キリストを受け入れることは、彼の十字架を受け入れること

年間第 23 主日 聖書黙想 2010/9/5  トマス・ロシカ師

 

今日の福音(ルカ 14:25-33 )には、ルカf九韻書にしかない教訓が集められています。ルカはイエスに、弟子であるための条件を語らせます。ルカは、三つの教訓( 26-27,33 )と二つのたとえ話 28-32 をここにまとめます。

 

その教訓とたとえ話が言おうとしているのは、イエスの弟子となるには、完全な献身( dedication )が必要だということです。家族への愛着( 26 )も財産への執着( 33 )も、弟子に要求される完全な献身( commitment )の妨げになってはいけないのです。弟子となるように呼ばれ、それを受け入れるためには、進んで迫害と苦難を受け入れ( 27 )、困難と代償を現実的に評価することが求められます( 28-32 )。

 

今日の福音に出てくる二つのたとえ話は、イエスがすぐ前の節で話していることを、改めて独自の形で述べています。「あなたは、本当にわたしについて来たいのか?」「その費用は、あなたが支払えない額ではないのか?」

 

最初のたとえ話は、農夫が、盗人や食べ物をあさる動物たちを見張るための塔を、ぶどう園の中に建てる話です。

二番目のたとえ話は、大きな政治問題に直面した王家の様子を描いています。しかし、金持ちも貧しい人も、王族も小作農も、時間、財産、あるいは生命そのものを大きく失わなければ(費消しなければ)ならない場面では、本質的に同じ決断をしています。ここで失う費用は支払い不可能ではないだろうか? あるいは支払い可能な範囲だろうか? その決断です。

 

その決断は、キリストの弟子になる召命に直面するときも同様です。初めのうちは熱意に溢れているでしょうが、その熱意を最後まで保ち続ける力が、自分にあるでしょうか?

 

この二つのたとえ話は共に、弟子となるための「費用(代償)」を見積もるのに、知恵を使う必要があることを強調しています。塔を建てる人も、戦いに臨む王も、最終決定をする前に、費用を計算し、危険を考慮しなければなりません。

キリストに従うためには、いつもキリストを最優先する献身が要求されることを、弟子は知らなければなりません。キリストのペルソナを受け入れることは、彼の十字架を受け入れることなのです。

 

わたしたちの幸福の源泉

今日の第一朗読の「知恵の書」 9:13-18 の作者は、身体に関することと精神に関することについて古くから存在する区別(しばしば二元論として語られる)を論じているのではありません。旧約聖書(ヘブライ語聖書)の人間性の捉え方は二元論的ではありません。たとえ、人間の本性には限界があり、神の神秘を完全に理解できないことが明白であっても・・・。

 

キリスト者として、わたしたちは人類の進歩に反対する必要も、快適な暮らしや楽しみを拒否する必要もありません。信じる者は、知恵と実生活の微妙なバランスの内で、これらを評価・検討しなければなりません。今日の第一朗読は、幸福が、単に物を獲得することで得られるのか? それとも、神と隣人と共に分かち合い、交わることで得られるのか? という問題を提起します。

 

何よりもまずキリストを選ぶ

時間、お金、忠誠、注目を求めてやまない喧噪の中で、わたしたちは他の全てを放棄してキリストを選ぶよう呼ばれています。これは、とりわけ今の時代、わたしたち一人ひとりにとって大きな課題です。わたしたちは、選択というと、幾つかの中から一つを選ぶ自由ではなく、全てをいっぺんに選ぶ自由と考えがちです。そうなると、選択の自由とは、選択肢を広げておくだけの意味になってしまいます。この場合の悲劇は、「何を選ぶかを決めないまま」で意義のある生活を送ることは、文字通り不可能だということです。

 

わたしはこれが、若い人たちを教え司牧してきた 20 年以上に亘る自分の仕事の中の、最も難しい側面であると感じてきました。若い人たちは、何事にも深く関わろうとせず、リスクを避け、すでに関わりを持った事柄でも、それを完遂しようとしないのです。

