チャンスの扉は、いつまでも開いてはいない
年間第21主日 聖書黙想 2010/8/22 トマス・ロシカ師
今日の福音(ルカ 13:22-30 )は、ばらばらな文脈で語られたイエスの教えの寄せ集めのように見えるかもしれませんが、「救われるのはだれか。」という共通のテーマでまとめられていて、全体を通してのイエスの意図は明快です。すなわち、よい知らせは「全てを、完全に」提供され、そのように受け取られなければならないのです。
イエスの言葉は、神の国のたとえ話(ルカ 13:18-21 )のすぐ後に続いており、神の国に入るには大きな努力が必要であること( 13:24 )、そして、狭い戸口はいつまでも開いているわけではないので今ここにあるチャンスを直ちに受け取らなければならないことを強調しています。( 13:25 )
この教えの背後には、同時代のユダヤ人たちが、イエスという人物と、そのメッセージを拒んでいたことがあります。( 13:26 ) ユダヤ人たちは、イエスのメッセージを受け入れると、神の国での宴会の席を世界の東から、西から、南から、北から来た異邦人たち( 13:29 )に奪われてしまうと考えたのです。
最後に呼ばれる人々(異邦人)が、最初に入るよう招かれていた人々(ユダヤ人たち)に先んじてしまうからです。
主よ、救われるのは誰ですか
イエスへの問いは、実際にはこうでした。「救われる者は少ないのでしょうか。」 イエスの答えは、神の国への戸口は開かれているが、入る道は狭く、軽い気持ちでなく、真剣な努力が必要だというものでした。実際、「そこに入る戸口」はいつまでも開いているわけではありません。神のご意思は、最後の審判へと向かいます。戸が閉められてしまったら、それは閉じたままです。
イエスがかつて自分たちの町や村を訪れたり、道端で教えたりしたことがあるとか、あるいは、かつてイエスと群衆を見たことがあるとか、イエスの家族と会ったことがあるなどと主張するだけの人々にとっては、勿論この戸が再び開かれることはありません。そのような主張は無益なだけでなく、かえって自分を罪に陥れることになります。何故なら、チャンスには義務が伴うからです。
閉ざされた戸の前にうずくまる痛みを一層増すのは、入ることを許された大勢の人々の姿です。そこにイスラエルの昔の忠実な信者たちがいるのは当然ですが、予想もしなかった、教えを聞いて信じた異邦人たちもいるのです。それはイスラエルの人々にも、わたしたちにも、神の国に向き合って、自分が正しい場所に立っているかどうかを判断する機会を与えてくれます。
救いの意味とは?
キリスト者として救われるためには、イエスを、いまこの時、主と認めねばなりません。今日の福音から学ぶことは、イエスは、
「キリスト者」という名を冠してさえいればだれでも認めるわけではないこと、 そして、
「 キリスト者
」のしるしを 担って生きている人は、全てを直ちに認めるだろうということです。神の国についてそれぞれがどう思っていようとも、「誰が救われるのか?」についてもう一度考える必要があります。誰が見ても決して神の国に入れないだろうと思われる人が、まずそうするべきでしょう。その逆もまた言えることです。
救いは、生涯をかけた旅路です。その歩みの中で、わたしたちは神に見いだされ、選ばれるのです。この旅路で、わたしたちは神と友になり、また人々と互いに友になって、神の聖なる神秘に深く与かります。さらに、この変容の旅は、始めから終りまで愛のうちになされるのです。
イエス・キリストを通しての救い
福音宣教の努力の中でときどき出会う困難は、教会に属していない人たちの救いを巡って起ります。教皇 ヨハネ・パウロ 2 世 は、その優れた回勅「救い主の使命( Redemptoris Missio )」の中でこう書きました。「救いの賜物は、『明らかにキリストを信じ、教会に属している人々』に与えられるとは限りません。救いは全ての人々に示されているので、間違いなく全ての人がそれを手に入ることができなければなりません。」
そして、多くの人々が、実際に福音のメッセージに接することができないことを認めながら、教皇はこう述べています。「福音の啓示を知り、それを受け入れ、または教会に参加する機会に恵まれない人々も大勢います。彼らが住む場所の社会的、文化的条件がそれを許さないのです。そして、多くの場合、彼らはキリスト教以外の宗教の伝統の中で育ったのです。」( 10 項)
わたしたちは、今日多くの人々が採る相対主義的な立場を決して正当化してはなりません。彼らは「救いの道は、贖い主キリストの信仰とは無関係に、どの宗教にも見出すことが出来、諸宗教間の対話は、この緩やかな考えに基づくべきである。」と主張するのです。
キリスト者の信仰箇条を信じない人たちの救いに対する、そのような解決方法は、福音とは相容れません。むしろ、救いの道は常にキリストのうちにあり、従って教会とその宣教者は、いつの時代にも、どの場所にも、どの文化の中にもイエス・キリストを伝える使命を担っている、との立場を維持すべきです。キリストを離れて「救いはない」のです。
ペトロが、使徒としての最初の説教で、サンへドリンの前で宣言したように、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 ( 使 4:12 )
あなたは救われていますか?
