2009 年度 第 2 回「学び合いの会」例会記録
2009 年 6 月 20 日(土) 13 : 30-16 : 00 真生会館
参加者: 2 4 名
年間テーマ: 「対話の教会 −現代社会を変えられるか−」
本日のテーマ: 「寛容な心と対話の限界」 ―相対的価値を認める対話―
<発題 1 >
テーマ 「 寛容な心 と 対話の限界 ( ある / ない )」 ― 相対的価値 を認める( / 認めない )対話 2009 年 年間テーマ:「対話の教会 ―現代社会を変えられるか―」
異常な格差社会を生んだ自由主義経済は、真の人間の生き方を阻害しているように思います。福音に生きようとする信徒は、社会の福音化の方向と現代社会の現状とをどう見るか。絶対とされる教義や、糾弾、裁きによるのではなく、対話を通して問題を解決することは出来ないだろうか。対話がもたらす豊かさについて学び合いたいと思います。
テーマの理解:
今回の発題は出来るだけ網掛けの部分に注目しながら、年間テーマの文脈で考えたいですね。そうなると、 「対話の相手」 は “新自由主義者” と言うことになりますね。 「対話の目的」 は“格差社会を正し人間的に生きられる社会にすること”となります。一方、 「われわれの立場」 は無論 “カトリック教会の立場” です。
このような対話を進めるためには、 「対話のための準備」 として、下記の事項の下調べが必要ではないでしょうか ?
@ 格差の現状理解
A 新自由主義者の政策と格差の関係
B 政策の代案は
C カトリック教会は経済社会をどう見ているのか
D われわれは教会の考え方をどう見る
E あれわれは、具体的提案ができるか?
F カトリックの考え方は譲歩・妥協の余地はあるか?どこにあるか?なければ、どのように対話は成立するのか?・・・??
それらの応えることを通して「対話者間に共通項」(問題意識の共有・情報・資料の共有・・)は生まれるのではないでしょうか?もしもこの課程を省略すれば、「学び合いの会」自体の対話が「このテーマに関して」は成立しないのではないかと思うのです。
次に進む前に、今日のテーマの「対話の限界」と「寛容な心」について、簡単に、まとめておきます。
「対話の限界」は論理的に詰めるのは非常にむずかしい、対話を実践する経験のなかで分かってくるのではないかと考えています。「格差の問題」についても、市場原理主義者の多くはか「格差」は問題ではないという。セーフテイーネットが問題なのだという。
「寛容な心」は教会の主張や、われわれの考え方が、現代の格差問題に対し、どこが相対的で妥協の余地があるのか、どこは絶対に譲れないのか明確でないと考えにくい。したがって、一旦、前に進みますが、多分再度、この出発点にもどる必要があると思われます。
ちなみに、 10 月のテーマは「人間を信頼する対話(良心への信頼)」
12 月は「現代社会に対する対話(福音に生きる)となっています。
10 月は特に難しいと感じています。「これから」のところは 12 月のテーマと考えていただいてもけっこうですが、・・・それでは前に進みます:
発題の構成:(話の順序)
1 「はじめに」テーマを読みながら感じる諸々の疑問について
2 現代の「対話」の諸相(哲学的理解はひとまず置いて):
1) 「問題解決手法」としての「対話」と結論の危険性
2) IT 時代の「対話」―(例) facebook と教皇若者
3) “対話の積極的回避”を選択する人々との対話
(積極的に「個人の自由として選択する人の増加、地域社会の問題・・・)
3 これからの課題 12 月のテーマ(「対話参加者の共通認識=共通項の形成」調査分析の必要性):
1) 日本の現代社会の格差の現状はどうなっている?
2) (新)自由主議は格差の原因か、どうして?
@ 20 世紀の経済学の流れからみた「新自由主義」
A 新自由主義の考え方
3) いかなる経済思想を教会は肯定的にみているのか
(特に重要!)
@ カトリック教会の経済問題に関する基本的考え方。
A カトリック教会が肯定的に認める経済学派
4.これからどうなる?
1 「はじめに」テーマを読みながら感じる 諸々の疑問 について
2 現代の「対話」の諸相 (哲学的理解はひとまず置いて):
1) 「問題解決手法」 としての「対話」と結論の危険性
2) IT 時代の「対話」 ―(例) facebook と教皇若者
3) “対話の積極的回避”を選択する人々との対話
(積極的に「個人の自由として選択する人の増加、地域社会の問題・・・)
3 これからの課題 12 月のテーマ (「対話参加者の共通認識=共通項の形成」 調査分析の必要性) :
1) 日本の現代社会の 格差の現状 はどうなっている?
