神の御子の一途な心、忠実さ、そして誠実さ
四旬節第 1 主日 ( A 年) 聖書黙想 2011/3/13 トマス・ロシカ師
四旬節第一主日の今日の福音朗読は、この悔い改めの季節にふさわしい深い思いに浸らせてくれます。この福音朗読と詩編 51 とは、今後6週間にわたってわたしたちが耳を傾け、それを生きる偉大なテーマの序曲です。
今日の第一朗読の創世記( 2;7-9;3:1-7 )を黙想するとき、わたしたちは、聖書の最初のページの、物語的で、かつ神学的な構成を考慮に入れなければなりません。創世記の最初の 11 の章にある多くの物語と同じく、エデンの物語もひとつの原因論であり、人間の生活の多くの現実にまつわる大きな疑問を説明するのに役立つ物語です。すなわち、出産にはなぜ痛みが伴うのか?土を耕すのはなぜ大変なのか?蛇はなぜ地面を這いまわるのか?などの疑問です。
創世記 2 − 3 章は、人間生活に不可欠な知識は、痛みを伴って得られるものだということを示しています。無知であることは幸せかも知れませんが、決して成熟した大人の証しにはならないでしょう。人が最終的に、完全な人間とはどんなものかを理解したとき、そして、人が完全な知識を得たとき、その人の現実の生活は、どのような煩雑さや困難からも解放されます。知識は目を開かせてくれますが、痛みを伴うものでもあります。
神よ、憐れんでください
今日の詩編 51 、「主よ、憐れみたまえ( the Miserere )」は、詩編のうちでも最もよく知られた祈りの一つであり、最も強い調子でくり返される悔い改めの詩編です。それは罪と赦しの歌であり、罪の意識と神の恵みに関する、最も深遠な瞑想です。この美しい祈りは、憐れみ豊かな神に語りかける悔い改めと希望の吐息のように、何世紀もの間に、敬虔なユダヤ教徒やキリスト教徒の心から自然に生まれてきたものです。
ユダヤ教の伝統により、詩編はダビデの口から語られます。ダビデは、預言者ナタンの叱責(厳しい言葉)によって罪の贖いに導かれました。(詩編 1-2 、サムエル記下 11 − 12 ) ナタンは、ダビデが行ったバト・シェバとの不義と、彼女の夫であるウリヤを死なせたことでダビデを叱責したのです。しかし、それに続く数世紀の間に、詩編「主よ、憐れみたまえ」は、他の大勢の罪人たちの祈りによってより豊かなものになっていきました。罪人たちは、神の「新しい心」と「霊」という主題を再び取り戻します。
エレミヤとエゼキエルの教えによれば、神の「新しい心」と「霊」は、救いを体験した人々(男女)に吹き込まれるものです。(詩編 12 、エレミヤ 31:31-34 、エゼキエル 11:19 、 36:24-28 )
わたしたちが自分の罪を告白するとき、救いをもたらす神の正義は、いつでも根本的な罪の清めを準備しています。主は、受け身の姿勢で罪を取り除くだけではなく、ご自分のいのちを吹き込む「霊」によって罪深い人間性を作り直します。神は、新しい純粋な「心」、すなわち新しい良心をわたしたちの心に吹き込み、わたしたちをご自分の似姿に造られた方の御心に適う、濁りのない信仰と賛美への道を開いてくださいます。「主よ、憐れみたまえ」の格調高い祈りには、罪人の「罪を帳消しにし、洗い、清め」、ついにはその罪人を新しい被造物につくり変えることのできる、神の赦しへの深い確信があります。(詩編 3-4 ) その新しい人は、浄化(変容)された霊、舌、唇、そして心を持つものとなります。( 14-19 ) 神の憐れみは、人間の憐れみより強いのです。
罪の産物に勝るもの
今日の第二朗読、ローマの教会への手紙( 5:12-19 )でパウロは、アダムの罪(創世記 3:1-13 )をキリストの贖いの神秘に照らして振り返ります。罪は、パウロがそれを単数形で扱っていることからも分かるように、人間を捉えて離さない恐ろしい力を意味しています。今ではこの力は創造主に背を向け、己の欲望と利益の追求に異常な喜びを覚えています。しかし、「わたしが罪を犯したのは、アダムのせいだ。」と言う権利は誰にもありません。なぜなら、すべての人が罪を犯したからです。(ローマ 5:12 )。すなわち、異邦人は心に記された法の要求の下にあり、(ローマ 2:14-15 ) ユダヤ人はモーセの契約の要求の下にあったからです。