あなたは救われているかどうか、だれかに問われたことはありますか? 数年前、わたしはトロントの繁華街を歩いて夕べの行事に向っていました。わたしが司祭のスーツを着て物思いに耽りながら歩いていると、何人かの路上生活者がわたしを見て話しかけてきました。「やぁ、神父さん、あんたは救われてますか?」 それは、その夕刻、わたしが最も聞きたくない言葉でした! わたしは、その質問には答えられないと言いました。その夜の夕食会で、実業界のリーダーのカトリック信者たちに話をすることになっていて、心の中はそのことでいっぱいでした。彼らの一人が、「あんたたちカトリック信者は救われてないよ。それがどんな意味かも分かってないね。」と返してきました。
その出会いのすべてに、わたしは考えさせられました。「救われているか?」などという質問は、神学部や教会の集まりでも決してされたことはありません。わたしが救われているかどうかをよく尋ねられるのは、下町の町角や、トロントの繁華街の大きなショッピングモールの入り口などです。わたしは、心の中でこう考えます。「彼らは単に、教育が無く礼儀を知らない路上生活者であるか、或いは、わたしの静かな空間にぶしつけな質問でずかずかと入り込んでくる原理主義者に過ぎないではないか。」
それでも彼らの質問は、無視することのできない問題です。特に、「救い」という聖書の言葉にあまり精通していないことが多く、また、そのような本質的な質問に答えることに慣れていないカトリック信者にとっては、これはしっかり考えなければならない問題です。わたしたちが今度、救われているかどうか尋ねられた時には、それについて、じっくりと考えてみても良いのではないでしょうか。そうすれば、わたしたちは、その熟慮の結果に心地よい驚きを感じるかも知れません。
キリスト教信仰の創始者
今日の第2朗読のヘブライ人への手紙( 12:5-7,11-13 )によれば、キリスト者の生活は、旧約聖書の中の「信じる人々」( 12:1 )ばかりでなく、とりわけイエスによって霊感を受けることになります。キリスト者の信仰の創始者として、イエスご自身が、勝利の栄光を受ける前に十字架の死に耐えねばなりませんでした。( 12:2 )。イエスの苦しみを思えば、わたしたちも、必要とあれば血を流してでも闘い続ける勇気を持てるに違いありません( 12:3-4 )。キリスト者は、自分の苦しみを、主の愛のこもった戒めと考えるべきです。主はわたしたちを、父が子どもを愛するように愛しています。
他者の救いを求めて祈る
8 月 28 日、教会は、聖アウグスティヌスの母である聖モニカを記念します。モニカこそ、愛する人の救いを求めて祈った人でした。わたしは、自分の子供についての心配や悩みをうち明ける両親をたくさん見ています。その人たちにはモニカのことを話し、彼女が、苦悩する両親と子供たちのための偉大な仲介者であることを思い起こしてもらいます。モニカは、息子アウグスティヌスの回心を辛抱強く、じっと我慢して待ちながら、幾度も自問したに違いありません。「あの子は、いつ、どのように救われるのでしょうか?」
モニカが息子のことを心配するのには多くの理由がありました。アウグスティヌスは 18 才で愛人と子どもがいました。それから、アウグスティヌスは、マニ教という宗教的カルト集団に入りました。アウグスティヌスへの説得は失敗し、勘当しても効果がなく、行方を晦ましてしまいました。モニカは、司教に仲裁を頼みましたが、司教の答えは期待していたものとは違いました。「そのままにしておきなさい。ただ、彼のために祈りなさい。」 そこで、モニカは祈りました。神が自分を無視しているように思えるときも祈り続けました。モニカが、やめさせるように神に懇願していたのに、アウグスティヌスはローマに向けて旅立ちました。しかし、神はモニカの本当の祈りを御存知でした。ローマで、アウグスティヌスは充分に学びマニ教を捨てました。しかし、まだキリスト信者になった訳ではありませんでした。
忍耐、忠実、そして希望
モニカは人気のある聖人で、いくつかの優れた特質を持っています。その特質の一番目は忍耐です。最初は夫に対して、次に息子に対しての忍耐です。息子は、今日で言うところの精神障害とも言うべき振る舞いをする人物でした。アウグスティヌスがキリスト教に改宗したのは、モニカの生涯の最後の年のことでした。特質の二番目―モニカは忠実さの模範でした。彼女は神の摂理を信頼しながら、あまりにも不確かで不安定な人生を過ごしました。特質の三番目―彼女は、希望の模範でもあります。オスティアでの息子との感動的な会話の中で、二人は海を見つめながら、生と死についての現実的な問題に思いを馳せます。アウグスティヌスの「告白」の中から、母が守ってきた信仰についての彼の言葉を聴きましょう。