2) (新)自由主議は格差の原因か 、どうして?
@ 20 世紀の経済学の流れからみた「新自由主義」
A 新自由主義の考え方
3) いかなる経済思想を 教会 は肯定的にみているのか 特に重要!)
@ カトリック教会の経済問題に関する基本的考え方。
A カトリック教会が肯定的に認める経済学派
4.これからどうなる?
合理的利他主義( J. アタリ超民主主義)、はどうか?
はじめに
このテーマそのものが内容豊かであり、深く掘り下げれば、際限もない哲学の話になりがちである。迷路に入り込めばますます、難しくなる。僕のはまった 迷宮へ少し だけご案内いたします.(斜体で書いたところはチョットした説明のキーワードです)
1) 「対話」は「寛容な心」がなければ出来ないのか?
(対話は多様、寛容は日本語では「ひろい心」、西欧言語 (tolerantia 英 toleration) では「忍耐」の意味が強い、理解に微妙な違い)
2) カトリック教会は「寛容は邪教的であると断罪している」 (ピオ 9 世誤謬表)これをどう考えるのか? ([寛容]の理解の仕方によっては、ピオ 9 世の評価も違ってくるかも知れない? )
3) カトリック教会は「対話」に積極的ではないのではないか ? なぜなのか?
アリストテレス的対話、 相互に変化 が起きる、それを危険視、ガダマー、対話者の双方の 地平が融合 、教会は融合するつもりはない、新しい創造は望まない、)
4) 「対話」は相対的価値の違いの中だけで成立するのかも知れない ? いや、むしろ、絶対的価値に立っているからこそ、「対話」が必要なのではないか?
(相対的価値とは比較できる価値、優劣が判断可能な価値、絶対的価値は?絶対的価値は語りえないヴィトゲンシュタイン)
5) 絶対的価値の間の「対話」の場合、対話を対話として成立させる「共通項」は何か?
6) なぜ対話が必要なのか?対話したくない人はしなくてもよいのではないか?対話がないとどこに問題がおきるのか?
( 対話が必要なのは「社会的連帯」が人間生存に不可欠だからではないか?個人化の進行は、さまざまな社会的紐帯を断ち切る、生き方の自由の選択として費対話の選択が増えているようだ。2の3)参照)
さて、そこで、今年の年間テーマを読み直す必要があります。「・・格差社会を生んだ(新)自由主義経済は人間の生き方を阻害している。信徒は現代社会の現状をどう見るか。信徒は人々との 対 話を通じて現状問題を解決ができるだろうか?」。そうなると、今年のテーマの「対話」は 「問題解決の」方法としての「対話」 の可能性と限界について考えること、と理解することができると思うのです。「対話」にはいろいろあるますね。哲学的にもアリストテレス的、ソクラテス的・・・実践社会でもさまざまな「対話技法」が工夫されていますね。皆さんはどのような「対話」を、今回、具体的にお考えですか?
2 現代の「対話」の諸相: (哲学的理解はひとまず置いて)
1) 現代社会では長年にわたり 「対話」を「問題解決技法」のひとつとして開発 してきている。その分野は、経営学、心理学、精神医学、政治活動の現場(合意形成)・・・等々と広がっています。多くの知見が発表され実践されています。
「問題解決のための対話」と考えるとき、「対話」を「平等・対等の関係」や、「生の深みの次元に身を置いて、初めて発見される」「他者への愛の一つの形」「両者の言葉が収斂していく過程にこそ真理が現れる」「自分の殻を破る」「愛によって他者を信頼し」「平等という条件を前提とし」「不一致も許容し」「自分と同じ考えでない人をも愛する」・・・ といった視点からだけで見てよいのか 、という疑問が起きます。無論それらを否定しているわけではないのですが?