ここで明らかなのは、他の選択肢を除外することなしには、いかなる選択も不可能だということです。わたしたちが物事を選択する場合は、いつも、自動的に他の選択肢を除外しています。この選択は、意味のある生き方のために不可欠であり、要求されることなのです。

 

一つの使命か、千の選択肢か 

この点に関する最も明快な教えの一つは、 シドニーでの ワールド・ユース・ディの際、 2008 7 15 日に行われた公開ミサで、オーストラリアの George Pell 枢機卿の優れた説教の中に示されました。

 

Pell 枢機卿は、世界中から集まった 15 万人以上の若者たちに、生涯の使命について語りかけました。「何を選択するか決めないまま、塀に跨って一生を過ごさないようにしましょう。なぜなら自分から働きかけることだけが成果をもたらすからです。幸福は、自分の責務を尽くし、義務、とりわけ小さな日常的な義務を果たすことから生まれます。そうすれば、わたしたちは、もっと困難な課題に応じるまでに高められるかも知れません。多くの人々が、ワールド・ユース・ディの中で、生涯の召命を見出してきました。」

Pell 枢機卿の感動的な言葉は、 2 年後の今もわたしの耳の中で響いています。「一つの使命は、千の選択肢に優ります。」

 

真の知恵と自由

この混沌とした生活のただ中で、イエスは立ち止まり、こう言います。「選びなさい。」キリストは、わたしたちに、真に弟子となるようにと呼びかけ、わたしたちの宝物である忠誠を、当然のこととして要求します。イスラエルの神の前には、他に神などあろうはずもないのだから、キリストの前には、他に愛などあろうはずもないのです。このように、イエスに従うためには代償が必要で、興味本位や中途半端な人々は気をつけなければなりません。弟子であるためには、あらゆるものを代償にしなければならないかも知れません。しかし、それによって、大切な全てのものが与えられるでしょう。その時初めて、わたしたちは真に知恵ある者となり、真に解放されるのです。

 

キリストと福音が要求するもの

ルカは、イエスは妥協を好まず、全身全霊による関わりを求めると強調します。それは、過去を懐かしむ(後ろを顧みる)心、家族への配慮、物の所有からきっぱりと訣別することを意味します。 cf. ルカ 9:57-62; 14:26-33 )  ルカ 9:23 ですでに述べられたように、十字架を背負うことへの召命は、自分の家族を憎み、自分の命を憎みなさいという、怖ろしい程の要求を伴っています。

 

「憎む」という言葉は、セム語で、顔をそむける、人や物から離れる、という意味を持っています。

わたしたちが、「あなたを憎む」という表現から受けるような感情はここにはありません。もしあるならば、この 26 節だけでも、新約聖書全体に見られる、愛し、気遣い、育み、とりわけ自分の家族にそのようにしなさいという呼びかけが、すべて無かったことになってしまいます。また、自分の命を憎みなさいという言葉は、自己嫌悪や自己破壊への呼びかけではありません。しかし、弟子であるために必要なことは、わたしたちが皆そのなかで生きている多くの誠実さの数々の中で、キリストと福音が要求するものを他のすべてに優先させるばかりでなく、実際に、それによって他者を高めることにあるのです。

 

ルカにとって、キリスト者であるということは、イエスがたどる道に従って歩むことを意味します 9:57; 10:38; 13:22; 14:25 。主導権を取って、自分に従うようわたしたちを呼ぶのはイエスご自身です

イエスは、迷わず間違うことなく歩むことによって、ご自分の卓越した本性、すなわち御父を知り、御父を示す御子であるという神秘を表します 10:22 。イエスは、歴史の中で当時自分と共に歩いたすべての人々に対して、また、今日イエスと共に歩くわたしたちに対して、次のように語りかけます。「あなたがしていることについて考えなさい。そして、ずっとわたしと共に歩きたいかどうかを決めなさい。」