「(さて、このようにして)わたしの母がこの世を去るべき日が近づいたとき――その日をわたしたちは知らなかったが、あなたはご存知であった――(中略)わたしの母はこういった。『わが子よ、人はいざ知らずわたしは、もうこの世のどんなものにも喜びを感じない。わたしはこの世で何をなすべきか、また何のためにこの世にあるのか知らない。この世の望みはすでに遂げたからである。ただそのためにわたしがこの世にしばらく生き長らえることを望んでいた一つの望みがあったが、それはわたしが死ぬ前に、あなたをカトリックのキリスト信者として見ることであった。神はわたしにこの望みを十二分にかなえてくださったので、わたしはいま、あなたが地上のあらゆる幸福を捨てて、神の僕となったのを見ることができるのである。(わたしはもうこの世で何をしようか。)』」 (聖アウグスティヌス「告白」 9 巻 10 章より :服部英次郎訳、岩波文庫)
モニカの祈りと、その静かで変わらない、愛に満ちた証しは、全教会において実を結びました。
アウグスティヌスは 387 年に洗礼を受け、 10 年もしないうちに北アフリカのヒッポの司教になりました。モニカの最晩年になって、やっとアウグスティヌスはキリスト教に改宗しました。そこに至るまでに費やした時間は 33 年でした。しかし神は、彼女が予想だにしなかったやり方でその祈りに答えました。アウグスティヌスは聖人となり、教会博士になりました。
この聖なる母の生涯を記念し、祝いつつ、わたしたちの両親や友人たちの日々変わらない信仰に感謝しましょう。両親や友人たちは、わたしたちのために偉大な信仰と忠実と忍耐と希望の模範となってきました。この人たちは今すぐにでも、わたしたちが救いを望み味わう手助けをしてくれるのです。
聖書朗読:
イザヤ 66:18-21: わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。 66:19 わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 66:20 彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 66:21 わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
ヘブライ 12:5-7, 11-13: 12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。 12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」 12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
ルカ
13:22-30 : (狭い戸口)
13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 13:27
しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
* * *
The Door of Opportunity Will Not Remain Forever Open
Biblical Reflection for 21st Sunday in Ordinary Time C, Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, AUG. 17, 2010 (
Zenit.org
) .-
Though today's Gospel (
Luke 13:22-30
)
may well be a loose collection of sayings of Jesus, uttered in several different
contexts but brought together here under the general heading of "who will
be saved," the overall tone of Jesus' meaning is clear: The good news is
offered "whole and entire" and must be accepted in the same way.