ドロドロした社会にどっぷりつかって足掻きながら生きている人にとっては、それだけでは、チョットこまるのです。現実の人間の社会関係では対等な関係は殆どない。 上下関係にある者の間での「対話」こそ、重要ではないか?そのときの「対話」のあり方こそが議論されるべきではないのか?確かに、そのときの「平等・対等な関係」はなにを意味するのかと言う問いも含まれるでしょう・・・・ ともかく、「問題解決技法」のひとつとしての「対話」で、今回のテーマを再整理してみます。
問題解決技法はたくさんあります。「対話」との関係では、カウンセリングのような医療に関連したものになるでしょう。其の一つに 「対話コンポーネンツ Dialogic Components 」 があります。それを参考にします。
(中岡成文 臨床哲学・倫理学・大阪大学コミュニケーションデザイン・センター (CSCD )初代センター長、ヘーゲル弁証法、解釈学、ハーバーマス、システム論、フランス現代思想などの西洋思想、京都学派の哲学等 )
先ず、 「問題とはなにか」 を今回のテーマにしたがって、整理します:
問題とはこの場合,[解決を要する関心事]です。今年のテーマで言えば “ 異常な格差社会を生んだ(新)自由主義経済は真の人間の生き方を阻害している ” となります。
問題とは、また、 「期待と現状とのギャップ」 であるといわれます。われわれの "期待" とは "社会の福音化 "ですね。テーマとしてですが。
「問題解決とは」 、 "期待と現状のギャップをなくし期待を実現すること "
定義されます。そうであれば、現状と期待のギャップはどれほどか分からないと解決策は検討できませんね。従ってそれに関する 「現状に関する調査と分析が」 必要だということになります。
そこで 「対話のコンポーネンツ」 の要点を説明します。
"問題解決をもとめて当事者や研究者が、 情報収集とそれにもとづく「対話」 し議論を経由して、一定の考えに到達する手法のこと "。対話の構成は(コンポーネンツと言う言葉で表現)、ひとつの事前準備と3つのステップの組み合わせからなっている。
今回ここで注目したいのは "事前準備= テーマについて関連事項を調べる ” と "ステップ1= 調べた情報に基づく自由闊達な話し合い "と言う点です。 3,4については重要ですが今回は省略します。
第 1 ステップ:
「テーマに関し事前に調査し問題点を知る」
第 2 ステップ:
「調べた情報に関して、ブレインストーミング形式で話し合って、テーマに関する論点整理しテーマを展開させる」
(第 3 ステプ:「テーマから一旦距離を置き、普遍的な「問い」について話し合う」。より一般化された問いについて「ソクラテス的対話」を実施する。第4ステップ:「再びテーマへ還り議論」一定の解決を目指した結論を得ることを目指すことです。最終的には「問題解決には何をどのようにすべきなのか、など具体的に話し合わなくてはならない。」3・4の過程を省略すると結論が極端になることがあり、全体としてみたとき誤った方向に向かう 危険がある と考えられます。 サッチャー医療費改革は其の例だとおもいます 。 (現代思想 5 月号)
多分 3,4 、のステップで再度哲学的考察がもとめられているのかもしれません。
注: 「現代思想 5 月号」 「ケインズ=べヴァレッジの時代を振り返って」(宇沢弘文) 194 2年 "ベヴァレッジ報告 "(社会保障および関連サービス)を発表し社会保障の制度化が、大蔵省の執拗な抵抗のなかにも一般大衆の圧倒的支持のなかで成立した。 1948 年 NHS national health service 無料医療制度が開始された。サッチャーが新自由主義政策でぶち壊すまで続いた。
エントホーヘン(アメリカの経済学者)は市場原理主義的発想でイギリスの医療制度改革を指導、患者一人当たりの死に至るまでの医療費を最小限にすることで抑制を図り 60 歳以上の腎疾患老人には人工透析を禁止した。 イギリス医療の崩壊が始まり医師不足で入院待機待ち患者が 130 万に達する異常事態がうまれた。多くの医師が海外へ流失。ベヴァレツジが社会保障制度を確立したのである。
エントホーヘンは、マクナマラの右腕として活躍した経済学者。ベトナム戦争中に戦争に市場原理を導入して、 kill-Ratio と言うヴェトコン一人を殺す戦費計算指標で、それを最小にすることを戦争政策の目標に掲げ、その残虐性、非倫理性に世界中から非難が起こり、マクナマラは国防長官を辞任した。
2) IT 時代の「対話」の問題 (説明は省略)
インターネット時代の新しい対話の場 、教皇庁と若者チョット
先日、「学び合いの会」のなかまからメールが入り知ったのですが、教皇庁は 最近 Facebook という。インターネット上で特定の仲間同士(登録、相手の同意、イベント企画し現実に仲間がパーティーを開くこともあるようです)で意見交換や情報のやり取りをするネット社会( SNS = social networking service) を通じて、バーチャルな新世界に生きる若者へ語り掛けを始めた。 Facebook は 2004 年ハーバードの学生が学内で、実名で交信しあう場として創業したものです。 2006 年には広く一般に解放あれ急成長しました。現在は利用者 1 億人を超え、時価総額 1.7 兆円と評価されています。このようにバーチャルの世界は急拡大してきています。