人間はいつも、福音書の根本的な要求を緩め、それを自分の弱さに適応させたり、その道を辿ることを放棄したりする誘惑に駆られます。しかし、キリスト共同体の生活の真正さと質とは、まさにその点で決まるのです。妥協によって生きる教会は、味を失った塩のようなものです 14:34-35

 

弟子たちの憐れみ深い姿

呼ばれるためには、わたしたちが完全である必要はありません。必要なのは誠実さと信心深く耳を傾けることだけです。サムエルとイスラエルの預言者たち、ベタニアのマルアとマルタとラザロ、ガリラヤの漁師たち、そしてイエスに呼ばれた徴税人でさえも、資質や業績の故に呼ばれたのではないことは確かです。イエスは、知恵ある者に恥をかかせるために、「無学な者たち」を呼んだとパウロは言います( 1 コリ 1:27 )。福音書に描かれる弟子たちの姿は、憐れみ深いものです。彼らは、夢を実現しようともがく人々のため、また、偉大さへの召命を忘れがちな人々のための(安らぎの)場所になるからです。わたしたちがそれらの人々(もがく人、召命を忘れる人)のようになることは決してありません。何故なら、イエスは、既にわたしたちを呼び、愛し、わたしたちを変え、わたしたちをご自分の似姿にして下さったからです。イエスが既にわたしたちを呼んだのですから、わたしたちに選択の余地はなく、人々に対して、福音を受け入れ、イエスに従うよう呼びかけなければいけないのです。

 

ニューマン枢機卿が弟子となった代償

2010 9 10 日、イギリスのバーミンガムで、ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿( John Henry Cardinal Newman )のために、待望久しい列福式が行われます。 ジョン・ヘンリー・ニューマンは、ヴィクトリア朝時代の偉大なカトリック神学者で、 19 世紀にもっとも影響力のあったイギリスのカトリック者の一人です。ニューマン枢機卿は、 英国国教会からカトリックへの遍歴の後、その偉大な知性と優れた文才を駆使して、何千もの人々をキリストのもとへ、またローマ・カトリック教会へと導きました。

 

カトリックに改宗するにあたり、ニューマンは多くの代償を払わなければなりませんでした。改宗の後、多くの友だちは彼との関係を断ち、家族も彼と距離を保つようになりました。そして、大学の特別研究員の地位から引退しなければならなくなり、唯一の収入源を失いました。自分の家族から、教会のリーダーたちから、そして、彼に一番近い人たちから理解されず、ひどい苦しみの中を生きました。

この試練の間、自分を支えたものの一つは、ご聖体におけるキリストの現存であったとニューマンは語っています。

彼の傑出した業績と献身に敬意を表して、教皇レオ 13 世は 1879 年、ジョン・ヘンリー・ニューマン神父を枢機卿に任命しました。試練の生活を送ってきたニューマンは、このニュースを喜んで受け取り、こう宣言しました。「垂れこめた雲は永遠に去った。」

ニューマン枢機卿は、 1890 8 11 日、 89 才で、エジンバラのオラトリー・ハウスで亡くなりました。 1991 年には、教皇ヨハネ・パウロ 2 世によって尊者に揚げられました。 2010 9 19 日には、ベネディクト 16 世自身が、枢機卿ジョン・ヘンリーニューマンを、イエスの弟子になるための代償を支払った、善良で忠実な僕と讃えることでしょう。

 

 

◇◇◇

 

 

聖書朗読:

 

知恵 9:13-18b : 神の計画を知り得る者がいるでしょうか。主の御旨を悟り得る者がいるでしょうか。死ぬべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。地上のことでさえ、かろうじて推し量り、手中にあることさえ、見出すのに苦労するのなら、まして天上のことをだれが探り出せましょう。あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。こうして地に住む人間の道は、まっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われるのです。

 

フィレモン 9-10, 12-17   [愛する者よ、] 09   むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロ [は] 10   監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。

