良質なコミュニケーション 

年間第23主日福音黙想 2009/9/6   トマス・ロシカ師

 

 

今日の第一朗読の、イザヤ 35 章のすばらしい詩的表現の中で、預言者イザヤはバビロン捕囚の終りを高らかに告げます。 

 

神の民が、奴隷となっていたエジプトから脱出した物語は、救いを考える一つのモデルとなり、神への道をたどる人間家族の偉大な巡礼の象徴となりました。預言者イザヤは、捕囚の地で希望を失っている人々の一団と出会いました。

イザヤはその人々に向かって、出エジプトの喜ばしい記憶を呼び覚ましながら答え語ります。 

 

第二の出エジプトへの時が満ちています。イザヤはその預言を、目の見えない人、足の不自由な人、口の利けない人が癒され、死者が新たな生命を受けるという描写で象徴的に表現します。

新たなエクソダスでは、 全ての人々が神に救い出され、砂漠を通って故郷へ帰り着きます。それが第二の出エジプトです。 そこには一本の清められた道があり、それは聖なる道と呼ばれ、救われた民はその道を歩むであろう、とイザヤは預言します。 

 

荒れ野の真ん中に、川が流れ出します。神の救いの力が苦しむ人々をも抱き、 人々に降りかかるあらゆる不幸を癒します。 イザヤは神が癒す特別の苦しみについて語ります。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」 ( イザヤ 35:5 6)

 

この豊かな、新しい生活についてのイザヤの予見は、耳が聞こえない人を癒すイエスの行為についての、マルコの 理解の基礎 になっています。 ( マルコ 7:31-37)  マルコ福音書の聾唖者のいやしの物語は、新約聖書に記された病と苦しみについて、いくつかの大切な事柄を考えさせます。

 

聖書の中の病人とは、人間の望ましい状態や、健全な状態、あるいは不完全な状態の人々です。

イエスは、それらの人々を正常な状態に戻すことによって癒します。重い皮膚病の患者は清くされ、目の見えない人は見えるようになり、口の利けない人は話せるようになります。

 

イエスの癒しの出来事が、どのように行われたのか はよく分かりません。イエスは、魔法の杖を振ったり、指をパチンとならしたりして奇跡を行ったのではありません。イエスに癒された人は「聞くことも話すことも出来ない人」でした。彼は他の人と会話することができませんでした。人の声を聞くことも、自分の気持や要求を表現することもできなかったのです。この聾唖者の耳にふれたときのイエスの溜息は、彼が人々の苦しみに共感したことを物語ります。彼は、人々の不幸を深く共有し、それを自分の身に背負われたのです。 

 

「エッファタ、開け」

初代教会は、この聾唖者の癒しの奇跡に強い感銘を受け、主イエスの行為に深い意義を与えて、 新しくキリスト者となる人々の 洗礼式に取り入れました。今日でも、 洗礼を授ける聖職者は、 指を受洗者の耳に入れ、舌先にふれて、イエスの言葉「エッファタ、開け!」を繰り返します。イエスはこの言葉によって聾唖者の耳と口を開いたのです。

 

わたしたちは耳で聞いて学びます

視覚は物質的なことがら見分け、聴覚は人間的な事柄を聞き分けます。視覚は、科学や観察の場に客観的に関与します。聴覚は、個人的な関係に主観的に関与します。 

 

わたしたちは、人や物を見るために目を使うとき、そこから入る情報を完全にコントロールします。目を閉じたいときには閉じることができるからです。一人で聖書を読むときは、目を閉じて読むのをやめることができます。しかし、耳は目と違って閉じることができません。音を遮るためにはその部屋から出て行くしかありません。 

 

他の人々について知るために、わたしたちはその人の言葉に耳を傾けます。言葉によって他の人の心の内を知ることが出来ます。それは視覚では決して出来ないことです。神について知りたいなら、全身全霊を傾けて神の言葉を聞かなければなりません。

 

もし、神を見ることができたとしても、そこから何かを知ることは出来ないでしょう。結局のところ、サタンは光の天使として現れ、一方の神は、十字架上で死んで行く、ボロボロになった若者の姿で人々の目に映ったのです。信仰の目と耳が無ければ、誰がこのような神を信じるでしょうか?