この教皇庁の姿勢に対して、新しい通信技術を利用して「イエズスの深遠なメッセージ」が本当に伝えられるのか、と言う疑問が投げかけられ、急速に進む通信技術に支えられた社会へのかかわりにも慎重さを求める意見もある。
3) 積極的に「個人の自由として、 "対話の積極的回避 "を選択する人々」の増加・・・ (二番目の発題のため説明は省略)
彼らとの「対話」はありえるのか ?彼らの自己責任で済ませられる問題なのか?よく見ようとしないと見えないが 地域社会でも大問題 なのです。独居の増加、災害時救助困難、 孤独死 、緊急救助、 居場所が分からない・・救助不能 ・・・最大の問題は彼らがどこにいるのか分からないということなのです。
関係を意図的に遮断して生きる人々、 あらゆる層に居る・・村山春樹の世界・・ 孤独を維持し、あらゆる対象から距離を置く 、そこには「個人的自由と社会的連帯」の問題がある。 対話が必要なのは「社会的連帯」が人間生存に不可欠だからではないか?個人化の進行は、さまざまな社会的紐帯を断ち切る 。生活の中には独力では対処困難なさまざまな問題があり、社会的不安が生じている。自由と連帯のジレンマが起きている。 徹底した受動性によって私的世界にとどまる。 一種の防衛メカニズムである。あらゆる喪失をうけながす。 この無関心は一種の「価値ある生き方」として選択されている 。
3 これからの課題 (「対話参加者の共通認識=共通項」の形成、調査分析について):
以下に述べる事柄は 12 月のテーマに直接関連してくると思われますが、今日のテーマでもそれを全く考えないわけにはいかないでしょう。今日のところは、触りだけと言うことになります。
1) 日本の現代社会の格差の現状はどうなっている?
さまざまな側面から報道もされているので特に、調べる必要もないようにもおもわれますが、自分のまわりで現実に起きている出来事として、話し合えれば、手始めとしては、よいのではないかと思います。一案としては真生会館の VITAL の記事をベースに何かまとめるのも話し合いのための共通認識が作れると思うのですが。 これだけで一つの大きなテーマにもなると考えています。今日の発題を考えているとき、ここから入ることも考えましたが、年間テーマからみて、難かしいいので中断しました。
2)(新)自由主義は格差の原因か、どうして?
20 世紀の経済学の流れから見た「新自由主義」:
「自由主義」 20世紀初頭に大恐慌を機に 「古典派自由主義」 (国が特徴的な分野を育てれば、お金は自然と流れると考える)の考え方を改め、豊かな生活をしている人から、貧しい生活をしている人たちにお金を分配する政策に変更。 「社会保障」 という言葉が初めて使われたのも 1935 年です。失業した人へ 「失業保険」 、高齢者に 「老齢年金」 などの考え方。つまり、 国の介入により国民を守る政策 。国が介入することで、お金を貧困層にまで流す「福祉国家」を目指しています。しかし、予算の歳出が膨大になり、アメリカの財政を圧迫 1970 年代に「オイルショック」機に方向転換が起きます。
「新自由主義」
レーガン・サッチャーが行った改革が始まり。 1980 年代から緩やかに「新自由主義」へ転換していく。「公共事業費を減らして歳出をカット」・「 社会保障費を減らし歳出をカット 」・「 民間でできる事は民間に 」「 小さな政府 」を目指している。「 規制緩和 」を積極的に導入させます。アメリカが主導となり、世界各国に導入を図る。新自由主義を導入した国は、 「ワーキングプア」 や 「ネットカフェ難民」 など同じように貧富の差が生まれ、格差が激しくなる.
供給側の立場である民間企業の活性化をはかり、積極的に規制緩和を行い企業同士の 競争があおられる 。 富裕層に有利な減税 を行い、労働意欲をかきたてる。 所得税や法人税の減税 で、 消費者が豊かに なり、物をたくさん購入するに違いない。「 企業の利益が増すことで法人税が増える だろう」と考えた。
レーガンは物価の上昇を抑えるために金融政策を打ち出します。「金利を引き上げることで、市場に出回っているお金を減らす。その結果、世界のお金がアメリカに集まり、ドル高になった。
日本では 中曽根康弘 が電電公社をNTTに、日本専売公社をJTに、国鉄をJRに、など、小さな政府を目指した。 2001 年には 小泉純一郎 が、積極的な 規制緩和(構造改革) を行った。
経済を市場に委ねる「新自由主義」の政策は、後に格差社会を生み出す結果になった。企業は、正社員から派遣社員に切り替えへ、人件費の安い派遣社員を採用する事で、利益を増やした。金融の分野では、金利の自由化、競争社会へと変化、相次ぐ金融機関の破綻へと発展。
悪者はヘッジファンドか 、市場原理主義者か、それとも、他にもいるのか。 貪欲な年金基金 の高利回り追求や、有名大学の巨額損失などをみると、だれが本当の犯人か判断は難しい。投機に熱狂する市民達、また蠢動を始めているのを感じるのだが?リスクを説明してもハイリスク・ハイリターンをあくまで求め、大口顧客はみな貪欲であったとヘッジファンドのトップ経営者は話している。・・・またいつか来た道へ・・・?
