2009 年度 第3回「学び合いの会」例会記録

 

2009 10 17 日(土) 13 30-16 00  真生会館

 

 

参加者:  20

年間テーマ:  「対話の教会 −現代社会を変えられるか−」

 

本日のテーマ:  「対話の姿勢と良心への信頼」 ―人間を信じる対話―

 

•  ・・・ 以下に 2)、5)の発題とコメントを添付します

•  <発題 1 > 「対話の姿勢と良心への信頼」−人間を信じる対話−

 一ヶ月ほど前、里見さん(?)から自宅に、「第 3 回例会の発題をお願い」との電話をいただきました。今年は、合宿にも参加できず、第 1 回例会も欠席、第 2 回も所用で途中退席。何だか重い気持ちになりましたが、私が断っても誰かが発題をやらなければ「学び合いの会・第 3 回例会」が立ち至らなくなってしまう(思いあがりですが)。自分もこの際、勉強するつもりでがんばってみようと、あまり深く考えないで発題を、了解しました。

 

 さて、引き受けたはいいが、第 1 回、第 2 回の例会記録を読んでも自分の気持ちに落ちてこない。今年の例会案内を読んでも落ちてこない。「年間テーマ:対話の教会―現代社会を変えられるか−」のチラシや、全国合宿の「教会と現代社会は対話出来るか」を読んでも、同じ気持ちでした。第 2 回例会の発題を読んだら、ますますドロ沼に入り込んでしまいました。

 

 こんな気持ちでの発題ですが、発表させていただきます。

 

  私の教会は 1986 年に小教区として独立し、まだ 30 年に満たない新しい教会です。

  23区内(足立区)ですが、交通の便は良くなく(バスしかない)、近くに教会が3ヶ所あり(それぞれ駅に近く、外国語ミサもある)、立地や規模、歴史を考えると必要性を考えたくなるような(一時期、存続があやぶまれたときもありました)、こじんまりした教会です。主日ミサも 60 人位で、お互い知らない人はいないような、よく言えば家族的な教会です。

 

 近くに MC 会(神の愛の宣教者会)修道院があり、以前から「お年寄りのための食事つくり」や「駆け込み寺の女性の世話」など MC 会 Sr のお手伝い(ボランティア)にかかわっていました。

 20年ほどの間には、受洗したお年寄りも何人かはいましたが、 MC 会関係で受洗するのは、ほとんどが「赤ちゃん」でした。(「駆け込み寺の女性」のほとんどがフィリピン系など外国人です。成人洗礼もほとんどは臨終洗礼でした。)

 ここ1〜2年(特に今年に入って)、主日ミサの参加者が、多い日で、100名以上になりました。少ないときでも、80名以下のときはありません。ミサ後ホールでのコーヒー会(5年ほど前からスタート、100円、勿論、無料のお茶もあります)もいつも満員で、ミサ参加者の半分以上がホールで一時間ほど残ります。

 

 ミサ参加者で増えた第1は「お年寄り」です。ほとんどが一人暮らしです。( MC 会修道院に平日きている方達がほとんど)。第2は外国人です(ほとんどが子ども連れのフィリピン系の女性です。男性は欧米系で一人できます)。第3はこれまで教会を離れていた50歳代以上の日本人信者です(この方達はほとんどがミサ後のコーヒー会には参加しません)。幼稚園併設の教会なので、幼稚園関係の人達の参加(求道者も含め)も増えています。

 

 ホールでのコーヒー会は、それぞれが自然に、決まった場所にすわり、グループができ、固まってはいますが、それほど固定化したものではありません。勿論、お年寄り達はそれほど動き回れることは出来ませんので、ほとんど同じ場所ですが他の人達はその時の気分や、話題、聖堂から出てホールに行くまでの、それこそ成り行きでいろんな人達と交流しています。コーヒーは100円ですが、誰からとも無く、パンやクッキー、お菓子、果物、お漬物など持込み、結構楽しいひと時です。

 

 そんな事が続く中、昨年、一人暮らしの最高齢(当時98歳)のマリオさんが洗礼を受けたいと言って受洗しました(カトリック新聞にも紹介されました)。その後も続々と「 MC 会のお年寄り」の洗礼が続いています。ほとんどがひとり暮らしで、ホームレスに近い人もいます。(天国ドロボウの声もあります) 外国の人達も、ことばの壁はあり難しいところもありますが、「赤ちゃん」や「幼児」連れの場合、言語の壁は高くないようで、みんなの中に入っています。

 

 受洗した「お年寄り」たちはミサを本当に楽しんでいます。聖歌は毎回のように違う曲なので大きな声は出ていませんが、司祭とのやりとりの「主はみなさんとともに」「また司祭とともに」などは大声です。

「あわれみの賛歌」(主よあわれみたまえ)、「感謝の賛歌」(聖なるかな)、「平和の賛歌」(神の子羊)や「主の祈り」(天におられる)、など毎回歌われる歌は、大きな声で(かなり音程のはずれているかたもいますが)子どものように元気よく歌っています。

 

