そして、不正を糾弾するのではなく、不正な人たちの熱意と才能と忍耐を、愛をもって生きる人々にとっての模範として示しました。一方、不正義によって生きる人たちは、イエスとイエスに従う人々のうちに、自分たちの生き方への根源的な異議申し立てを認めるとき、決して間違いを犯すことはありませんでした。

 

今日、イエスに従うには

今日の福音の最後のイエスの言葉「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ  8 34 35 は、全ての信者に、真の弟子となること、完全に自己を放棄すること、そして、自らの命を捨てることをも含めた、苦しみの十字架の受容によるイエスご自身への完全な献身を求めています。

 

十字架の道は、イエスのためだけではなく、イエスに従うと宣言したあらゆる人たちのための道でもあります。その先には、勝利と栄光があるかも知れませんが、それは、十字架を担うことのできる人たちだけのものです。もし、ペトロか他の弟子がこれを拒否するなら、それはすなわちサタンの味方になったことを意味します。

 

命を、単に自己中心的な地上の存在と見なし、キリストを否定して生るなら、その命は破滅に終わりますが、キリストに忠実に生きるなら、地上の死にも関わらず、その命は、命の豊かさの極みに到達することになります。

 

 

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Affirmation, Identity and Purpose of Jesus' Mission

Biblical Reflection for 24th Sunday in Ordinary Time B    By Father Thomas Rosica, CSB

 

 

TORONTO, SEPT. 9, 2009 (Zenit.org).- Today's Gospel story (Mark 8:27-35) is about affirmation, identity and purpose of Jesus' mission. Mark makes this episode the centerpiece of his gospel. It comes immediately after Jesus' healing of the blind man of Bethsaida.

 

This restoration of sight must surely set the scene for Peter's confession of faith and the glorious moment of the Transfiguration. Jesus' nature is now gradually revealed to the disciples. Their blindness is cured but they still do not understand the full meaning of what they see. From this point on, everything in Mark's gospel moves toward the crucifixion.

 

If there was ever a "turning point" in Mark's account of Jesus' public ministry, it is today's story.

 

During my graduate studies in Israel in the 1990s, I had the privilege of working closely with the Israeli archeological team on the excavations in Caesarea Philippi, now known as "Banias" referring back to "Paneas" or the Greek god Pan. Sexual excess and violence ran rampant in this center for the worship of the Greek god Pan.

 

At the time of Jesus, a fertility cult was thriving in this pagan temple on the northern border of Israel and Syria at the foot of majestic Mount Hermon. Jesus and his disciples entered the area of Caesarea Philippi as part of a long journey from their familiar surroundings.

 

Caesarea Philippi had been built by Philip, another generation of the Herodian family, and it was a garrison town for the Roman army. Here in this center of pagan worship to the Greek god Pan, Jesus asks about their understanding of his identity. Jesus asks what people are saying about him. How do they see his work? Who is he in their minds?

 

Probably taken aback by the question, the disciples dredge their memories for overheard remarks, past conversations, opinions and gossip circulating in the fishing towns of the lake area. Jesus himself is aware of some of what is being said and knows only too well the hurtful attitudes of his own townsfolk of Nazareth.

 

In response to Jesus' question, the disciples list a whole series of labels that people have applied to Jesus. These names reveal the different expectations held about him. Some thought of him as an Elijah, working toward a real confrontation with the powers that be. Some saw him more like Jeremiah, no less vehement but concentrating more on the inner journey, the private side of life.

 

Jesus pursues the question further -- "What do you say?" and Peter responds, "You are the Messiah" of the one true God. Jesus acknowledges this identification but forbids them from making his messianic role known to avoid confusing it with ambiguous contemporary ideas associated with that title. Then Jesus goes on to say, somewhat enigmatically, that the Son of Man must suffer, be rejected, die, and rise again.

 

The concept of Messiah in Judaism

There was no single concept of "Messiah" in Judaism. The idea of Messiah "anointed one" as an ideal king descended from David is the earliest known to us, but in the Maccabaean period (163-63 B.C.) the Greek Testaments of the Twelve Patriarchs give evidence of belief in a Messiah from the tribe of Levi, to which the Maccabaean family belonged.

 

The Dead Sea Scrolls contain various ideas: a priestly Messiah and the (lay) Messiah of Israel; a prophet like Moses (Deuteronomy 18:18-19) who is also the star coming out of Jacob (Numbers 23:15-17); but also the Davidic Messiah. Melchizedek is a deliverer also, but is not called Messiah.