( 以上が簡単に眺めた表面的な経済の流れですが、その底には政治的思惑や経済理論・思想としての「新自由主義」がありますが省略します。 ポールクルッグマンの「格差はつくられた」 を読むと参考になります。解決策を検討するなら 「世界大不況からの脱出」(同) も参考になるかもしれません。自民党の与謝野氏もバラマキ 14 兆円の理論?的背景としてこの本をあげています。)
3) 教会はいかなる経済思想を肯定的にみているのか、
(新)自由主義経済に代わる考えはあるのか?
@ カトリック教会の経済問題にかんする基本的考え方
労働者の境遇〜新しい課題の要点を調べる必要があると思います。回勅の表題を見ただけでも何について書いているかわかりますね。また、新しい課題にこの 100 年間の教会の主張がまとめられていると思います。神学部では一年かけて学ぶとのことですから、数行で説明がつくわけは無いのですが。それでもあえて整理すれば・・・。
「レールム・ノヴァルム」( 労働者の境遇 ) 1891 年、 レオ 13 世は工業社会の非人間的な状況に非難の声をあげた。公正な社会の実現の諸原則を示し、人間的な経済・社会秩序の大憲章マグナカルタとして知られる。 1931 年ピオ 11 世は RN40 周年に「クアドラゼジモ・アンノ」 ( 社会秩序の再建 ) を深刻な世界経済恐慌のなかに発表。資本主議の野放しの競争を断罪、また共産主義をも断罪。私有財産制の社会的責任、労働者の就業の権利、適正賃金を得る権利、団結の権利を強調。その後 30 周年1961年にヨハネ 23 世は「マーテル・エト・マジストラ」 ( キリスト教の教えに照らしてみた社会問題の発展 ) と 1963 年「パチェム・イン・テリス」 (地上の平和) を発表し、豊かな国と貧しい国の格差問題と平和への危機を指摘。また、法的権利だけではなく、経済的権利も強調。 (回勅の名前を見ただけでも何をもんだいにしているかわかる。)
「 新しい課題」 (センテンシムス・アムス) 1991 年 RN100 周年ヨハネ・パウロ2世は発表。
* 貧しいもの富めるものの逆転では解決にならない。
* 社会主義の根本的誤りは人間学的誤り である。個人を社会と言う有機体の単なる要素にしてしまう。人間は一連の社会関係に還元されてしまう。
* キリスト者はしばしば誠実に、決然と一つの立場をとらなくてはならない。
* 労働者の尊厳を快復する 正しい道は社会・国家が 労働者を失業の悪夢から守る責任 を負わなくてはならない。 失業保険 と 再訓練プログラムの実施 、労働者と其の家庭に 一定の貯蓄と生計を維持する賃金水準を保証する 。恥ずべき搾取を防止、注意深い 監視と適切な立法手段 が必要である。 人道的な労働時間 と 適切な休憩時間 の保証。いかなる場合にも 失業中の労働者に必要最低限の支援を保証 すること。
* これらの考え方は 19 世紀から 20 世紀の時代の大きな影響をあたえた 。 社会保障、年金、健康保険、労働災害保証に導入された。
( 網掛けした部分がカトリックの考えだといえるだろう。最近のカトリック新聞に新たな社会回勅の解説書が出版されるという記事があった。)
カトリック教会が肯定的に認める経済学派の考え方
「 制度主義 institutional economics と 社会的共通資本 」
(ソースティン・ヴェブレン@ 1857-1929 アメリカの経済学者) (宇沢弘文 1928 年 ― 数学者・世界的経済学者、米国中心に活躍、「新しい課題」検討のために教皇からバチカンに招かれ意見を求められ「制度学派」経済学の立場を説明。回勅作成部外者が参与した初めてのケース、を参考にした。)
ヨハネ・パウロ二世は 「新しい課題」 で “ 理想的な経済体制はどのような特徴づけされるべきか ” という問題提起をされた 。其の最も適切な回答は制度主義の考え方である。人類が直面している重要問題は 資本主義とか社会主義という経済学のこれまでの考え方では解決できない 。社会的共通資本を中心にして、人間的尊厳を守り、魂の自立をはかり、市民的自由を最大限に確保できるような安定的な社会を創るために、人々の協力と強調を求めている。制度主義の考え方が 21 世紀の苦難を生きるために中心的な指導原理の役割を果たすことは間違いない。(宇沢)