原初から世にあった人間の罪深さ(ローマ 5:13 )は、旧約聖書の律法を通してさらに表面化し、その結果として、一層多くの罪が生み出されて行きました。ローマの教会への手紙 5 : 15 − 21 によると、キリストにおける神の働きは、アダムの罪によって人間に入り込んだ罪のウイルスの破滅的な働きと、完全な対照をなします。第二朗読が与えてくれる慰めは、「恵みの賜物は、罪の産物にはるかに勝る」というパウロの宣言にあります。罪が増すところに、神の恵みは比較にならないほど豊かに注がれるのです。パウロは、神の恵みは罪が生み出す多くの産物にはるかに勝ると宣言します。
試練を受ける
洗礼の時に神の子であると宣言されたイエスは、その後、今日の四旬節第一主日の福音にあるように(マタイ 4:1-11 )、三つの誘惑を受けます。 4 章 2 節の 40 日と 40 夜は、モーセの断食(出エジプト 34:28 、申命記 9:9 、 9 : 18 )ばかりでなく、イスラエルの民の荒れ野での 40 年も思い起こさせます。誘惑に対するイエスの応答は、すべて申命記( 8:3 、 6:16 、 13 )から引用されています。
マタイの記述にある三つの誘惑は、イスラエルの民が直面した三つの試練を年代順に反映しています。イスラエルの民は、神から「わが子」と呼ばれた(ホセア書 11:1 、申命記 8:5 )にも関わらず、試練にはことごとく失敗しましたが、イエスはそれぞれの試練に対して、一途な心と、確固たる忠実さ、熱い誠実さをもって応じることにより、不動の姿勢と忍耐力を示し、神の御子となるにふさわしい者であることを表します。
荒れ野での 40 日 40 夜の後にイエスが受けた試練と誘惑は、二重の目的を果たしています。先ず、この試練と誘惑のある部分には、その後の司牧生活の間にイエスが受ける試練の、ある部分が反映されていて、神の国の宣言の意味が変えられてしまう道筋の説明になっています。すなわち、本来の意味からそれて、神の国はこの世の基準に合わせた王国になっていくことを暗示しています。
二番目の目的は、この誘惑の物語によって、イエスの神の国の宣言を自分の力と悪の王国への脅威と見なすサタンの絶え間ない妨害に対して、わたしたちに備えさせるためです。
洗礼の時に、ヨルダン川でイエスに降った聖霊は、次に、イエスを、悪魔と直接に対決させるという明確な目的をもって、荒れ野へと導きます。マルコは、不毛の荒れ野で、独り沈黙のうちにサタンの力と戦うイエスを描いています。マタイとルカでは会話が進行します。その会話の中で悪魔の王子が、イエスを、その救いの使命の中核にある信仰と完全さから引き離そうと試みます。この誘惑は、最終的な勝利を予告しています。なぜなら、イエスが真の神の子であり、神の意志に完全に従うことを表明すると、悪魔は離れ去り、すぐに天使たちが来てイエスに仕えるからです( 4:11 )。イスラエルの民は、荒れ野で失敗しましたが、イエスは失敗しませんでした。イエスの御父との忠実な絆はあまりに強く、荒れ野の悪魔たちもそれを断ち切ることはできないのです。
パン以上のもの
マタイの記述にある最初の誘惑は、天からのパンという賜物を受け取る前のイスラエルの民の飢え(出エジプト記 16:1-4 )と平行しています。神の恵みは厳格な正義に優るということは、マナという賜物のうちにはっきり示されていますが、出エジプト記 16 : 3 に書かれているような不平を言うことは、全くの不信仰を露呈することです。(ここでの)神の子であるイスラエルは、全能の神が必要な物を与えてくださることに信頼していません。こうして、イスラエルは(神との)契約関係を裏切ります。契約関係には、契約の義務を履行する神の意向と力に対する確かな信頼が必要なのです。(創世記 15:6 )
