「学び合いの会」2013年度第2回例会(2013/6/15)

出席者:23人


年間テーマ:日本の教会のこれからを考える
       ―社会と人に寄り添う信仰とは―


今月のテーマ:人生を生きる現場のなかで体験する信仰
発題:2名



発題
1.
注  資料に基づいて説明されましたが資料は省略しました


@ イエスにとっての社会と人に寄り添う信仰とは


・ 「主の祈り」はイエスの運動の中心理念を要約しており、運動参加者の連帯のしるしである。
・ この祈願の背景には、「ローマ帝国」「ヘロデ家」「ユダヤ教大祭司」による三重の支配体制があった。この中で、ユダヤ人たちは、収入の7〜8割を税金で取られ、生活の基盤を奪われてしまう。
・ イエスはトーラーを読んでいたので、神の支配が成就するvisionがあった。
「あらゆる人の生存に必要なパンの配分」(分配の正義の実現)、「負債からの解放」(負債の免除)を、神の国到来のしるしと考え、行動した。イエスと弟子たちの共同体は、

「パンを分かち合い」、「負債を許し合う」共同体であったとうかがえる。
・ 負債を抱えていることは、ユダヤ人の大きな苦難であった。苦難の大きな部分は負債であった。借金が苦しみのもとであった。
・ これが教会の原点と久保は考える。


A 日本の教会のこれからを考える


・ 私たちは、社会が壊れている時代に生きている。
・ 人間は、楽園を追放された楽園喪失者であるのだから、人間のあり方に問題があるのである。


2.
注  資料は省略参照


これまでの聖母訪問会の軌跡をたどる。
*第2ヴァチカン公会議後の刷新
 ・ 会のオリジナリティー「小さき道の識別」に帰る。
 ・ これまで運営していた事業の大半を移管することを決定した。
 ・ 修道生活は、教会の秘儀の終末論的な局面を証しする見えるしるしである。
 ・ すべての生命との共生に目覚めつつ全宇宙の中で私たち一人ひとりが合いの交わりを生きていきたいということから、東チモール修道院、次いで、神奈川県に修道院を設立した。
 「地球のすべてのいのちが健やかに生きられますように」

司会者:一番目の発題者は神学的に、二番目は修道会の活動を通して、貧しい人に寄り添う(イエス様の姿勢)ということに焦点を合わせてお話して下さった。この話を踏まえて、個人のレベルで考え、多様性の中で、それぞれの体験を話し合えればよい。

全体会
質問:
A:1.
  前半は示唆のある話だった。
  後半に関して
質問@: 具体的な場面では、「教会」という看板を掲げると危険である。社会活動、政治活動には個人として関わるべきではないか。
質問A:NGOは社会団体、政治団体となるのではないか。


2.
質問@ 現在、修道会はどこも危機的状態にあるが、会の方針転換はどこにあったのか。
質問A 学校教育は大切なのに何故手放したのか。移管された後どうなったのか。もう少し本音を聞きたい。

質問に対する答え:
ユダヤ教、キリスト教は元祖NGOであると考える。NGOは非政府組織で、権力に寄らない、人間をある良き状況へと進めて行くことをモットーとする集団である。NGOの概念が、Aさんとは違うのではないか。Alternativeな生き方を示す運動、人間と社会のあり方を掲げる集団がNGOであると考え、その運動の中からイエスが出てきたというイメージでNGOという言葉を使った。ユダヤ教やキリスト教は、社会に対して、アンチテーゼ、alternative な生き方を示し、聖書を編み運動を行ったと自分は理解している。そのAlternativeな生き方を示すはずの集団としての教会が御用宗教になってしまった。キリスト教が封建社会の身分制度をsupport するようになってしまった。教会の制度の中で仕事をするということは、自分にとってはあまり意味がなかった。