 

To proclaim Jesus as the Messiah was a loaded and dangerous statement. It was all that Jesus' enemies needed to use against him, and already there were many who were ready to enlist under the banner of a royal pretender. But, far more than this, such a role was not Jesus' destiny. He would not and could not be that kind of militaristic or political Messiah.

 

Identifying Jesus' role today

The struggle to identify Jesus and his role as Messiah continues today. Some say individual Christians and the whole church should be Elijah figures, publicly confronting systems, institutions and national policies. That was the way Elijah saw his task. Read the First Book of Kings (Chapters 17 to 21) to see what Elijah endured.

 

Those filled with violence don't usually bring about peace and justice in situations that are terribly unjust and wrong. Some say, like Jeremiah, that the reign of Christ, through his Church, is the personal and private side of life. And there are indeed many who would like to reduce religion and faith to a private affair in our world today.

 

Jesus probes beyond both approaches and asks, "You, who do you say I am." In Peter's answer, "You are Messiah," blurted out with his typical impetuosity, we are given a concept that involves both of the above ideas and goes beyond them. The Messiah came into society, and into individual lives, in a total way, reconciling the distinction between public and private. The quality of our response to this question is the best gauge of the quality of our discipleship.

  Everyone at some stage must come to Caesarea Philippi and answer the question, "You, who do you say I am?"

 

Some facts about Jesus

As we continue to give answer to the question: "Who is Jesus for us?" let us recall certain facts about Jesus' background, identity and mission that have prepared the mission of the Church in the world today:

 

 

•  Jesus was born of political tribe of Judah -- not the priestly tribe of Levi nor the priestly family of Zaddok. Jesus was not a politician.

•  2) Jesus did, however, have a keen sense of politics. World mission cannot be undertaken independently without serious interaction with politics.

•  3) Jesus established himself at Capernaum rather than at Qumran in the desert or in some remote village or place away from the thick of things. In Capernaum, on the northwest shore of the Sea of Galilee, there was a main road, tax collectors, and dealings with the Roman centurion. Jesus was very much at home in Capernaum, not in Jerusalem.

4) Jesus bonded himself with the unclean, the sick and dying, with sinners, and those living on the f ringes of society. Through his life, Jesus puts biblical justice into practice in proclaiming the Beatitudes. Authentic justice is a bonding of one's self with the sick, the disabled, the poor and the hungry. But he did not neglect others as well. He dined with the rich and the mighty as well as with the poor and downtrodden.

He befriended sinners and the wretched of his times- never condoning their behavior, but inviting them to an alternative lifestyle. He teaches us that by "being with people" he also teaches and heals. His human solidarity with the unclean, the unjust and sinners also saves.

5 Jesus did not preach the political kingdom of David but the Kingdom of God. He had a great ability to appeal to everything and incorporate everything into his vision of kingdom. During his lifetime, he only tried to fulfill the hopes of Israel. The Good News he preached was ultimately about love. Contrary to some popular opinions still around today, Jesus was not a social revolutionary. He did not denounce injustice, but confronted it with love. It is striking how many of his parables assume situations of injustice, not to condemn the injustice but to show the zeal, ingenuity and perseverance of the unjust as a model for those who would live by love. Still, those who lived by injustice made no mistake when they recognized in Jesus and in those who followed him a fundamental challenge to their way of life.

 

Following Jesus today

Jesus words at the end of today's Gospel "Whoever wishes to come after me must deny himself, take up his cross, and follow me. For whoever wishes to save his life will lose it, but whoever loses his life for my sake and that of the gospel will save it." [vv. 34-35] challenge all believers to authentic discipleship and total commitment to himself through self-renunciation and acceptance of the cross of suffering, even to the sacrifice of life itself.

 

The way of the Cross was not for Jesus alone but also for everyone who professed to follow him. There might be victory and glory ahead, but it was only for those who could take up the Cross. If Peter or anyone else should reject this demand it meant to be on the side of Satan.

 

Life seen as mere self-centered earthly existence and lived in denial of Christ ends in destruction, but when lived in loyalty to Christ, despite earthly death, it arrives at fullness of life.

 

 

 


 

朗読

 

イザヤ 50:5-9a:主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。

 

ヤコブ 2:14-18:   わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

 

マルコ 8:27-35:(そのとき)イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

 

 

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