 

わたしたちが聖書を読むとき、それが語るものを「聞いて」いるでしょうか?  聖書は、神の御言葉を読みなさいとは言っていません。聞きなさい、耳を傾けなさいと言っています。 それを良く表しているのがユダヤ教の祈り、「聞け、イスラエル!」( "Shema, Israel" )です。わたしたちが耳で聞き、本当に理解するためには、誰かが御言葉を朗読するべきです。

 

聖書の信仰は、個人的なものでなく、皆が分かち合うべきものです。話すこと、聞くことは、互いに受け容れ合うことを意味します。互いに認め合い相手を受け入れることは、共同体にとって最も大切なことです。そして、聞くことから逃れる唯一の方法は、その部屋を出ること、即ち共同体を去り、一人でやっていくことです。残念なことに、教会共同体を去り、信仰の仲間から離れて独立することで、自由、自立、真理を見出したと主張する人々の多くが、これに当てはまります。彼らが発見したものは独立ではなく、孤独、自己愛、頑迷な個人主義です。 

正しく聞き、耳を傾けることは、共同体の権威を尊重し、その一員としての義務を果たすことを意味しています。

 

身体的、霊的な聾唖

癒しの物語は、イエスと神との間の、親密で力強い関係を示すと同時に、イエスの深い思いやりを反映しています。イエスは言葉を用い、手で触れ、身体的な方法で癒しをなさいました。身体的な聾唖と霊的な聾唖は似ています。イエスが向き合った相手は、一つは生まれながらの聾唖者というタイプ。もう一つはファリサイ派のような別のタイプ。さらには彼のメッセージを受け付けないタイプの人たちでした。イエスは身体の病気ばかりではなく、霊的な障害や道徳的な聾唖も心にかけました。

 

現代世界では、イエスの言葉を聞く耳を持たない人々が増えていますが、それは身体的聾唖ではなく、罪によってもたらされた霊的聾唖です。罪に慣れてしまったために、それを普通のことと受け取り、イエスの存在と、イエスの日々の呼びかけに対して聾唖、盲目となっているのです。

 

(霊的な)聾唖の状態が、隣人と率直に話し合えず、仲良くできないということであれば、わたしたちの、話したり聞いたりする能力には、どこかに欠陥があることを認めねばなりません。わたしたちが話したり聞いたりするコミュニケーションの質(価値)を決めるのは、単に話したり聞いたりするかどうか、ではなく、それを「愛によって行う」かどうか、にかかっています。

 

相手の地位や富によって依怙贔屓や差別をするとき、わたしたちは「聞くことも話すことも出来ない存在」(霊的聾唖者)です。 ( ヤコブ 2:1-5)

(「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るか、しなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」)

そのためにわたしたちは、神の恩恵は、神の選びと約束からなる、ということを忘れてしまうのです。

 

自分に助けを求める叫びを聞かないとき、そして、隣人との間に無関心を決め込む時、わたしたちは「聞くことも話すことも出来ない存在」です。そのような行いによって、わたしたちは貧しい人を抑圧し、キリストの御名を冒涜するのです。 ( ヤコブ 2:6-7)

(「あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。」

 

自分の子どもの、ある種の異常なふるまいが、関心と愛を求める心の奥底の叫びを表していることに気がつかない両親は、「聞くことの出来ない存在」です。

 

利己心やプライド、恨み、怒り、嫉妬、そして他者を赦せないが故に、内に引きこもり、世間に対して自分を閉ざすとき、わたしたちは「聞くことの出来ない存在」です。

 

自分の周囲の世界で苦しんでいる人を認めようとしないとき、そして、明らかな不平等、不正、貧困、戦争による荒廃の状況を認めようとしないとき、わたしたちは「聞くことの出来ない存在」です。

 

胎児、高齢者、障害者、慢性疾患の患者など、生命が危険に曝されている人々の叫びを聞くのを拒否するとき、わたしたちは「聞くことの出来ない存在」です。その一方では、誤った慈悲(モラル)から、自らの生命を断つことを希望する人もいるのです。

 

ベートーベンの聴覚障害

ドイツの作曲家で名ピアニストのベートーベン (1770-1827) は、いつの時代にも最も愛される作曲家でした。ベートーベンが 28 歳の時から聴覚を失い始めていたことを、わたしは最近まで知りませんでした。聴覚を失ったことにより、ベートーベンは、見たり聞いたり出来る事柄を超えた存在をへの洞察力を与えられました。