社会的共通資本 社会全体の共通の資産として社会的に管理・運営されるもの。( 土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋道路、上下水道、公的な交通機関、電力、通信施設等教育、医療、金融、司法、行政など。) 「管理・運営」 は、それぞれの分野の 職業的専門家によって 、専門的知見にもとづき、職業規律に従っておこなわれる。 「受託・信託の原則」( fiduciary ) に基づいて信託される 。専門的知見に基づき、職業的規律に従って行動し、市民に対して直接的に管理責任を負う 「政府の経済的機能と役割」 は、管理・運営が「受託・信託原則」にしたがって忠実に行われているかどうか 監理し 、社会的共通資本の間で 財政的バランスを保つ ことが出来るようにすることである。最近の宇沢氏の講演会などでは、 社会的共通資本は民営化、私的財産にしてはならない といっています。社会的共通資本の維持管理にヒントをあたえてくれるのは日本では「入会地」、西欧では「コモンズ」だと考えられています。ただ現代日本にどのようにこの種の地域社会の人間関係が導入できるのか私にはわかりません。私有権問題とも深く絡み合っています。そんなことよりも、われわれの現状はハゲ山か砂漠をイメージした方が近いのかも知れません。ひとたびハゲ山になってしまうと、一本一本木を植えていかなくては、森林はもどりませんね。百年も二百年もあるいは数千年かかかるかも知れませんが、いまから一本の木を植え始めることからはじめるしかないかも知れないと感じたりしています。人工物を建築するのと大いに違いがあるのではないでしょうか。
ともかく、教会の考え主張は、これからもう少し整理するとしても、現代を生きる生活者として、教会の考え方をわれわれがどのように考えるか話し合う必要があります。そこからさまざまな新の課題が見え始めるでしょう。
また、現代社会で今どのような道が提案されているのかと言う問題が最後にあります。其のヒントになりそうなキーワードだけあげておきます「合理的利他主義」「社会的企業」でしょうか?
社会問題・政治問題というものはどこかで結論が出せるというものではないと思います。絶え間なく考え続け、話し合いを続けるしか方法はないのではないでしょうか ? その一連の流れの中で、現実の政治・経済判断は決断をせまられます。決断は不明確を残した中でせざると得ないのです。ですから、人類が営々と築きあげた宝を一瞬のうちに破壊してしまうエゴが忍び込む余地がたくさんあります。市民国民がその継続的話し合いをいとうとき、政治は危険にさらされるのではないでしょうか。全体主義も社会主義も “ 寄り合い的忍耐 ” と “ 一人のリーダーに依存して楽をするところからおきるのかも知れませんね。
「 「超民主主義」=「 合理的利他主義」 に関しては “21 世紀の歴史 ” (アタリ)または NHK 特集「 J アタリインタビュー」を参照。賛否は別にして、人類を救う具体的提案がされている。其のキーワードが “ 合理的利他主義 ” です( 社会的企業家とつながります) 。マザーテレサもビルゲイツも、其の視点からは、同じであるという・・・・
以 上
最後に、
この発題の内容の多くは「学び合いの会」のメンバーの方々との日ごろのメール交換のなかで得たヒントから思いついた発想がたくさんあります。自分の責任で書いてはいますが、事実はそういうことです。そのような意味でこの発題は「学び合いの会」があって考え付いたといえると思います。分かりにくいままになっていることや、誤りがあればすべて僕の責任ですが、ヒントやひらめきを与えてくださった仲間に感謝しています。
<発題 2 > 「寛容な心と対話の限界」
私たちは家族に対して日常生活の中で広い心で接することができているでしょうか。
親や配偶者や子ども、兄弟姉妹に対して何の期待もしないでいられるでしょうか。
私たちは何かしらの形で心配したり愛しているということを、伝えたいわかってもらいたいという欲求を持っています。
一般的によく言われるせりふ、お母さんがこんなに心配しているのにとか、親だから言うんだぞとか。子どもの方はわかってるよと言い、親は自分が安心したいだけじゃないのと叫びます。
私がこれからお話するエピソードは本当の寛容な心とは何か、よく話し合えば必ずわかりあえるんだとか通じるんだということへの疑問です。
いろいろな場面が思い浮かびます。たとえば職場でのパワーハラスメント。
