ルカの世界の食卓での会話と作法
年間第 22 主日 聖書黙想 2010/8/29 トマス・ロシカ師
ルカ福音書で、イエスが最も大切な教えを語るのは、食事、パーティー、祝宴の席上です。それぞれの食卓には、単なる飲み食いよりもはるかに大きな意味があることが分かります。
今日の食卓での会話は、 9 章 51 節から始まるエルサレムへの旅の中でのことです。ルカにとって食卓ほど重要なものはありません。聖体と、復活のキリストの啓示は食卓で ( 24:28-32 ) 示されます。キリストが、弟子たちに聖霊を送り、使命を与える約束をした (使徒 1:8 ) のも、共に食事をしているときです。そして、ユダヤ人と異邦人とが教会を形作って交わる ( 使徒 10:9-16; 11:1-18 )こと ができたのは、食事に関する問題が解決した時でした。聖体と、復活のキリストの啓示は、いずれも食卓で ( 使徒 24:28-32 ) 示されるのです。
参考: 使徒 10:9-16 : 「 ペトロ、ヤッファで幻を見る」 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。 10:10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
使徒 11:1-18 :「ペトロ、エルサレムの教会に報告する」 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。
すると、 “ 霊 ” がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
食卓を囲む」意味
今日読まれる宴会のシーン ( 14:1; 7-14 ) は、ルカ福音書にだけある場面で、イエスが謙遜について教える機会になっており、また、金持ちと貧乏人に対するイエスの態度へのルカの興味を表現する場面にもなっています。ユダヤ教にとって、イエスにとって、また初代教会にとって、食卓を囲むことは、非常に重要な宗教的、社会的、経済的な意味をもっていました。
ルカ 14 章の 1 節は、 7-11 節のための舞台設定です。イエスは、ファリサイ派の議員の家の晩餐の席にいて、そこでの客と主人の双方の社会的な振舞いを観察します。イエスは、日常の行動を注目し観察することによって、自分の話を聞く人たちの本当の人格への洞察を得ただけなく、神の国での生活の仕方を示すのに適切な機会も得ました。神の現存の中に生きることの意味を明らかにするためには、いつものこと、あたり前のことこそ、見過ごしてはいけないのです。
人の力でなく、神によって高められる
今日の福音の物語の核心はなんでしょうか? 人間の自我はとても賢いので、「末席に着けば、恥をかかないで済むばかりか、上席に招かれることになるかもしれない。」と聞くと、謙虚さについてのこの教えを、自分を引き上げるための新しい戦略に利用するかもしれません。
謙虚な心で末席に座るのも一つの姿勢であり、昇進のために末席に着くのもまた一つの姿勢です。全員が末席に押し寄せ、主人が上席に上げてくれるのを心待ちにするようでは、この福音のメッセージの全てがばかげていることになります。
自分を他人より上に揚げる者は低くされ、自分は「低い者」の一人(他人と同じ人間)と考えてへりくだる者は、高められるのです。高められること、引き上げられることは、神の業に属します。自分の低さを認めることは、人間としての正しい態度です。謙虚にふるまうこと自体、それが目的ではなく、神のため、あるいはキリストのためにする行為なのです。
今日の第一朗読のシラ書 ( 3:17-18, 20, 28-29 ) は、自分の真の評価につながる真の謙虚さについて語ります。 ( 7-19 ) そのような真の謙虚さを通して、人は義務を遂行し、自分の理解と力を超えるものを避けます。 ( 20-22 ) しかし、自尊心は、偽りの偉大さ、誤った判断、頑固さ、悲嘆、苦悩、破滅をもたらします。 ( 3:23-27 ) .