  先日も、ご夫婦(老人ホームで生活されています)でこられている方(ご夫婦とも、自立した歩行が出来ず、歩行器です、信者の車での送り迎え)の奥さんが突然一人で歩き出す事件がありビックリしました(彼女はルルドの水のお陰といっていますが、旦那さんは翌週、脳梗塞で入院)。

 

  元からの教会信徒も年々高齢化が進み、また、新しい「お年寄り」達の参加で、これからの日本の教会の縮図のようですが、毎週の主日ミサを楽しみに集まっています。

  どんなひとにも心を開き、お互い受け入れあい対話できることが「いごこちのいい教会」になっているんだと思います。

 

<発題 2 >  対話の教会 「対話の姿勢と良心への信頼」

 

 今回、発題にあたり、前回2回、全国合宿で発題させていただいた内容を振り返りました。昨年の合宿では、発題がどういうものかもわからないまま、事務局から20分位話してほしいとの依頼で、合宿のチラシを読んで自分の感じる部分についてお話させていただきました。また、今年は、同じく「対話」のテーマでしたが、対話についての発題というよりは、昨年の続きの話という形であり、振り返ると「発題」というよりは、信仰告白に近いものだったと感じております。

 改めて「対話」について何を話したらよいかこの1カ月ずっと考えていたのですが、私自身、対話をしていきたいという抱負を合宿で話していたはずなのに、具体的な対話をしてこなかったということに気付き、何をお話してよいか随分悩みました。それで、テーマを決められた森司教様の書かれたものをいろいろ読んで、気付いたのですが、「対話」の姿勢は、森司教様の生き方の姿勢であるように感じました。森司教様が現実の問題にしっかりと向き合う姿勢を貫いているその生き方が「対話」の姿勢であり、「対話の姿勢」は、生き方の姿勢であるように思いました。

 また、対話の在り方についていろいろ考えたのですが、対話の在り方は、適度な人数で、決められた枠内の時間にテーマ(命題)を持って行うことが必要であると思います。また、対立することもあるため、仲介役的存在が必要であると感じております。

 私自身に、最近対話をしたと思う機会は、正平協の全国大会で死刑廃止についてディスカッションをしたくらいで、対話というよりは意見交換会のような感じでした。

  それで、職場の役員が務めている中央社会保険医療協議会、通称、中医協と言われている会議について、少しお話させていただきたいと思います。中医協は、診療報酬を決めるための会議で、以前は診療側(医療側)と支払側(保険者側)での論議であったとのことですが、一時、診療を受ける側(患者側)の立場の方の参加もあったと言われました。現在は、公益を代表する方の参加となっているようですが、医療の適正な価格を決めることは、やはり、支払側と受取側でどうしても利害が対立することがあるため、実際に保険料を払い、医療サービスを受ける患者側の立場の方がいるということは、非常に大切であると感じました。

 今回、難しいテーマで、また、呼び掛け文を見落とし、テーマばかりに目が行ってしまったため、発題には大変苦慮しました。至らない点が多々あり、大変恐縮しています。

最後に、良心への信頼について、これはやはり、その問題にしっかりと向き合う相互の姿勢が、信頼に結びついていくのではないかと思っております。

ありがとうございました。

 

<第 3 回例会へのコメント> J. マシア

 皆さん、今日の話し合いに参加しながら次の例え話しが浮かんできました。「原発の現場を訪ねた団体の対話」という例え話です。

 

 Aさんは、毎日通う電車の中でたびたび自分と同じ近所の地域の人に会う。ある日のこと、その人と電車の中で会話したら原発のことが話題になった。(これは「現代の問題に関する身近な場での会話」と呼ぶことにしよう)。

 

 Aさんは自分の会社から派遣されてある国際会議のために出張した。その会議で核エネルギーの平和利用及びその安全性についての討論が行われていた。(これは「現代の問題に関する大きなレベルの場での対話」と呼ぶことにしよう」。

 

 Aさんはたまたま原発問題に関心をもっている人から誘われて原発の現場に行く見学の団体旅行に出かけた。その人々はそれぞれ違うところからきて、それぞれちがう背景を持っていたが、共通な関心があってこの団体の見学旅行に参加した。参加した人々は現場の経験しながら話し合った。(これは「現代の問題に関する学び合いの旅での対話」と呼ぶことにしよう)。

 

以上は、私が勝手に作ったたとえ話しであるが、私たちの会にあてはめたい。

 

 私たちは信仰者であると同時に現代人である。自分の信仰を育て、成長させたい。そして現代社会の中でそれを生かし、現代社会の問題に無関心でありたくない。

 その課題について、あるとき小さなレベレルの場で(たとえば自分の所属する教会で)話し合うことがある。他のときには大きなレベルの場で(たとえば信徒の国際大会に派遣されて)話し合う。前者はミクロの場、後者はマクロの場である。その「中間」の場はまさに私たちの「学び合いの会」と言う「旅」ではなかろうか。

 ここでわたしたちは自分の信仰を育てると同時に現代社会を変えるための原動力をやしないたい。信仰への忠実と現代への誠実を同時に育てることは簡単ではない。互いにそのために助け合いたい。

 

    <以 上>

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