方針転換の理由
創立の原点に戻って考えたということである。人の必要に応じて事業をしていたのが原点で、大きくなってしまった事業体でははずれているのではないかと考えた。事業体を運営するので精一杯になっている状況ではちがうのではないか。移管されてからは、信徒の方たちが運営している。精神を引き継いで運営していると思う。

質問:
B: 隔靴掻痒の感じがある。社会に寄り添うためには、何か活動をしなければならないという感覚があるが、そのようなことをしない多くの人間は、どう発想していったらいいかの何か示唆がほしい。社会活動ではない関わり方を教えていただけたら。

質問に対する答え:
「共同体運動」という言葉を敢えて使った。イエスの運動は、炊き出し(食べ物の分かち合い)、癒し(医療活動)、負債を許し合うことが基本になっている。それがイエスが当時の人々の苦難に寄り添う形であった。これを現代置き換えて読み直す。クリスチャンは、苦難の中に入り、共に生きることが信仰のあり方だと自分は考えて、400万人もいると言われるパレスチナ難民(特に女性)の生活をsupportするNGO活動に18年間関わっている。パレスチナ難民400万人以上が何故出たのかということの最大の責任は、キリスト教徒のユダヤ教徒への迫害にある。それに対して、責任を取ろうとして行動を始めたのが太田道子(聖書学者)さんである。この活動には500人ほどの人が関わっている。様々な人が難民キャンプに行き、細々と支援事業を行っている。それと並行して聖書を学ぶという活動をしている。これを普通は教会とは言わず、NGOと言っているが、自分はこれがクリスチャンとしての一つのあり方だと考える。

質問(感想):
C: 1.人により添うということを、現在の日本で自分の仕事に関して考えていることを話したい。Stand by LCということについて説明したい。これは、本社が子会社の事業を保証するために、銀行網を通じて発行する物である。本社が力のない子会社に寄り添う形である。これは、宮沢首相のときにやめさせられて、日本では今ではほとんど認められていない。外国同士ではできる。これが、今の日本の金融界の現状である。震災の復興のために働こうとしている地場の建設会社がある。それを応援しようとする外国の銀行があるが、担保も保証もなくお金が借りられない。
2.本当に必要な生きるためのお金は大切である。必要な人(貧しい人やお年寄りなど)に、必要なお金を与えることは薬以上に役に立つ。<負債の免除>
*「寄り添う」ことを、それぞれの職場でやっていけばよい。

質問:
D: 1.イエスの心を旧約から学び取る部分も欲しかった。
自分は聖書百週間をやっていて、ミサの説教で一回読むぐらいで、聖書は分からないものだと分かる。イスラエルの民は神に反抗し続けたのに、神は救ったということが今の信者には伝わっていない。神学校は歴史的な物を「学ぶ」だけでなく、このように「学び取る」ようなアドバイスはしてもらえないものだろうか。

2.この修道院はとても立派なところである。一般の信者に祈る場所を提供することは考えていないのか。

質問に対する答え:
聖書を学んだのは、最初は雨宮神父からである。当時、自分には聖書を学びたいという欲求があった。1989年に受洗後、小教区に行ったが、珍しく若い人が来たと役をやらされて、嫌になった。上智大学神学部へ行き、佐藤研先生、また太田道子先生などから、イエスを人間としてみる、社会学の方向から聖書を学んだが、それがいいのかどうかは分からない。万人向けの聖書の読み方があるのかどうか分からない。


司会:それぞれの恵みは違う。お二人は、かけがえのない信仰体験をしたのだ。それを尊重するのはいいが、もう少し自分に引きつけて考える方がいいのではないか。あまり二人の発言者に集中しない方がいいのではないか。


修道院は、(エコロジーを目指した)共同体造りが大変であった。今は、来る人は拒まず、多くの人に開放している。建物は贅沢のようだが、一人一人の救いにはそれだけの空間が必要である。