12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 13   本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 14   あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。 15   恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 16   その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 17   だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

 

ルカ 14:25-33 :  [ そのとき ]   14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」


To Accept Christ Is to Accept His Cross

Biblical Reflection for 23rd Sunday in Ordinary Time C By Father Thomas Rosica, CSB

 

TORONTO, AUG. 31, 2010 Zenit.org .-

Today's Gospel passage Luke 14:25-33 contains a collection of sayings that are peculiar to Luke. Luke has Jesus speak about the demands of discipleship. He gathers three sayings 26-27, 33 and two parables 28-32 .

They focus on the total dedication necessary for disciples of Jesus. No attachment to family 26 or possessions 33 can stand in the way of the total commitment demanded of the disciple.

Acceptance of the call to be a disciple demands readiness to accept persecution and suffering 27 and a realistic assessment of the hardships and costs 28-32 .

 

The two parables embedded in today's Gospel passage say in their own way what Jesus is saying in the preceding verses: Are you sure you wish to follow me? Is the price more than you are willing to pay?

 

The first parable involves building a tower in a vineyard from which the farmer can stand watch against thieves and foraging animals.

The second pictures the royal house where great political issues are settled. But rich and poor, royalty and peasants, have essentially the same decision to make when faced with a major expenditure of time, property, and life itself: Is this cost more than I am able or willing to pay?

 

The decision is no different when one is facing the call to discipleship: The enthusiasm for beginning is there, but do I possess the resources to persevere to completion?

 

Both parables highlight the need to use wisdom in assessing the cost of discipleship. Both the tower builder and the warring king must calculate the costs and study the risks before making a final decision.

The disciple must know that following Christ requires an allegiance that will always be the highest priority. To accept the person of Christ is to accept his cross as well.

 

The source of our happiness

The author of today's first reading from the book of Wisdom 9:13-18 is not dealing with the age-old distinction between what is of the body and what is of the soul known often as dualism . The view of human nature in the Hebrew Scriptures is not dualistic, even though it is clearly recognized that the limitations of human nature make it impossible for us to fully comprehend the mysteries of God.

 

As Christians we need not oppose human progress nor reject comforts and pleasures. The believer must assess these within the delicate balance of wisdom and life.

Today's first reading challenges us: Does our happiness come from the mere acquisition of possessions or from sharing and interacting with God and neighbor?

 

Choosing Christ above all else

In the midst of the many voices clamoring for our time, money, allegiance and attention, we are called to choose Christ to the complete dispossession of all else. This is a great challenge for each of us, especially in our day. We so often define choice not as the freedom to choose one action over another, but as the freedom to choose everything at once. Freedom of choice has come to mean keeping our options open. The tragedy of this condition is that it is literally impossible to "keep our options open" and live lives of any significance.

 

I have found this to be one of the most difficult aspects of my teaching and pastoral ministry with many young people over the past 20 years: their unwillingness to commit to anything, to take risks, or to follow through on commitments already made.

The obvious problem is that it is impossible to make any choice without consequences that rule out other options. Every choice we make automatically excludes other choices. This choosing is essential and even desirable for a meaningful life.

 

One mission or 1,000 options

One of the clearest teachings of this point was made by Australian Cardinal George Pell during his outstanding homily at the Opening Mass for World Youth Day 2008 in Sydney, on July 15, 2008.

 

Cardinal Pell spoke to the throng of over 150,000 young people from throughout the world about their mission in life:

"Don't spend your life sitting on the fence, keeping your options open, because only commitments bring fulfillment. Happiness comes from meeting our obligations, doing our duty, especially in small matters and regularly, so we can rise to meet the harder challenges. Many have found their life's calling at World Youth Days."

Cardinal Pell's stirring words still ring in my years two years later: "One mission is better than a thousand options."

