2008年度 第2回「学び合いの会」例会記録
2008年6月21日(土) 13:30-16:00 真生会館
参加者: 24名
年間テーマ: 「社会にひびく福音」
本日のテーマ: 「競争社会と福音」
◇◇◇
<発 題>
(1) 「社会にひびく福音」の 第二回のテーマ「競争社会と福音」について、どう発題をするか、祈ってきました。
この会の「発題」は、既に人生のベテランである参加者に、「テーマ」に対して、わたしたちが皆で話し合い、考える、何かの「手がかり」を、提供できればよい、と考えます。 この意味では、教皇の最近の言葉に 「神のご計画と今の時代の状況下における教会のミッションの観点から、「新しい現実」をどうすれば適切に包み込んでいくことが出来るか・・・それぞれの(活動の)特性が十分に尊重されて、最大限に、また自由に、キリストの唯一の体の建設に貢献できるようになるためには、教会の全ての構成要素との より成熟した一致が促進されなければならない・・・」という表現があり、これが今日のテーマで話合いの一つの手がかりと思っています。しかし、テーマの中のキー・ワードに従って5つの質問を用意し、「発題」に代えさせて頂きます。
* わたしたちにとって「社会」とは 身近なところでは、何を意味し、どのようなイメージをお持ちでしょうか?
「社会」という日本語は、明治10年ころに福沢諭吉がSocietyという言葉を「社会」と訳したと言われます。日本人にとっては、この言葉は、外来語で、「世間」を意味する、という処でしょうか? 社会という用語を吟味する必要を感じませんか?
* 「福音」とは、わたしたちの生活の中で具体的に何を意味しているでしょうか?福音との関わりで 「自分のミッション」を どのように考えていますか?
「福音」とは、「ギリシャ語」のエウ・アンゲリオン(よい知らせ)という意味だそうです。 この「学び合いの会」でニコラス師が「福音は聖書の中だけではなく、生活の中に、身近な映画の中にも見つかる」という自由な発想を教えてくださいました。当時は「ハリー・ポッター」が流行り始めていました。福音を見出す自分の目が大切ということでしょうか?
*この10年の間の「社会的変化」の中で、一番大きい変化と感じるものとは、何でしょうか?
現代社会では「社会的変化」が加速度的となり、情報技術を含む科学・技術の進展と共に、価値観の相対化・多様化や少子化・高齢化などが、社会変化の一つとして指摘されています。 この急速な変化の中での福音的人間理解があると思われますが・・・。
* 「競争」という言葉を あなたはどのように受止めていますか? 身近な問題として何を意味するでしょうか?
「競争」という言葉も外来語で、competitionの訳語と伝えられます。「競争」は、二者以上の間の対抗関係といわれ、「弱肉強食」や「過当競争」が指摘される反面、「協調的競争」の面もあります。「市場を通じた競争は、人為的統制より優れる」、「競争は人を育てる」などともいわれます。
わたし自身は元サラリーマンでその生活は競争の中にいました。勝つときはよいが、負けるとひどい目に遭います。祈っても自力では窮地から脱出できずノイローゼにもなりましたが、その灰色の境地の中で平和と喜びにいたる「救い」に出会いました。言葉ではあまりうまく説明できない体験ですが、これがわたしの信仰を支えています。
* 「競争社会」で生きる中で、出会う出来事を 自分の信仰生活の中で どのように理解し、対処しますか?
イエス・キリストは、弱い者のために来られました。競争社会を当然のことと受止めずに、福音の視点からいつも見直すことが求められていないでしょうか?