しかし、神の子であるイエスは、天からのパンを信じて待たずに聖霊の力を利用して石をパンに変えるという、不信の選択を拒否します( 11 )。イエスは、自分が完全に神により頼む者であることを忠実に自覚しています。わたしたちはパンを食べることでいのちを保っているのではなく、単純明快に、生きていることが神のご意志であるから、わたしたちはいのちを保っているのです。イエスに従う人々は、この世の物に頼る生き方は出来ません。物質に頼りすぎて神に頼らなくなると、わたしたちは誘惑や罪に負けてしまいます。
神を試みる
第二の誘惑の核心には、申命記 6 : 16 の物語が隠されています。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」 信仰と信頼に欠け、反抗的な人々は、神に、契約の責務を果たすよう要求します。
一方、イエスは、神殿の屋根の端から飛び降りて、神が共にいると証明することを拒否します。イエスが飛び降りるのを拒んだのは、神を敬うことは、あらゆる種類の(人の側からの)操作介入を排除することであり、神を試すこともその中に含まれるからです。真に神を讃え敬うためには、誰に対しても、何事であれ、証明する必要などないのです。
福音物語の最後に、神の子は、本当に深い死の渕に身を投じます。彼は、そうすることが神のご意志であるという、絶対的な確信を抱いているからです。(マタイ 26:39,53 、 27:46 )
イエスの、誠実への専心
第三の誘惑は、偶像崇拝に関するすべてを含んでいます。すなわち、間違った神々の崇拝です。
このエピソードもまた申命記と密接につながっています。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。」(申命記 6:13-14 ) しかし、イスラエルの民はこれらの言葉に耳を貸さず、他の神々と「売春行為をした(心を売り渡した)。」(「」内は旧約聖書で用いられているヘブライ語の動詞)。
この第三の誘惑と偶像崇拝の関係は、今日のわたしたちには理解しにくいことです。第一にそれは、ユダヤ人たちが、ギリシャ・ローマの神々を祀った神殿を、悪霊の住家、更にはサタンの軍隊と見なしていた(1コリント 10:20 )からです。第二に、ギリシャ・ローマの機構の中で政治的、経済的階級の一員になりたいと強く望んでいた大勢の「イエスたち」にとって、偶像崇拝は強い誘惑でした。イエスが、このような誘惑を受ける必要があるとは、まったく思えないのですが、マタイの福音の最初の聞き手と読者たちは、善いことをしたいと願っているだけの人の場合でも、公職を求め、その地位を得るには妥協が必要であることをよく知っていました。
第三の誘惑全体は、イエスの誠実さへの専心を確証します。この世のため、また、わたしたち一人一人のために、イエスがまさに宣教活動を始めようとする時に、神のただ独りの御子は敵に立ち向かいました。イエスは、疑惑と混迷と誘惑の夜にあって、聖書の力を用いて戦いを始めます。イエスの模範を忘れないことは大いに役立ちます。それによってわたしたちは、悪魔の策略に惑わされることはないでしょう。
四旬節、今週の過し方
1. 今週は、詩編 5 1をゆっくりと注意深く祈りましょう。あなたの目に留まる言葉や句を見つけてください。目を閉じて、それについて幾度も思い巡らしましょう。その言葉を、あなたの共同体のため、教会のため、そしてあなたの愛する誰かのための、とりなしや祝福の祈りに用いましょう。
過去の出来事が、今もあなたの心を騒がせていますか? 「 主よ、憐れみたまえ 」 の祈りは、安らかな希望を抱いて将来へと再出発しようとするとき、あなたを力づけてくれますか? この一年の間、あなたは暮らしの現実から逃げ出したいと強く感じたことはありますか? それはどうしてですか? あなたは神から見棄てられたと感じたことがありますか? 苦しみの中で神に憐みを求めて泣き叫んだことがありますか?