 

ベートーベンは幼いときから、音楽が神の存在と調和していることに気付いていました。そして作曲をしている間も、これを意識していました。「子どもの頃から、わたしの心と魂は、善意のやさしい感情に染まっていました。そしていつも、偉大なことを成し遂げたいという望みを持っていました。」 

彼は、多くの手紙の中で、音楽によって神と人類に仕えたいという望みを表現しています。「全能の神、あなたはわたしの心をご存知です・・わたしの心が人類への愛と、善を行う望みに満ちていることをご存知です。」 

 

ベト−ベンの生涯は矛盾そのものです。一方では、孤独な生活の中で聴覚障害に悩まされ、他方では、霊的洞察力が彼の音楽を通してきらめきました。

聴覚障害は、彼を何度もぎりぎりの所にまで追い込み、彼はそれを呪いました。それでも、彼はその事実をも受け入れました。欲求不満からかもしれませんが、しかし、神の意思の受け入れたのです。

 

聞くことも話すことも出来ない人に向けられたイエスの言葉、「エッファタ、開け」が、今日再び、わたしたち一人ひとりに向けて発せられますように。 

わたしたちの耳、目、心が、福音に向けて開かれますように!

 

 

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Quality Communication

Biblical Reflection for 23rd Sunday in Ordinary Time B   By Father Thomas Rosica, CSB

 

 

TORONTO, SEPT. 2, 2009 (Zenit.org).- In the magnificent piece of biblical poetry in Isaiah 35:4-7 (today's first reading) the prophet Isaiah announces the end of the Babylonian captivity.

 

The Exodus of God's people from bondage in Egypt became a model for thinking about salvation and a symbol of the great pilgrimage of the human family towards God. The prophet Isaiah encountered a dispirited community of exiles.

Isaiah responded by recalling the joyous memories of the Exodus from Egypt.

 

A second Exodus is in store, symbolized by the healing granted to the blind, the lame, and the mute, and new life to the dead. Delivered and saved by God, all peoples shall return to their own land by way of the desert, in a new exodus. Isaiah prophecies that there shall be one, pure road, and it will be called the way of holiness upon which the redeemed shall walk.

 

In the midst of the desert, streams will break forth. God's saving power also embraces afflicted humans, healing every ill that comes upon people. Isaiah addressed specific afflictions that God would heal: "then the eyes of the blind shall be opened, and the ears of the deaf unstopped; then the lame shall leap like a deer, and the tongue of the speechless sing for joy."

 

Isaiah's prediction of this abundant, new life underlies Mark's understanding of Jesus' cure of "a deaf man who had an impediment in his speech" (Mark 7:31-37]). Mark's story of the healing of this hearing and speech impaired man invites us to consider some important points about sickness and suffering in the New Testament.

 

Sick people in the Bible are those who have fallen from an appropriate human state or condition of human integrity or wholeness. Jesus heals people by restoring them to a proper state: Those who are leprous are made clean, blind people see, mute persons speak, etc.

 

We have little information about how Jesus' healings episodes were accomplished. Jesus did not perform miracles as someone waving a magic wand or clicking his fingers. The man cured by Jesus was deaf and dumb; he could not communicate with others, hear his voice and express his feelings and needs. The sigh uttered by Jesus at the moment of touching the ears of the deaf man tells us that he identified with people's suffering; he participated deeply in their misfortune and made it his own burden.

 

"Ephphatha, Be opened!"

The early Church was so impressed by the healing miracle of the deaf man that it attached deep significance to it, incorporating the Lord's action into the Baptismal Rite of new Christians. To this day, the minister of baptism puts his fingers into our ears and touches the tip of our tongue, repeating Jesus' word: "Ephphatha, Be opened!" He has made both the deaf hear and the dumb speak.

 

We learn by hearing and listening

Sight deals with things, while hearing deals with human beings. Sight has to do with science, with observation, with objectivity. Hearing has to do with personal relationships, with subjectivity.

 

When I use my eyes to look at people or things, I am in complete control of the information that comes to me, for I can shut my eyes when I wish. When I am reading the words of scripture by myself, I can close my eyes and stop reading. But the ear is unlike the eye. I cannot shut my ear. The only way I can stop the sound is to leave the room!