E 修道院を建てた当時は、シスター達はとまどっていた。しかし、目的もはっきりしていたし、最初から開放はしていた。

質問:
F: 私たちは信仰によって救われる。聖書の言葉はそのまま受け止めている。聖書を研究することによって救われたのですね。そこに神からの救いがあるのですよね。

質問に対する答え:
分からない。大学時代は西洋哲学を勉強していた。その間に、西洋哲学の背後にあるキリスト教とは何だろうと思い、聖書を勉強した。雨宮講座で聖書を通して呼びかけられた気がした。
司会:それは、本人の信仰体験、初台者に対する聖霊の恵みであり、参考にはなるけれど、それぞれへの聖霊の恵みは異なる。

・・・以降、意見交換が進んでいく・・・

E:「社会と人に寄り添う信仰とは」(テーマ)という言い方では、社会と人が別になっているが、社会は人が作る物である。


ちょっとわからない。もともとこのテーマがどういういきさつで成り立ったのか知らない。


E: 人に寄り添うのは社会につながるのか。女性はそういう思考である。私という存在がどのように社会につながっているのか。認識しないといけないのかと考えた


司会:(司会を離れて)家庭も社会であり、夫婦も社会である。


E: 自分の置かれた立場で人に寄り添うということか。


司会: それぞれの立場で考える。自分はこの立場で考えるのでいいのではないか。そうでないと話ができない。「社会とは」と始めてしまうと、議論になってしまう。話ができない。


E:分かりました。そこのところをはっきりさせないと。私個人の体験が社会につながっていくということが・・・。


G:スポーツ界での暴力の問題。本来、人の問題、上司の問題であったことを構造的問題としてとらえて訴えた。我々が押さえつけられている構造的な問題を考えることが必要。信仰という面から見ても、社会という言葉という部分から、構造部分に踏み込まないと人に寄り添えない。寄り添うためには、背景や構造部分に入り込まないとできないのではないか。そういう意味で社会と人とを考えたらどうかと思う。


H: 自分が今生きている時代に聖書を照らしていく。人の様子から福音を思い出させてもらう。人を通して思い起こすことができる恵み。皆働く場所が違うので、こうしなさいとは言えない。出会った方、自分の置かれる環境の中で福音をいかに生きるか。自分は人を通して福音を感じることが多い。


I: 汚くお金を稼ぐ人も、いじめをする人も自覚していない。自分は40歳代で、最後の審判、印籠の意味最近わかりかけてきた。人生の先輩方は、その意味が分かるか。私はそれだけを支えに生きている。


司会:聖霊を、人間が生きているところに体験するために、一生かかって神様の愛(終末的な救い)を信頼して歩んでいく。


J: 自分は罪深いと思って生きてきたが、人間の次元の罪は、神様から見たらどう見られているかわからないというのが、この年齢になっての結論。罪も反面お恵みである。罪を与えられ苦しむことによって神に立ち返ることができる。人間の次元の不幸も神様から見ればそうでないかも知れない。私は聖書の言葉を実感している。審判が下るということはないと、60歳を過ぎて感じている。これまでの体験を通してそう感じている。
E: ディナーショーをやってマザーテレサの会に寄付しようという企画があった。ラッフル券を売ればもっとお金になると言ったが、マザーテレサから、「そんな汚いお金はいらない」との返答があった。


司会:今日話していない方、お話し下さい。


K: 教会に四つのグループを作って活動している。世の中に問題が起こるとどうしてもやりたくなる。何故か、またその原点は何か。修道会の人にも愛がないと思うことがあり、自分は友達を救うことができず、落ち込んで、聖堂で何もできない自分と向き合っていた。内も外も真っ暗な中で、インスピレーションを感じた。弱く何もできない私が

    @愛されている

    A生かされている

    B赦されている

ことを感じた。そして大きな喜びを感じた。深いいのちに触れさせてもらえたのだと思う。それから、すべての根底には愛の喜びのいのちがある。関わることを促される。するとエネルギーももらえる。