電車の中での迷惑行為。いくら優しく言い聞かせても理解しない人というのがどの社会にも必ずいるものです。それはある部分、異なった価値観にいるからです。もし同じことを自分の家族が受けたとしたらどうなのかと聞けば自分のこととして考え直してくれるのでしょうか。
現代社会の構造、これは家庭という最小単位から変わってきています。「個」が尊重されるあまり、他人に対するかかわりが薄れてきました。この変化にはいい面も悪い面もありますが、社会というものはいったん変化が現れるとそれを回復させるまでに相当な時間がかかります。
さて、「老人」「高齢者」と呼ばれる人々。彼らとの対話は非常に難しいというのが私の印象です。そして誰もが通る道であり私自身も間近に迫ってきていることを感じています。なぜなら自分より若い人に対して、そんなこと決まっているじゃないとか、人の話を最後まで聞かないでさえぎってでも自分が正しいと思うことで相手を言いくるめようとしたり、自分が言い負かされそうになると相手に、あなたはまだ若いから経験がないでしょうけれどまがいなことを口にしたり心の中で思ったりします。
これでは若い人たちに自分から線を引くようなものです。
それでは私は高齢者に対してはどんな態度をとっているのでしょうか。
家の中に閉じこもりがちの方に対しては「今日はお天気がいいですよ。散歩にでも行きましょう」「部屋に新鮮な空気を入れるために雨戸を開けましょうか」などといいます。このこと自体、まちがっていないはずです。でも高齢者の反応はこちらが期待するものではありません。「ほっといてくれ」「雨戸なんか開けたら無用心なのがわからないのか」です。「人と話をしないでいると脳が使われなくてぼんやりしてしまうからデイケアにいってみなさんと一緒におしゃべりでもしましょう」と声をかけます。するとお年よりは「知らない人と話をするなんていやだ。気疲れしてしまう」といいます。これは女性より男性に多いですね。でも私も知らない人と話をするのは苦手ですから無理強いはできません。ではどうしたら老化や孤独によって心を閉ざす人と対話していったらよいのでしょうか。「迷惑なんだよ、ほっといってくれ」あるいは「命令するな」といわれるのを承知で連れ出すべきなのでしょうか。こんなことをいわれたら、言葉かけをしたほうが傷ついてしまいます。個人の意思を尊重するということは放っておくこと、関わらないことなのでしょうか。最近一人暮らしの若者の暮らしぶりを見ていても、同じことを感じます。派遣切りなどの影響でしょうか。昼間に電気がついていたり音楽が聞こえるうちが増えてきました。彼らにものをいう気にはなれません。おせっかいにあるからです。しかし老人の場合は安全にも関わるので放ってはおけません。町内会に役員の方や民氏委員が訪ねていってもドアも開かないことが多いのが現実です。
意見の異なる人との対話、これは国際関係でも同じですね。協調とは自分が正しいと信じる信条のもとに相手の信条をも尊重しつつ話を進めていくことということでしょうか。これはかなり困難なことらしく国際問題でも経済制裁までも視野に入れた圧迫が始まっています。高齢者との対話のも言うことを聞かなければ制裁を加えるぞという部分があります。自分は不潔と感じない、だらしない服装だとも感じない、人からどう思われたってかまやしないなどなど、こういった高齢者は自分は人に迷惑をかけているわけじゃないんだからほっといてくれといいます。なんだか今風の若者のようなことばですね。あと何年もあるわけじゃないのだから好きにさせたらよいという考え、人間として最後まで尊厳のある暮らしをする手助けをすべきだという意見。
人とのかかわりを嫌うのは高齢者の場合男性のほうが多いようです。ボランティアの方々が用意してくださる昼食会などにも参加を嫌がるのは圧倒的に男性です。
べたべたとかまわれるのがいやだそうです。
ここには対話がなりたちません。またちょっとでも生活面についてアドバイスをすると命令されているような気がするらしく怒ってしまいます。それも言い方がきつくかえって相手をやりこめたり傷つけます。それが直接の親子関係だと介護疲れとなり悲劇を招いてしまいます。家庭内のことは誰かに相談して解決するものではないと思いがちなことも起因しているでしょう。この苦しみの中対話を続けることは苦痛に近く、投げやりな態度を引き起こします。
認知症という病気なのだからしかたないといってもまだらボケの時期、介護者は希望のない呼びかけを繰り返さなければなりません。無意識のうちにも大きな影響を与えている親。問題行動に走ったときに限って自分はまだ大丈夫といった表情を作ります。その気丈さが高齢者を支えているのでしょう。