 

We learn about other people by hearing and listening to what they have to say. Language reveals the inside of another person, something sight can never do. If we want to learn about God, we must listen to His Word with all our heart, all our soul and all our mind.

 

Looking at Him, if it were possible, would not tell us anything. After all, Satan appeared as an angel of light, while God appeared as the broken, mangled body of a young man dying on a cross. Who would have believed this without eyes and ears of faith?

 

When we read the Bible, do we "hear" what it says? The Bible does not tell us to read the Word of God but to hear it, to listen to it. That is the great Jewish prayer: "Shema, Israel," "Hear, O Israel." Someone else must read the Word so that I may hear it and truly understand it.

 

Biblical faith cannot be individualistic but must be communal. Speaking and hearing involve mutual submission. Mutual respect and submission is the essence of community, and the only way I can get away from hearing is to leave the room, to leave the community and go off by myself. Sadly this is the case for many who have left the Church community and claim to have found freedom, autonomy, and truth in solitude, away from the community of faith! What they have found is not solitude, but loneliness, selfishness and rugged individualism. Authentic hearing and listening involve submission to authority and membership in community.

 

Physical and spiritual deafness

The healing stories reflect Jesus' intimate, powerful relationship with God and his great compassion. He healed with words, touch and physical means. Physical deafness and spiritual deafness are alike; Jesus confronted one type in the man born deaf, the other type in the Pharisees and others who were unreceptive of his message. Jesus was concerned not only with physical infirmity but also spiritual impairment and moral deafness.

 

Our contemporary world has grown deaf to the words of Jesus, but it is not a physical deafness, it is a spiritual deafness caused by sin. We have become so used to sin that we take it as normal and we have become deafened and blinded to Jesus and his daily call to us.

 

If deafness and dumbness consist in the inability to communicate plainly with one's neighbor or to have good relationships, then we must acknowledge that each of us is in some way impaired in our hearing and speech. What decides the quality of our communication, hearing and speech is not simply to speak or not to speak or hear, but to do so or not to do so out of love.

 

We are blind and deaf when we show favoritism or discrimination because of the status and wealth of other people (see James 2:1-5). We fail to recall that divine favor consists in God's election and promises (James 2:5).

 

We are deaf when we do not hear the cry for help raised to us and we prefer to put indifference between our neighbor and ourselves. In doing so we oppress the poor and blaspheme the name of Christ (James 2:6-7).

Parents are deaf when they do not understand that certain dysfunctional behaviors of their children betray deep-seated cries for attention and love.

 

We are deaf when turn inward and close ourselves to the world because of selfishness, pride, resentment, anger, jealousy and our inability to forgive others.

 

We are deaf when we refuse to recognize those who suffer in the world around us, and do not acknowledge glaring situations of inequality, injustice, poverty and the devastation of war.

 

We are deaf when we refuse to hear the cry of the unborn, of those whose lives are in danger because they are elderly, handicapped, and chronically ill, while others wish to end their lives out of misguided mercy.

 

Beethoven's deafness

The German composer and virtuoso pianist Ludwig van Beethoven (1770-1827) was one of the most loved composers of all time. What I never knew until recently was that Beethoven started losing his hearing at the age of 28. The deafness gave Beethoven insights into that which existed beyond that which could be seen and heard.

 

Beethoven was aware of the oneness of music with God from a very early age. And he was conscious of this while composing his music. "Ever since my childhood my heart and soul have been imbued with the tender feeling of goodwill. And I have always been inclined to accomplish great things." In many of his letters Beethoven expresses his desire to serve God and humanity with his music. "Almighty God, you see into my heart ... and you know it's filled with loved for humanity and a desire to do good."

 

Beethoven's life is a paradox. On one hand, his solitary life was burdened by his deafness and on the other his spiritual insights flashed through his music.

Many a times his deafness drove him to the edge and he cursed it. Yet, he also accepted it. It may have been out of frustration, but there was an acceptance of the divine will.

 

Today may the words Jesus spoke over the deaf man be addressed once again to each of us: "Ephphatha, be opened!" May our ears, eyes and hearts be opened to the Gospel!

 

 

 


 

朗読

 

イザヤ 35:4-7a:心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。

 

ヤコブ 2:1-5:わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。

 

マルコ 7:31-37:(そのとき)イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 

 

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