2. ヘブライ人への手紙 4:14-5:10 に記された、誘惑と暗闇を克服するイエスの闘いと勝利についての感動的な文章を読みましょう。ここには、初代教会がわたしたちに示すイエスの姿 ― 闘いのさなかに助けとなる憐み深い大祭司・イエスのモデルがあります。
訳注:ヘブライ 4:14 [ 偉大な大祭司イエス ] さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大 な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっ かり保とうではありませんか。 15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を 犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 16 だから、憐 れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこう ではありませんか。
5:1 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げ るよう、人々のた めに神に仕える職に任命されています。 2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無 知な人、迷っている人を思いやることができるのです。 3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでな く、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。 4 また、この光栄ある 任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
5 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わ たしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。 6 また、神は他の個 所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。 7 キリスト は、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力の ある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 8 キリストは御子 であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 9 そして、完全な者となられた ので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 10 神からメルキゼデク と同じような大祭司と呼ばれたのです。
3. 今週は、教皇ベネディクト 16 世の四旬節の書簡を読みましょう。 (訳注:末尾に英文を転記します)
そのタイトルは、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた。」 ( cf. コロサイ 2: 12 ) となっています。
4. 今週はまた、あなた自身の「誠実さ」に対する思いについて考えてください。誠実さに欠けていては、積極的な生き方の中で一致と平和を見出すことはできません。真の誠実さとは、利己的な自我を超えるものへの積極的で心からの献身です。それはわたしたちを遥かに超えるものですから、利己的な生き方をしている限り、誰も真の成功や真の幸せを得ることはできません。あなたの誠実度はどの程度ですか?
簡単なテストがあります。先ず、ほとんどの人が信頼しているものの簡単なリストを作ってください。例えば、家族、共同体、教会、国家、雇用主、といったリストです。その後で自分に訊ねてみて下さい。リストを作って以来、これらの 5 つのものが自分の力によってより強く、より善く、より美しくなるようにわたしは生きてきただろうか?と。
あなたが、正直に「はい」と答えることができれば、それは誠実さの意味を十分に理解していることになります。そして同時に、真の幸せの秘訣も知っていると言えます。それは聖性への道でもあります。
◇◇◇
聖書朗読:
創世記 2:7-9, 3:1-7 : 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。 3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
詩編 51:3+4, 5+6, 12+13 : 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。 51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。 51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
ローマ 5:12-19 : このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。 5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 5:16 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 5:17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。 5:18 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
マタイ 4:1-11 : さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、 “ 霊 ” に導かれて荒れ野に行かれた。 4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」 4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
The Single-Heartedness, Faithfulness and Loyalty of God's Son
Biblical Reflection for 1st Sunday of Lent, Year A By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, MARCH 8, 2011 ( Zenit.org ) .-
Today's Scripture readings for the first Sunday of Lent immerse us into the depths of this penitential season. The readings and today's Psalm 51 sound overtures of the great themes that we will hear and live over the next six weeks.
Reflecting on today's first reading from Genesis ( 2:7-9; 3:1-7 ) , we must take into consideration the literary and theological form of the first pages of the Bible. Like many stories in the first eleven chapters of Genesis, the Eden tale is an etiology -- a story that helps to explain important questions about the major realities of our life. Why is there pain in childbirth? Why is the ground hard to till? Why do snakes crawl upon the earth, etc?
Genesis 2-3 suggests that knowledge, a necessity for human life, is something that is acquired painfully. Ignorance may be bliss, but it is certainly not the mark of adult maturity. When human beings finally understand what it means to be fully human, when they have complete knowledge, then the realities of life come into full relief in all of their complexity and difficulty. Knowledge is both enlightening and painful.
O God, Have mercy
Today's Psalm 51 -- the Miserere – is one of the most well known prayers of the Psalter and the most intense and repeated penitential psalm. It is a hymn of sin and forgiveness and the most profound meditation on guilt and grace. This beautiful prayer has risen for centuries from the hearts of Jewish and Christian faithful as a sigh of repentance and hope addressed to a God rich in divine mercy.