森司教のコメント
 投げかけたい。そのために例を挙げる。


カトリック病院の若い看護婦が妊娠した。相手は大学生で結婚は無理である。シスターには相談できず、短大の若い教授に相談した。教授は手術に付き添い、中絶後の世話をした。後でその話を聞いた院長とシスターが、カトリックの看板を汚すようなことをしたと怒った。自分の身を汚さないで寄り添うのは楽である。しかし、現実の社会で寄り添うとき、きれい事で済むだろうか。生きている人間の矛盾を抱え込まなければならないことを自分は感じた。


父親が2回離婚した家庭の最初のお母さんの子供が、カトリック校に、自分が紹介して入学した。その少女が図書室に火をつけてしまった。99匹の羊に対する責任から、その子を退学させる以外道はないと、涙ながらに校長が訴えてきた。判断ミスと限界を感じながら寄り添うのか、あるいは、手をさしのべていくというところで寄り添うのか。movementとしてとらえるのと、人間社会のどうしようもない部分で寄り添うのかをもう少し突き詰めないといけないのではないかと思う。


ある大きな修道会の財務の責任者は株の取引をして会の財政を支えている。会の活動によって人々は救われるが、その背後には「汚れ」がある。この矛盾をどう処理するか。「それはいけない」で断ち切れば善悪二元論になる。そこをどう説明していくか。人のいのちを守るという視点から原発反対を言うのは簡単だが、社会のシステムとを動かす価値観の中で、その価値観とどう対峙するのかという大きな課題がある。仕組みの中に入って自分だけ綺麗というわけにはいかない。社会のシステムと関わり、そこにどうチャレンジするのか。社会のシステムを支える価値観とどう向き合うのか。そのシステムの中にあって、そこで生きる人にどう寄り添うか。これからの教会のありようを考えるとき、善悪二元論に走るか、もがき矛盾の中に生きる人間に寄り添うのがいいのか、「学び合いの会」の方たちにお任せしようかな?と思う。


C:森司教が、初めに聖書があったのではないと言った。遠い昔書かれた聖書と、今の現実、自分の苦しんでいることとはなかなか結びつかない。新しい日本の現状に合わせた聖書を作ってはいけないか。


森:どうぞ作って下さい。神様が人と出会ったところから出てきて、文字に書かれたのが聖書である。神と人間のドラマが先、聖書が後から出てきた。
司会:自分の近いところを無視しては何も始まらない。一般の信者の役割はそこからスタート。そこから始めないといけない。現場の中の信仰体験からスタートするのがいい。
森:ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの違い。社会の中では、目的とか利益とか何かを立て、そのルールのもとに動いている。家族ではルールは通用しない。感情や欲求がぶつかり合い、そこにルールが入ると、どこかだれかが窒息してしまう。人類は皆家族と考えると難民に関わるのも当然である。フランシスコ教皇が、祈りがなければただのNGOと言うのには、自分はついて行けない。一人一人が愛を持ってやっていればそこに神が居る。祈りがなくてもいいのではないか。


A: 教皇と森司教では祈りの概念が違うのではないか。生活そのものが祈りであると考えれば、あの言葉はぴったりとするのではないか。


K: 祈りの概念が違うのかも知れないが、自分は祈りなしではできない。祈りからエネルギーをもらう。祈りがなくて本気になってできない。祈りのとらえ方が違うのか。


L: 祈りを神様とのつながり考えるのがいいのではないか。


M: 宗教用語を頻繁に使うと分からない。原体験があって生きていく。足下から誠実に生きていく。そうしていくうちに様々な解放が始まる。


N: 家族が一番難しい。


M: 家族は苦しいから育つのである。


N: そうですね。


司会:延々と続いてしまうので、ここでお開きにしましょう。


   <聖霊の続唱>
                              以上

この記録は発言者の発言の通り作成された記録ではありません。

敬語的表現は省略しています。何について話されたのかその一端を

お伝えするものです。

文責は学び合いの会にあります。