教皇の最近の言葉に (第二ヴァチカン公会議以後の「新しい動き」にふれて) 「神のご計画と今の時代の状況下における教会のミッションの観点から、新しい現実をどうすれば適切に包み込んでいくことが出来るか・・・それぞれの 特性が十分に尊重されて、最大限に、また自由に、キリストの唯一の体の建設に貢献できるようになるためには、教会の全ての構成要素との より成熟した一致 が促進されなければならない・・・」という表現があります。これについて考えてみてはいかがかと思います。 以上をもってわたしの「発題」に代えます。
(2) 社会と福音
現代社会と私たち: どんな社会に生きているのか
競争社会:
いのちが大切にされていないと感じさせられている社会
存在が大切にされていないと感じさせられている社会
人としての尊厳が大切にされていないと感じる社会
ある一部の能力のみを「基準」にして、人の価値を計る社会
マニュアルを作り、それに従えるかどうかで判断していく社会
自己目標・課題を設定させ、それに対する自己評価をさせていく社会
≪成果主義≫
裁いていく社会 ひとを
自分を
声を聞かない 心の声を聴かない 隣にいる人の声も自分の声も
マニュアルの在り方と自己目標の評価のあり方を問うことなしに、裁き、
切り捨てていく社会
切り捨て ? 存在の否定 ひとの存在の否定
自分の存在の否定
? 組織からの離脱を促す;居場所がないと感じさせていく
? うつ 自死
? その他の精神症状 ?なんらかの攻撃的行為
様々な事件の背景
? 組織・集団が、時に自己保持のために作ったマニュアル・
掟が、はみだしたものを、切っていく、否定していくこともある。
この時、良心の声に聴き従ったものは、切り捨てられていく
それは、悪の連帯の輪を一層強固にしていくものになることもある
ほんとうの事を言うと、居場所がなくなる
日本人の精神性:集団の中で自分の意見が言えない
信仰者の自由とは何か
競争社会でない社会の実現をめざすことが、福音化?
競争社会と戦うことが、福音化?
社会とは何か?
家族社会、学校社会、地域社会、産業社会、企業組織、行政組織、、、国家、
国家連合、そして、、、教会社会
人は生まれた時から共同体的存在である
すべての生物が生態系の連関と神秘の中で創造されてきたという事実
その存在の根に帰ること
その存在の根におけるもともとの連帯
人の作った連帯でなく、創造されたという事実、そのいのちの根にある連帯
(コミュニオンの真実)
その存在の根に基づく共同体の希望と信頼
正しいか正しくないかでなく、生かされているという事実に基づく希望と信頼
愛されて生まれてきたという事実は、個人的なものではない、共同体的な真実
人は、みなこのいのちに乾いている
この共同体的ないのちにかわいている
しかし目に見える組織社会の中で居場所がないと感じる時、生きられないと
感じてしまう
人は、みなこのいのちの根、生かされているいのちの根を見失うと、枯渇して
しまう
そういう存在として創られているスピリチュアルな存在である
いのちの根にめざめた生き方とは
社会は、より組織化され、よりグローバル化され、より管理され、より競争化
した社会となっている
こうした中で、いのちの根にめざめた生き方をするとは
競争社会と戦っていくことか
競争社会でない社会を築いていくことか
そのために「正義と平和」を掲げて生きることか、そのための検証をしていくことか
競争社会も含めた管理社会、組織社会からの自由を生きるとは、むしろ、こうした社会を否定することでなく、越えることのように思われる。
それは、いのちの根に留まりつづけること、いのちの根への信頼にとどまりつづけること
いのちの根にめざめ、その目覚めたもの同士が、見つめあって生きていくこと
共同体は、作っていくものではなく、めざめていくもの
その目覚めからの出会いなおしが、問われているのでは
めざめた者どおしの見つめあい、、そこから本音が生まれ、まことの信頼関係が生まれていく
まことの連帯も、ここから生まれていく(宗教をこえた対話、イデオロギーを超えた対話)
それには主がくださる時を待たねばならないこともある 孤独な旅路
荒れ野の中の祈り
その日を信じて待つ 信頼 希望
管理社会、組織社会からは、理解されないことも多い
(アナーキーに受け取られることもあるかもしれない)
それでも、主の十字架に希望を置く
祈りは時空を越える
めざめた者同士が、この地上で顔と顔を合せることがないこともある
主の時間の中で、であう旅
祈りの中でのであい 連帯
それが力、希望、愛を生む
これは仲良しごっことは違う
もっと壮絶でもある しかし深い平和と喜び
競争社会の連帯・団結: 仲良しごっこ
利害関係の中では一致団結しているかもしれないが、
きわめて排他的
誰かをターゲットにする
自己防衛としてのいじめ
仲良しごっこは、政治的・宗教的な活動関係でも起きる
それは更にパワフルなものともなる
たたかいは、戦うのではなく、敵と対峙していくのでなく、
組織を越えた生き方をしていくこと
超越した生き方をしていく そう呼ばれていく
こうした生き方は、管理社会からは、理解されない
管理社会にとっての恐怖? 怪物? 気違い?