The Jewish tradition places the Psalm on David's lips, who was called to penance by the stern words of the prophet Nathan ( 1-2; 2 Samuel 11-12 ) , who reproached him for his adultery with Bathsheba and the killing of her husband Uriah. However, the Miserere was enriched in subsequent centuries, with the prayer of so many other sinners, who recover the themes of the "new heart" and the "Spirit" of God infused in men and women who have experienced redemption, according to the teachings of Jeremiah and Ezekiel ( v 12; Jeremiah 31:31-34; Ezekiel 11:19; 36:24-28 ) .
When we confess our sin, God's salvific justice is ready to radically purify us. The Lord does not just act negatively, eliminating sin, but re-creates sinful humanity through his vivifying Spirit: God infuses a new and pure "heart" in us, namely, a renewed conscience, and opens the possibility of a limpid faith and worship that is pleasing to the One who made us in His image and likeness. In the magnificent prayer of the Miserere, there is a profound conviction of divine forgiveness that "cancels, washes, cleanses" the sinner ( 3-4 ) and finally is able to transform him into a new creature, who has a transfigured spirit, tongue, lips and heart ( 14-19 ) . Divine mercy is stronger than our misery.
Outmatching sin's productivity
In today's second reading from St. Paul's letter to the community in Rome, ( 5:12-19 ) Paul reflects on the sin of Adam ( Genesis 3:1-13 ) in the light of the redemptive mystery of Christ.
Sin, as used in the singular by Paul, refers to the dreadful power that has gripped humanity, which is now in revolt against the Creator and engaged in the exaltation of its own desires and interests. But no one has a right to say, "Adam made me do it," for all are culpable ( Romans 5:12 ) : Gentiles under the demands of the law written in their hearts ( Romans 2:14-15 ) , and Jews under the Mosaic covenant.
Through the Old Testament law, the sinfulness of humanity that was operative from the beginning ( Romans 5:13 ) found further stimulation, with the result that sins were generated in even greater abundance. According to Romans 5:15-21, God's act in Christ is in total contrast to the disastrous effects of the virus of sin that invaded humanity through Adam's crime. The consolation of the second reading lies in Paul's declaration that grace outmatches the productivity of sin. Where sin increased, grace overflowed all the more. Paul declares that grace outmatches the productivity of sin.
Put to the test
Jesus, proclaimed Son of God at his baptism, is subjected to a triple temptation in today's Gospel text for the first Sunday of Lent ( Matthew 4:1-11 ) . The forty days and forty nights of verse two is reminiscent not only of Moses' fast ( Exodus 34:28; Deut 9:9, 18 ) but also of Israel's forty years in the desert. Jesus' responses to the temptations are all drawn from the book of Deuteronomy ( 8:3; 6:16; 13 ) .
The three temptations in Matthew's account reflect the chronological order of the three tests faced by Israel. Whereas Israel, called "son" by God ( Hosea 11:1; Deuteronomy 8:5 ) , failed each of the tests, Jesus reveals steadfastness and perseverance and his worthiness to be the Son of God by responding to each test with single-heartedness, resolute faithfulness and fierce loyalty.
The testing and temptation of Jesus after forty days and forty nights in the desert serves a double purpose. First, they are shaped in part from the kinds of testing Jesus underwent during his ministry, illustrating the ways in which the proclamation of God's kingdom might have been diverted, so that it would have become a kingdom according to the standards of this world. Second, the temptations prepare us for the continued opposition of Satan who regards Jesus' proclamation of the kingdom as a threat to his own power and kingdom.
The Spirit that descended upon Jesus in the Jordan at the moment of his baptism now leads him into the wilderness with the specific purpose of subjecting him to a real confrontation with the devil. Mark presents Jesus wrestling with the power of Satan, alone and silent in the desert wastes. In Matthew and Luke there is an ongoing conversation, as the prince of evil attempts to turn Jesus aside from the faith and integrity at the heart of his messianic mission.
The temptations are foreshadowing the eventual victory; for after Jesus has demonstrated that he truly is the Son of God, who totally serves God's will, the devil departs and the angels immediately come and serve Jesus ( 4:11 ) . Israel had failed in the desert, but Jesus would not. His loyal bond with his Father was too strong for even the demons of the desert to break.