唯一、真の安全
金持ち、権力者、そして 「自分は神の前に正しい」と考える人 は、謙虚に神を受け入れることが困難です。彼らは、自分の財産や身の安全について自信にあふれています。唯一の、真の安全とは、神の友となり、神の恩恵を受けることによる安全です。ナザレのイエスの模範に倣い、人間と神の僕になることです。自分を揚げることは、自分に依存することの表れであり、神に依存することとは反対の行為です。これによって、どうして豊かさ、繁栄、自己満足といった言葉が、ごく自然に、尊大、高慢、神不信を連想させるのかが、よく理解できます。
今日の福音の第二の教訓は、なんらかの形でお返しをするかもしれない人だけを招くような、世間一般に行われている慣習に背くものです。イエスはこの常識を逆転しました。後日、受けた以上のお返しをするような人は食事に招いてはならない。むしろ、今まで決して招いたことのない人、貧しい人、社会の片隅で生きる人、一切お返しを期待できない人を招きなさい、と。
ルカ「家」の作法
ホストを務めることには、多くの楽しい、前向きの意味合いがあります。親しさ、寛大さ、優雅さ、人を寛がせる配慮など…。しかしイエスは、お返しを期待して人をもてなすことは、主人の役割の本質を歪め、大きな誤りとなる可能性 ( ルカ 14:12-14 ) を指摘します。お返しを期待するホストは、お返しのできない人にはサービスもせず、食べ物も出しません。そこで、招待客の名簿には、お返しが出来る人だけが記されます。
イエスは、資産も社会的身分もない人を招くようにと、「神の国での振舞い」を呼びかけます。神は、わたしたちをもてなす究極のホストです。そして、わたしたちは、主人であっても、現実には、招待客の如くふるまっているのですから、要求もせず、条件もつけず、何の見返りも期待しないのです。ルカが列挙した、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人についての四種類のリストは、読者にとって驚きでも何でもありません。ルカ福音書の始まりにあるマグニフィカトの中で、マリアがそれらの人々について歌って以来、わたしたちもその人々を知っています。 (ルカ 1:46-55 ) そしてイエスも、ナザレのシナゴグで宣教を始めたときの説教の中で、その人々について語りました。 (ルカ 4:16-30 )
イエスの「不適切で手ぬるい憐み」
イエスがなさった多くのことと共に、そのような弱い立場の人々と親しく交わり食事を共にしたことが、反対者の怒りを買いました。彼らは反感をこめて「イエスは、罪びとの家の客になるためにでかけた。」とか、「イエスを見てみろ、収税吏や売春婦と食事を共にしている。」などとつぶやきました。
ほかの人々にとっては、罪人、社会の片隅の人、憎み遠ざけるべき下層民としか見えない人々の中に、イエスは何か別なものを見ました。イエスが見たのは、「人間」であり、恐らくは自分の失敗によって出口を見失い、必死に這い上がり、不本意な生活から抜け出そうとして、不様にもがいている人々です。ナザレのイエスは、「今日、この家に救いが来た。なぜなら、この男もアブラハムの子孫だから。人の子は、失われたものを探し、救うために来たのだから。」と声をあげたかったのでしょう。
失われたものを探し救うこと、貧しく卑しい人々を高めること、金持ち、神を怖れぬ、尊大で傲慢な人々を謙虚にさせること、これこそがイエスの使命でした。イエスの敵たちは、この「不適切で手ぬるい憐み」を非難しました。イエスが食卓に招くように勧める人々は、皆、神の国の饗宴で名誉ある席に着く人たちです。すなわち、貧しい人、手足が不自由な人、目の見えない人、異邦人、お返しのできない人、身分によって旧神殿の中心に入ることを許されない人々のことです。しかし、「新しい神殿」の壁は、全ての人を受容れたのです。
旧約と新約の統合
ヘブライ人への手紙 ( 12:18-19, 22-24a ) からの今日の第二朗読では、モーセとキリストの二つの契約が比較されます。このとても美しい章句は二つの偉大な会衆を比較対照します。一つは旧約の証印とモーセの律法の公布のためにシナイ山に集まったイスラエルの民の会衆、そしてもう一つは、イエスに従う人々が、天のエルサレムであるシオンの山に集まった新約の会衆です。この二つ目のシーンは、無数の天使たちの集まりとイエスの贖いの血によって特徴づけられ、黙示録に見るような、この世ならぬ典礼を思い起こさせます。
モーセの契約は、神への怖れと神の罰の脅威に基づいていることが示されます。 ( 12:18-21 ) (これに対して)キリストの契約は、神と直接ふれあうことを可能にし ( 22 ) 、キリスト教共同体に加わり、神の子となり、わたしたちのために執り成してくださるイエスに守られ ( 24 ) 、聖化された民 ( 23 ) としてくれます。復活したキリストの声を心に留めないことは、モーセの言葉を拒むよりも重大な罪です。 ( 12:25-26 ) キリスト教徒の数が急減したとしても、キリストにおける神の国は存続し、彼の正義はそれを見捨てる人々を罰することになります。 ( 12:28-29 )
ニューマン枢機卿の「聖人たちの武器」
尊敬すべきジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の言葉を黙想しましょう。それは、今日の福音についての彼の記憶すべき説教からのもので、「聖人たちの武器」と題されています。