主の十字架と復活に希望をおく
その恵みを願いつづけていく
こうした歩み以外に、この時代に福音を生きるとはないとさえ感じる
(3) 競争社会と福音
私はずーと競争社会のなかで生きてきた。
今もこれからも競争社会のなかで生きていくのだと思う。 競争はあたりまえのこととずーと感じてきた。 私がキリスト教徒になったのは30歳位の時、それまでは福音という単語も意味も関係ない世界で生きてきた。本当は関係があるのだろうがほとんどの日本人と同じようにそのカトリック教会の単語を知らないですむ世界で生きていた。では自分にとっての厳しい競争社会のなかでの福音とはなんだろうか。 私の歩んできた半生を振り返りながら自分なりの競争社会と福音の意味を考えてみた。
もうはるかな昔になってしまったけれど、私はその時代にしては進んだ教育を受けさせてもらったと思っている。おかげで当時はめずらしかったアメリカの大学院でMBAを修得し卒業後はスイスのジュネーブのスイス銀行で幹部候補生になった。日本人で初めてだった。給料付の休暇みたいな素晴らしい経験だった。スイス人のガールフレンドもできて楽しくも有意義な青春を謳歌したけれど、そんなうまい話は長続きしなかった。スイス国籍をとれというスイス銀行の申し出を(今なら受けるけれど)当時両親が猛反対したため断って日本に帰国した。銀行の職もガールフレンドも失った。
帰国してシティバンクに就職したが物足りなくて1年余で退職。一人で会社を創った。
自由は得たが困難と苦労の始まりだった。1970年代初頭、日曜大工DIYの業界が日本に生まれてきた。先輩のつてで銀行とは縁もゆかりもないDIYの仕事を始めた。それがどんどん成長し、紆余曲折、山や谷をくぐりながら大きな会社になっていった。でも実情は毎月毎月の資金繰りの重圧。そのとき初めてアシジのフランシスコの言葉(福音)をいやがうえでも考えさせられた。いわく、花のように鳥のように明日を思いわずらうな、とってもできないなーと。従業員1000人資本金23億円、上場寸前。毎週日経新聞に記事がでる。自分の何倍もの虚像がでる、それが自分を迷わせた。好事魔多し大きな取引先が倒産し会社更生法になってしまった。
39歳の春だった。いままでちやほやしてくれていた人々が手のひらを返し、くもの子を散らすように去っていく。喫茶店に座って町行く人を眺める。皆何かにつかれたように先を急いで歩いていく。カエサルによりローマのプロバンチアとされたコルドバに生まれネロの家庭教師だった大哲学者セネカが2千年前に言っているように、東京の町行く人は「永久に生きられるかのように生きている」ようにお金と名誉を求め、人の評判を気にかけながら歩いている。何か魔物に追いかけられているように見えた。自分が無になったせいだろうか。 そう思えた。 本当の幸せとは何だろう? 真実の生き方とは何だろう? いままでの全てを失って自分に問いかけた。競争も福音も認める。競争に敗れて福音の意味を始めて理解した気がした。自分の「人生の旅」を改めて始めたい、と心から思った。福音はその私の旅に力を与え、私の精神を復活させ、一緒に生きていく友と家族と自分自身に命を与えてくれる何かのように感じた。その後国際金融業界に復帰し22年。いったん深呼吸して仕事、家庭、教育、地域社会, 教会、ボランティアのバランスをとりながら相変わらずの先進諸国の競争社会の中で一生懸命働き、苦しみ、悩み、稼ぎ、費やし、そして楽しみながら生きてきた、と感じている。小さな成功と大きな失敗を重ねながら。 今61歳の秋を迎えました。