More than bread
The first temptation in Matthew's account parallels Israel's hunger before it received the gift of bread from heaven ( Exodus 16:1-4 ) . While it is true that God's grace prevailed over the strict justice in the gift of manna, the grumbling of Exodus 16:3 reveals utter faithlessness; God's son Israel does not trust the Almighty to provide and thus betrays the covenant relationship that requires confident trust in God's readiness and ability to fulfill his covenant obligations ( Genesis 15:6 ) .
Yet God's Son, Jesus, refuses to give way to mistrust by exploiting the Spirit's power and thus providing himself with bread from stones instead of confidently awaiting bread from heaven ( 11 ) . Jesus faithfully remembers that he is totally dependent upon God. We do not possess life by consuming bread but simply and solely because it is God's will that we live. Those who follow Jesus cannot become dependent on the things of this world. When we are so dependent on material things, and not on God, we give in to temptation and sin.
Tempting God
The second temptation has at heart the story of Deuteronomy 6:16: "You must not put the Lord your God to the test as you did at Massah." The rebellious people of little faith and trust challenge God to fulfill his obligations of the covenant.
Jesus, on the other hand, refuses to demonstrate God's presence with him by leaping from the parapet of the Temple. Jesus refuses to jump because honoring God excludes every kind of manipulation, including putting God to the test. When we truly honor God, we have nothing to prove to anyone!
At the end of the Gospel story of Jesus, the Son of God will truly leap into the abyss of death, because he is absolutely convinced that it is God's will that he do so ( Matthew 26:39; 53; 27:46 ) .
Jesus' undivided loyalty
The third temptation is all about idolatry: the worship of false gods. Once again this episode closely follows Deuteronomy: "You shall fear the Lord your God; you shall serve him, and swear by his name. You shall not go after other gods, of the gods of the people who are around you" ( Deuteronomy 6:13-14 ) . But Israel did not heed these words and "played the harlot" with other gods ( the Hebrew verb used in the Old Testament ) .
The connection between this third temptation and idolatry is difficult for many of us to understand today. First because the pantheon of Greco-Roman gods were considered to be demons by the Jews ( 1 Corinthians 10:20 ) and thus Satan's armed forces! Second idolatry was a genuine temptation for many Jesus who desired to take part fully in the political and economic strata of the Greco-Roman machine. While it is highly unlikely that Jesus would need to be tempted in this way, the first hearers and readers of Matthew's gospel were well aware of the compromises required by seeking and holding public office even on the part of those who only desired to do good.
The entire third temptation assures us of Jesus' undivided loyalty. At the very beginning of Jesus' campaign for this world and for each one of us, God's only begotten Son confronted the enemy. He began his fight using the power of Scripture during a night of doubt, confusion, and temptation. It will do us well not to forget Jesus' example, so that we won't be seduced by the devil's deception.
Living Lent this week
1. Pray Psalm 51 slowly and carefully this week. Find a word or phrase in that catches your eye. Close your eyes and reflect on it over and over again. Use it as an intercession or a blessing for your community, your church, or someone you love.
Do areas of you past continue to bother you? How does the Miserere enable you to walk again toward the future with peaceful hope? Have you ever felt a strong desire to flee from the reality of your life over the past year? Why? Have you ever felt that God had abandoned you? Do you cry out to God in your own distress, begging God for mercy?
2. Read the moving account of Jesus' struggle with and victory over temptation and darkness in the letter to the Hebrews 4:14-5:10. Here the early Church gives us a model of Jesus, our compassionate high priest, who can help us in the midst of our struggles.
3. Read Pope Benedict XVI's Lenten letter this week. It is entitled: "You were buried with him in baptism, in which you were also raised with him" ( cf. Colossians 2: 12 ) .
4. Reflect on your own sense of loyalty this week. Unless you find some sort of loyalty, you cannot find unity and peace in our active living. True loyalty is a positive, wholehearted devotion to those things beyond our own selfish private selves. It is much bigger than we are and no one can be really successful or happy if he lives only for himself. How loyal are you?