 

True wisdom and freedom

In the midst of our chaotic lives Jesus stops and says, "You have to choose." In his call to authentic discipleship, Christ challenges our most precious loyalties. As there can be no other gods before the God of Israel, there can be no other loves before Christ.

Thus, there is a cost to following Jesus, and the curious and half-hearted should take notice. Discipleship may cost us everything, but will gain for us all that will ever matter. Only then will we be truly wise and truly free.

 

The claim of Christ and the Gospel

Luke emphasizes that Jesus does not like compromises and requires a commitment of the whole person, a decisive detachment from any nostalgia for the past, from family demands, from material possessions cf. Luke 9:57-62; 14:26-33 .

To the call to cross bearing, already issued in 9:23, is joined the almost frightening demand to hate one's family and one's own life 26 .

 

To hate is a Semitic expression meaning to turn away from, to detach oneself from someone or something.

There is nothing of that emotion we experience in the expression "I hate you." Were that the case, then Verse 26 alone would cancel all the calls to love, to care, to nourish, especially one's own family found throughout the New Testament. And to hate one's own life is not a call for self-loathing and self-destruction. What is demanded of disciples, however, is that in the network of many loyalties in which all of us live, the claim of Christ and the Gospel not only takes precedence but also, in fact, redefines the others. This can and will necessarily involve some detaching, some turning away.

 

To be a Christian for Luke means to follow Jesus on the path that he takes 9:57; 10:38; 13:22; 14:25 . It is Jesus himself who takes the initiative and calls us to follow him, and he does it decisively, unmistakably, thus showing his extraordinary identity, his mystery of being the Son who knows the Father and reveals him 10:22 . Jesus speaks to all those who walked with him at that moment in history, and to those of us who walk with him today: "Think about what you are doing and decide if you are willing to stay with me all the way."

Human beings will always be tempted to lessen the radical demands of the Gospel and to adapt them to our own weaknesses, or to give up the path undertaken. But the authenticity and quality of the Christian community's life depends precisely on this. A Church that lives by compromise would be like salt that has lost its taste 14:34-35 .

 

A compassionate portrayal of the disciples

To be called does not require perfection on our behalf, only fidelity and holy listening.

Samuel and the prophets of Israel, Martha, Mary and Lazarus of Bethany, the fishermen of Galilee and even the tax collectors that Jesus called were certainly not called because of their qualifications or achievements. Paul says that Jesus calls "the foolish," so that the wise will be shamed. The Gospel portrayal of the disciples is compassionate because it makes a place for people who struggle to reach their dreams, for people who at times forget their call to greatness. We will never be the same because Jesus has called us, loved us, changed us and made us into his image. Because he has called us, we have no choice but to call others to accept the Gospel and follow him.

 

Cardinal Newman's cost of discipleship

On Sept. 19, 2010, in Birmingham, England, the long awaited beatification ceremony will take place for the great Victorian Catholic theologian, John Henry Cardinal Newman, one of the most influential English Catholics of the 19th century. He journeyed from Anglicanism to Catholicism and used his great intellect and masterful writing ability to win over thousands of people to Christ and the Roman Catholic Church.

 

In becoming Catholic, Newman had to make many sacrifices. Many of his friends broke off relations with him after his conversion, and his family kept him at a distance. He had to resign his teaching fellowship and lost his only source of income. He lived the terrible pain of misunderstanding from his own family, from Church leaders, and those closest to him. Newman said that the one thing that sustained him during this trying period was Christ's presence in the Blessed Sacrament.

As a tribute to his extraordinary work and devotion, Pope Leo XIII named Father John Henry Newman a Cardinal in 1879. After a life of trials, Newman received the news with joy and declared, "The cloud is lifted forever."

Cardinal Newman died at the age of 89 at the Oratory House in Edgbaston on Aug. 11, 1890. He was declared Venerable in 1991 by Pope John Paul II. On Sept. 19, 2010, Benedict XVI, himself, will honor Cardinal John Henry Newman, a good and faithful servant who paid the price for the cost of discipleship of Jesus.

 

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