(詳しくは、次のサイトを参照して下さい。)
http://www.newmanreader.org/works/parochial/volume6/sermon22.html
彼はこう記します。「自分が実際に進歩・向上することと、自らを低くすることの間には、神秘的なつながりがあります。もしもあなたが、卑しく蔑まれる人に奉仕するならば― 飢えた人に食事を与え、病人に付き添い、苦悩する人を助けるならば― もしも、先んじる人を赦し、侮辱を忍び、忘恩に耐え、悪には善を以て報いるならば― あなたは神に護られて、世に打ち克つ力を得、被造物の間に高く立つでしょう。神はこの掟を確立されました。神はこのようにすばらしい御業を行われます。
神の道具となるのは、貧しく蔑まれる人々です。彼らの名前はほとんど知られていないか、或いは全く誰も知らないのです。彼らは些細な仕事で忙しく立ち働き、だれも彼らを気にかけません。彼らには、決して大きな仕事は与えられません。彼らの為すことは何事も顧みられず、失敗するだろうと思われています。
いいえ、それどころか、彼ら自身が望んでいると明言する宗教的な目標に関しても、彼らの行いと、苦しみと、望んでいるものとの間には、自然で目に見える関係は何も存在しません。しかし、神の国の中では目に見えない糸でつながっています。そこでは、人は落ちることによって揚げられるのです。分かりきったことですが、わたしたちの主ご自身の謙虚さほどに偉大なものはありません。人は謙虚になればなるほどいっそう主に似るのです。そして、主に似れば似るほど、主と共にある力はいっそう偉大になるのです。
マザー・テレサの礼儀作法
8 月 26 日は、カルカッタの福者マザー・テレサの生誕百周年、また 9 月 5 日は彼女の 13 回忌に当たります。そこで今週は、わたしたちの共同体と共に、彼女の言葉を心に響かせましょう。彼女は、ルカとイエスの食卓での会話とその作法をよく理解していました。
「人は、いつも気まぐれで、不条理で、自己中心的です。それでもその人を赦しましょう。」
「あなたが親切だと、人は、あなたが隠れた動機によって利己的なのだと非難するでしょう。
それでも、親切にしましょう。」
「あなたが成功すると、何人かの不誠実な友人と、何人かの真の敵ができます。それでも成功しましょう。」
「あなたが正直でいると、誠実な人たちがあなたを裏切るでしょう。それでも正直で、誠実でいましょう。」
「あなたが何年もかけて創り出したものを、人は一夜で破壊することができます。それでも創り続けましょう。」
「あなたが静謐と幸せを見出しても、ある人はそれを妬むでしょう。それでも幸せでいましょう。」
「今日、あなたが善を行っても、それはいつも忘れ去られてしまいます。それでも善を行いましょう。
「あなたの持っている最善のものを与えましょう。それは決して十分ではないでしょう。それでも最善のものを与えましょう。」
「最終的な解答はあなたと神との間にあります。いずれにしても、それは決してあなたと人々との間には無いのです。」
◇◇◇
聖書朗読
シラ書 3:17-18, 20, 28-29 :子よ、何事をなすにも柔和であれ。そうすれば、施しをする人にも まして 愛される。/偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。/主の威光は壮大。主はへりくだる人によってあがめられる。/高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。/彼の中には悪が深く根を下ろしている。/賢者の心は格言を思い巡らし、知者の耳は、格言を熱心に聴く。
ヘブライ 12:18-19, 22-24a : あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。新共同訳 サブ聖書ウインドウ No.2
ヘブル 12:22 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、 12:23 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 12:24 新しい契約の仲介者イエス(なのです。)
ルカ 14:1, 7-14 : 14:1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。 14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
Table Talk and Etiquette in Luke's World
Biblical Reflection for 22nd Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, AUG. 24, 2010 ( Zenit.org ) .- Jesus' most important teaching moments in Luke's Gospel take place at meals, parties, and celebrations, and we learn that each meal has a far greater significance than simply eating and drinking with others.