対等であるべきなのにだますようにして保護したり、嫌がっているのに人と関わらせようとすること、これが相手を尊重することになるのでしょうか。自然災害が多い今日、日常の状態を知るため私たちは近隣の高齢者と対話しなければなりません。
対話を嫌がるひとと対話する、これには本当に忍耐と信念が必要です。
どんなことばも受け入れる寛容さを持ち続けることが私たちにはできるのでしょうか。
<第 2 回例会へのコメント> J. マシア
T olerance という言葉 について
・ 日本的「寛容」は場合によってな次の意味で受け止められる。 T olerate =「しかたがないから赦す」。それは、義も無く、立場も無く、関心も無い態度とつながる。
・ 本当の tolerance のある社会(癒やし、つながり、対話)なら、社会の失われている「つながり」を結び合わせ、傷を癒やすようにつよめたい。真の寛容は 違いを認め、距離を認めたうえでのつながりと一致を促進するものである。
トレランスの歴史について。
イギリスの哲学者ロック( John Locke )が著した『トレランスに関する手紙』(一六八九)はよく知られているが、一七世紀のヨーロッパでトレランスを錦の御旗にした宗教的な不寛容( intolerance )に対する抗議が高まっていた時代に書かれたものであった。
百年後、この問題を取り上げた『百科事典』の項目を書いたのはヴォールテール( Voltaire )であった。彼は「熱狂」や「狂信」(ファナティズム、仏語で fanatisme 、英語で fanaticism )という言葉を盛んに用いた。その語源はラテン語のファヌム( fanum 神殿)である。偏狭な精神で神殿の中に閉じこもり、外界に対する不安を排他性に置き換えるところに暴力の宗教的な根を見た彼は、啓蒙の時代における理性と自由によって人類を狂信から救わなければならないと力説した。
しかし、皮肉なことに、理性と啓蒙の名によっても熱狂的な虐殺が行われてしまうことは、フランス革命の歴史が証明しているとおりである。
一七九三年の五月にリヨン( Lyon )の町で、ジロンド派( girondins 、フランス革命当時ジャコバン主義者に対抗した穏健共和派)がジャコバン( jacobins )に対して勝利を得たとき、「熱狂と不寛容の避難所」であるということを理由に、その町の全面破壊が決定された。このように不寛容との闘いの名によってさらなる不寛容が展開されたのである。
最近テロとの闘いを口述にする報復によって、暴力の連鎖が広がるのと似ているのではなかろうか。
聖書とトレランスについて。
旧約聖書の中では、非常に排他的な信仰の持ち方もあれば、それを批判する預言者の見方もある。また、逆に慈悲の伝統をつちかった東洋の宗教の中でも争いや破門がなかったとは言えない。多神教であろうと、一神教であろうと、宗教は偏狭な愛国心と混合したり、政治的に利用されたりすることによって、多くの人間を支配する人間の欲望の道具になったとき、暴力を生み出すのである。
宗教と暴力(トレランスの欠如)について。
宗教的な確信は根強いものであり、人々の人生の意義と深く結びついている以上、当然自分の信念にかかわる問題であれば、決して譲りたくないという態度を取りやすい。そして、いつのまにか自分以外の信念を持つ者を受け入れることを、難しくしてしまうことにもなりかねない。
教会の歴史をふりかえって。
教会は、キリスト教に対する迫害が終わり、コンスタンティヌス皇帝から認められるようになって以来、ローマ帝国の強い影響を受けた結果、三つの大きな傷を引きずっていくことになった。それは、1)教義的な独断主義、2)法律的な官僚主義と、3)形式的な道徳主義の三つである。
二十世紀の第二バチカン公会議において、やっとこうした弱点が克服され、イエスの福音に基づいた信教の自由、諸宗教の対話、現代世界との積極的な関わり、女性の参加、諸文化の出会いなどが大切にされるようになったのである。
信仰に基づいた寛容。
深い宗教体験がある場合、人々は自分の立場を絶対化しないはずである。
「私は神様ではない」という自覚があるのであるが、自分が真理のうちに身をおいているという体験はあっても、自分が真理を独占する者ではないというのは信仰者の謙虚な実感であろう。したがって、真理の絶対性というものは表現の多様性と当然併存しうるものである。
<以 上>