Jesus words follow upon the parables of the kingdom ( Luke 13:18-21 ) and stress that great effort is required for entrance into the kingdom ( 13:24 ) and that there is an urgency to accept the present opportunity to enter because the narrow door will not remain open indefinitely ( 13:25 ) .
Behind the sayings is the rejection of Jesus and his message by his Jewish contemporaries
( 13:26
)
whose places at table in the kingdom will be taken by Gentiles from the four
corners of the world (
13:29 )
. Those called
last ( the
Gentiles )
will precede those to whom the invitation to enter was first extended (
the Jews )
.
Lord, who
will be saved?
The question to Jesus really is: "Will only a few be saved?"
Jesus answers by saying that the invitiation is open but the way into the kingdom is narrow and demands more than casual interest. In fact, the "door of opportunity" will not remain forever open. God's purpose moves toward the eschaton, and when the door is closed, it is closed.
This door will certainly not be reopened for persons who only claim is that
Jesus once visited their towns and villages or preached in their streets or
that they once saw Jesus and a crowd or encountered members of his family. Such
appeals are not only futile but also self-incriminating because their opportunities
carried obligations.
Added to the pain of sitting before a closed door will be the sight of large
numbers who are admitted, but only the expected ones among Israel's ancient
faithful but also the unexpected Gentiles who heard and believed. It
provides Israel and us opportunity to assess where we stand in relation to the
Kingdom of God.
What does it mean to be saved?
To be saved as Christians, we must acknowledge Jesus now as master. From today's
Gospel we learn that Jesus may not recognize everyone who bears the name "Christian,"
but he will recognize immediately all those whose lives bear the stamp of "Christian."
Each
of us must re-think whatever notions we have of the kingdom of God, of who will
be saved. Those we think least likely to enter may be the first to do so, and
vice-versa.
Salvation is a life-long journey and along the way we are found and chosen by God. On the journey we become friends with God and with one another, and enter more deeply into the holy mystery of God. Furthermore, the whole transformative journey is made in love.
Salvation through Jesus Christ
The difficulties that sometimes accompany our efforts of evangelization revolve around the problem of the salvation of those who do not visibly belong to the Church. In his brilliant encyclical letter "Redemptoris Missio," Pope John Paul II wrote that the gift of salvation cannot be limited "to those who explicitly believe in Christ and have entered the Church. Since salvation is offered to all, it must be made concretely available to all."
And, in admitting that it is concretely impossible for many people to have access to the Gospel message, the Pope stated: "Many people do not have the opportunity to come to know or accept the Gospel revelation or to enter the Church. The social and cultural conditions in which they live do not permit this, and frequently they have been brought up in other religious traditions" ( No. 10 ) .
We must never justify the relativistic position of many today who maintain that a way of salvation can be found in any religion, even independently of faith in Christ the Redeemer, and that interreligious dialogue must be based on this ambiguous idea.
That solution to the problem of the salvation of those who do not profess the Christian creed is not in conformity with the Gospel. Rather, we must maintain that the way of salvation always passes through Christ, and therefore the Church and her missionaries have the task of making him known and loved in every time, place and culture. Apart from Christ "there is no salvation."
As
Peter proclaimed before the Sanhedrin at the very start of the apostolic preaching:
"There is no other name in the whole world given to men by which we are
to be saved" (
Acts 4:12
) .
Are
you saved?
Has anyone ever asked you if you have been saved? Several years ago, I was walking
in downtown Toronto to an evening event, dressed in my clerical suit and engrossed
in thought when a small group of street people met me and struck up a conversation.