Today's table talk takes place in the context of the journey up to Jerusalem begun at 9:51. Nothing can be more serious for Luke than a dining table. Both the Eucharist and the revelations of the Risen Christ occur there ( 24:28-32 ) . It was while eating together that Christ gave his disciples the promise of the Holy Spirit and their commission ( Acts 1:8 ) , and it was by table fellowship that Jews and Gentiles were able to be the Church ( Acts 10:9-16; 11:1-18 ) . Both the Eucharist and the revelations of the Risen Christ occur there ( 24:28-32 ) .
Table fellowship laden with meaning
Today's banquet scene found only in Luke ( 14:1; 7-14 ) , provides the opportunity for Jesus' teachings on humility and presents a setting to display Luke's interest in Jesus' attitude toward the rich and the poor. For Judaism, for Jesus and for the early church, table fellowship was laden with very important religious, social and economic meanings.
Chapter 14:1 sets the stage for Verses 7-11. Jesus is at dinner in the home of a Pharisee and, while there, observes the social behavior of both guests and their host. Jesus' attention to and observation of everyday activity provided him not only insights into the true character of his listeners, but also opportunities to reveal the way life is in the Kingdom of God. The frequent and familiar are not to be overlooked in defining life in God's presence.
God exalts, not humans
What is the central point of today's Gospel story? Our human egos are quite clever, and upon hearing that taking a low seat may not only avoid embarrassment but lead to elevation to the head table, may convert the instruction about humility into a new strategy for self-exaltation. Taking the low seat because one is humble is one thing; taking the low seat as a way to move up is another! This entire message can also be ridiculous if there is a mad dash for the lowest place, with ears cocked toward the host, waiting for the call to ascend.
Those who lift themselves up over others will be brought down; those who regard themselves as among the "lowly" -- as human as anyone else -- will be raised up. Raising up and exaltation belong to God; recognition of one's lowliness is the proper stance for human beings. The act of humbling oneself is not something for its own sake, but for the sake either of God or of Christ.
Today's first reading from the book of Sirach ( 3:17-18, 20, 28-29 ) speaks about authentic humility that gives a true estimate of self ( 7-19 ) . Through it a man performs duty, avoids what is beyond his understanding and strength ( 20-22 ) . Pride, however, begets false greatness, misjudgment, stubbornness, sorrow, affliction and perdition ( 3:23-27 ) .
The only real security
The rich, the powerful, and the 'just' find it very difficult to be humbly open to God; they are full of confidence in their own treasures and securities. The only real security is the one based on friendship with God and service of God: to be a servant of human beings and of God after the example of Jesus of Nazareth. Exalting oneself is a form of self-reliance as opposed to reliance on God. This makes clear why being rich, prosperous, satisfied almost naturally imply being arrogant, proud, godless.
The second lesson of today's Gospel goes against the accepted, normal practice of inviting only those who can be expected to return the favor in one form or another. Jesus reverses this norm: Do not invite to share a meal with you those who will some day reciprocate and even outdo you; instead, invite those who are never invited out -- the poor, those who live on the fringes of society, and those from whom no favors can be expected.
Etiquette "chez" Luke
Being a host carries with it many pleasant and positive connotations: friendliness, generosity, graciousness and concern for the comfort of others. However Jesus also observes ( Luke 14:12-14 ) that hosting can be distorted and terribly misused when the host does his/her work with strings attached! A host who expects a return on his or her behavior will not offer service or food to those who cannot repay, and so guest lists consist only of persons who are able to return the favor.
Jesus calls for "kingdom behavior": inviting those with neither property nor place in society. God is our ultimate host, and we, as hosts are really behaving as guests, making no claims, setting no conditions, expecting no return. Luke's fourfold list of the poor, the maimed, the lame and blind ( 13 ) is no surprise to the reader. We knew about these people since Mary sang about them in her Magnificat at the beginning of this Gospel ( Luke 1:46-55 ) and Jesus addressed them in his inaugural sermon in the Nazareth synagogue ( Luke 4:16-30 ) .