私が「私の」福音に出会ったことを恥ずかしながらざっくばらんに、具体的にお話しました。私にとっての福音はあたかも競争社会を生きる道を照らしてくれる灯みたいなものでしょうか。あなたはこの命題をご自分の人生の中でどうお考えになり、どう消化されますか? 抽象的でなく(聖書に書かれているように)具体的に考えてみてくだされば発題者として本当に幸いです。
<全体会>
1グループ
競争社会の中で信仰心を持つことで救われることが多い。
競争社会の中で教会のミッションとはなんだろうか。
競争社会の原理は勝った人だけが優遇される。
しかし社会の構成は勝者だけではなく、それ以外の人たちは救われない。
和解、回心、赦し
挫折を体験したときに回心することでこころにゆとりが生まれる
企業人として目標を与えられてがんばっているときはあまり競争とは感じなかったが、何人かを束ねていく管理職となってからは、組織の中での能力の差を埋めるために能力の低い人を軽視してしまうことがあった。
組織の中でキリスト者であることが「活きた」。
2グループ
競争社会の中の仲良しごっこがあるが教会の中にもあり、冷え冷えとした人間関係を作 り出している。
競争社会は砂漠のようなもので、その中での福音はオアシスのようなものであった。
挫折前は、自然の気配にも感じることはなかったがその後は自然の恵みを感じるように なった。
今回は競争社会という具体的な言葉をテーマに入れたおかげで自分の問題として考え られた。
競争社会のひずみを埋めるのが福音なのか?
貧しいときには分け合うことができたが競争社会で勝者が優遇される仕組みができあが ると、分け合うという概念が薄れてきている。
豊かな時代は勝者も孤立しやすくなる。
孤独な人とどう向き合っていくか、自分の行き方が問われている。
派遣社員の存在・・・今後差別社会を生んでいくのではないだろうか。
3グループ
今も昔も競争はあったはずだが、昔はゆったりした中でそれほど孤独には陥らなかったのではないか。
信仰の喜びで支えられている自分ができることはなにか。
自分の家族にさえその喜びを伝えられないのはなぜか。
福音の価値を認める人々が集まることから、福音の世界を作り上げることはできないのだろうか。
教会の中でも話し合いがマンネリ化してきている
話し合いのメンバーを変えていくことで、いろいろなテーマを出して多方面から考えていく必要がある。
<マシア神父のコメント>
競争社会のなかでの福音
〜神戸行き夜行バスの待合室の中で〜
いろいろな人々が集まるものだと眺めていたところ、若い人から「どちらまでですか」と話しかけら
れた。
これが新幹線の隣席だったらその学生は自分に話しかけてきただろうか。
ここに福音を感じた。
競争社会の中にはゆがみがある。教会は福音が響きあうはずの場所なのに競争社会のゆがみ
の影響を受けている。
現代の修道会でも共同体つくりが大きな問題となっている。
弱さをもっている人は教会に行けば気楽にいられるはずなのに、競争社会の中で疲れてしまっ
て教会に来られなくなっている。
動物の世界は弱肉強食の社会である。
人間は進化の動きとは逆に、弱った人を背負って走り続けることができるはずである。
人間は自然を食いつぶしつつある。
支えあい助け合うことができるのが人類の特徴なのに弱いものを切り捨てるという本来とは逆の方
向に進んでいる現状をどう考えていくか。
以上文責は「学びあいの会」にあります