"Hey, Reverend, have you been saved?" It was the last thing I needed to hear that evening! I told them that I wasn't able to answer their question. My mind was on the talk I was to deliver later that evening to Catholic business leaders at a dinner function. One of them replied: "You Catholics aren't saved, and you don't know what it means!”
That whole encounter got me thinking. Such questions about being saved are never put to me in theological faculties or Church meetings. I am often asked if I have been saved at downtown street corners, or at the entrance to a large shopping mall in downtown Toronto. I say to myself: "Are they not simply poorly educated, unsophisticated street folks, or fundamentalists who rudely break into my quiet space with their impertinent questions?"
Nevertheless
their question is one that must be dealt with, especially for us Catholics who
aren't often versed in the biblical language of salvation and who are not used
to providing an answer to such an essential question. The next time we are asked
if we have been saved, we might do well to ponder the idea a bit, and we may
be pleasantly surprised at the results of our reflections.
The
architect of the Christian faith
In today's second reading from the letter to the Hebrews (
12:5-7, 11-13
) ,
Christian life is to be inspired not only by the Old Testament men and women
of faith ( 12:1
) ,
but above all by Jesus. As the architect of Christian faith, he had himself
to endure the cross before receiving the glory of his triumph (
12:2 )
. Reflection
on his sufferings should give us courage to continue the struggle, if necessary
even to the shedding of blood (
12:3-4 )
. Christians
should regard their own sufferings as the affectionate correction of the Lord,
who loves them as a father loves his children.
Praying
for the salvation of others
On Aug. 28, the Church remembers St. Monica, mother of St. Augustine. If anyone
every prayed for the salvation of a loved one, it was Monica. I have met many
parents who confided in me their concerns and worries for their children. I
speak of Monica to each of them, reminding them that she is a great intercessor
for parents, and children, in distress. Monica undoubtedly often asked herself
the question: "When and how will my son be saved?" as she waited with
great perseverance and patience for her son Augustine's conversion.
Monica had many reasons to worry about her son. At 18, Augustine had a mistress and a child. Then, Augustine joined the religious cult of the Manichees. Preaching to Augustine didn't work and disowning him only drove him away. When she asked a bishop to intervene, he gave her a different answer than she expected: "Let him be. Simply pray for him." So she prayed -- even when God seemed to ignore her. Augustine sailed for Rome though she had begged God to stop him. But God knew her real prayer -- and in Rome Augustine learned enough to reject the Manichees, but he still was not a Christian.
Patience,
fidelity and hope
Monica was a popular saint in whom we see several important characteristics:
patience -- first with her husband and then with her son who exhibited quite
dysfunctional behavior as we would call it today! It
was only in the last year of her life that Augustine converted to Christianity.
Monica was a model of fidelity -- she trusted in Providence and lived with so
much obscurity and ambiguity. She was also a model of hope -- in a moving conversation
in Ostia with her son, they both gazed out over the sea and reflected on the
real questions of life and death. Listen to Augustine's words from his Confessions
about his mother's persevering faith:
"The day was now approaching when my mother Monica would depart from this life; you knew that day, Lord, though we did not... My mother said: "Son, as far as I am concerned, nothing in this life now gives me any pleasure. I do not know why I am still here, since I have no further hopes in this world. I did have one reason for wanting to live a little longer: to see you become a Catholic Christian before I died. God has lavished his gifts on me in respect, for I know that you have even renounced earthly happiness to be his servant."
Monica's prayers
and her quiet, consistent and loving witness bore fruit for all the church:
Augustine was baptized in 387 and became bishop of Hippo in North Africa less
than ten years later. It was only in the last year of her life that Augustine
converted to Christianity. It had taken 33 years but God answered her prayers
in a way she never expected -- Augustine became a saint and a doctor of the
Church.
As we remember and celebrate the life of this holy mother, let us give thanks for the ordinary faith of our parents and friends, who have been for us models of great faith, fidelity, patience and hope. Such people help us to desire and taste salvation here and now.