Jesus impropriety and lax mercy
As with so many things he did, Jesus' befriending such types of people and eating with them angered his opponents. They murmured against him: "He has gone in to be a guest of a man who is a sinner," or "Look at him who eats with tax-collectors and prostitutes!"
But where others saw only sinners, people on the fringe, public pariahs to be hated and isolated, Jesus saw something else. He saw human beings, perhaps people trapped in their own failure, desperately trying to be something better, awkwardly trying to make amends for a life of injustice.
Jesus of Nazareth would exclaim: "Today salvation has come to this house, since this man also is a son of Abraham. For the Son of Man came to seek and to save the lost."
To seek and save the lost, to exalt the poor and the lowly, to humble the rich, godless, haughty and arrogant, this was Jesus' ministry. His opponents took offense at all this impropriety and lax mercy. All of those who Jesus recommends to be on our invitation lists are those who will receive the places of honor in the banquet of the kingdom: the poor, those who are maimed, lame, blind, gentiles, those who cannot repay us, who because of their status had not been allowed entrance into the center of the old Temple. But the walls of the new temple were to exclude no one.
Assemblies of the Old and New Covenants
In today's second reading from Hebrews ( 12:18-19, 22-24a ) , the two covenants, of Moses and of Christ, are compared. This remarkably beautiful passage contrasts two great assemblies of people: that of the Israelites gathered at Mount Sinai for the sealing of the old covenant and the promulgation of the Mosaic law, and that of the followers of Jesus gathered at Mount Zion, the heavenly Jerusalem, the assembly of the new covenant. This latter scene, marked by the presence of countless angels and of Jesus with his redeeming blood, is reminiscent of the celestial liturgies of the Book of Revelation.
The Mosaic covenant is shown to have originated in fear of God and threats of divine punishment ( 12:18-21 ) . The covenant in Christ gives us direct access to God ( 22 ) , makes us members of the Christian community, God's children, a sanctified people ( 23 ) , who have Jesus as mediator to speak for us ( 12:24 ) . Not to heed the voice of the risen Christ is a graver sin than the rejection of the word of Moses ( 12:25-26 ) . Though Christians fall away, God's kingdom in Christ will remain and his justice will punish those guilty of deserting it ( 12:28-29 ) .
Cardinal Newman's weapons of saints
It is good to reflect on the words of the Venerable John Henry Cardinal Newman in one of his memorable sermons on today's Gospel entitled: "The Weapons of Saints." http://www.newmanreader.org/works/parochial/volume6/sermon22.html
He writes: "There is a mysterious connexion between real advancement and self-abasement.
If you minister to the humble and despised, if you feed the hungry, tend the sick, succour the distressed; if you bear with the forward, submit to insult, endure ingratitude, render good for evil, you are, as by a divine charm, getting power over the world and rising among the creatures. God has established this law. Thus He does His wonderful works. His instruments are poor and despised; the world hardly knows their names, or not at all.
They are busied about what the world thinks petty actions, and no one minds them. They are apparently set on no great works; nothing is seen to come of what they do: they seem to fail.
Nay, even as regards religious objects which they themselves profess to desire, there is no natural and visible connexion between their doings and sufferings and these desirable ends; but there is an unseen connexion in the kingdom of God. They rise by falling.
Plainly so, for no condescension can be so great as that of our Lord Himself. Now the more they abase themselves the more like they are to Him; and the more like they are to Him, the greater must be their power with Him."
Mother Teresa's etiquette
As we remember Blessed Teresa of Calcutta on her 100th birthday ( Aug. 26 ) , and the 13th anniversary of her death on Sept. 5, let her words ring in our ears and in our communities this week. She understood well the table talk and etiquette of Luke and of Jesus.
"People are often unreasonable, irrational, and self-centered. Forgive them anyway.
"If you are kind, people may accuse you of selfish, ulterior motives. Be kind anyway.
"If you are successful, you will win some unfaithful friends and some genuine enemies.
Succeed anyway.
"If you are honest and sincere people may deceive you. Be honest and sincere anyway.
"What you spend years creating, others could destroy overnight. Create anyway.
"If you find serenity and happiness, some may be jealous. Be happy anyway.
"The good you do today, will often be forgotten. Do good anyway.
"Give the best you have, and it will never be enough. Give your best anyway.
"In the final analysis, it is between you and God. It was never between you and them anyway."