Here is a simple test: Make a list of the simple things in which nearly everyone believes -- family, community, church, country and employer. Ask yourself if since making this list you have so lived that these five things are stronger, better, finer, because of you.
If you can answer "yes" truthfully, you know that you understand the full meaning of loyalty -- and, incidentally, the secret of true happiness. It is also the road to holiness.
<参考> *****教皇ベネディクト XVI 世の四旬節の書簡*****
From the Vatican, 4 November, 2010
MESSAGE OF HIS HOLINESS BENEDICT XVI
FOR LENT 2011
“You were buried with him in baptism, in which you were also raised with him.”
( cf. Col 2: 12 )
Dear Brothers and Sisters,
The Lenten period, which leads us to the celebration of Holy Easter, is for the Church a most valuable and important liturgical time, in view of which I am pleased to offer a specific word in order that it may be lived with due diligence. As she awaits the definitive encounter with her Spouse in the eternal Easter, the Church community, assiduous in prayer and charitable works, intensifies her journey in purifying the spirit, so as to draw more abundantly from the Mystery of Redemption the new life in Christ the Lord ( cf. Preface I of Lent ) .
1. This very life was already bestowed upon us on the day of our Baptism, when we “become sharers in Christ's death and Resurrection”, and there began for us “the joyful and exulting adventure of his disciples” ( Homily on the Feast of the Baptism of the Lord, 10 January, 2010 ) . In his Letters, St. Paul repeatedly insists on the singular communion with the Son of God that this washing brings about. The fact that, in most cases, Baptism is received in infancy highlights how it is a gift of God: no one earns eternal life through their own efforts. The mercy of God, which cancels sin and, at the same time, allows us to experience in our lives “the mind of Christ Jesus” ( Phil 2: 5 ) , is given to men and women freely. The Apostle to the Gentiles, in the Letter to the Philippians, expresses the meaning of the transformation that takes place through participation in the death and resurrection of Christ, pointing to its goal: that “I may come to know him and the power of his resurrection, and partake of his sufferings by being molded to the pattern of his death, striving towards the goal of resurrection from the dead” ( Phil 3: 10-11 ) . Hence, Baptism is not a rite from the past, but the encounter with Christ, which informs the entire existence of the baptized, imparting divine life and calling for sincere conversion; initiated and supported by Grace, it permits the baptized to reach the adult stature of Christ.
A particular connection binds Baptism to Lent as the favorable time to experience this saving Grace. The Fathers of the Second Vatican Council exhorted all of the Church's Pastors to make greater use “of the baptismal features proper to the Lenten liturgy” ( Constitution on the Sacred Liturgy Sacrosanctum concilium, n. 109 ) . In fact, the Church has always associated the Easter Vigil with the celebration of Baptism: this Sacrament realizes the great mystery in which man dies to sin, is made a sharer in the new life of the Risen Christ and receives the same Spirit of God who raised Jesus from the dead ( cf. Rm 8: 11 ) . This free gift must always be rekindled in each one of us, and Lent offers us a path like that of the catechumenate, which, for the Christians of the early Church, just as for catechumens today, is an irreplaceable school of faith and Christian life. Truly, they live their Baptism as an act that shapes their entire existence.
2. In order to undertake more seriously our journey towards Easter and prepare ourselves to celebrate the Resurrection of the Lord – the most joyous and solemn feast of the entire liturgical year – what could be more appropriate than allowing ourselves to be guided by the Word of God? For this reason, the Church, in the Gospel texts of the Sundays of Lent, leads us to a particularly intense encounter with the Lord, calling us to retrace the steps of Christian initiation: for catechumens, in preparation for receiving the Sacrament of rebirth; for the baptized, in light of the new and decisive steps to be taken in the sequela Christi and a fuller giving of oneself to him.
The First Sunday of the Lenten journey reveals our condition as human beings here on earth. The victorious battle against temptation, the starting point of Jesus' mission, is an invitation to become aware of our own fragility in order to accept the Grace that frees from sin and infuses new strength in Christ – the way, the truth and the life ( cf. Ordo Initiationis Christianae Adultorum, n. 25 ) . It is a powerful reminder that Christian faith implies, following the example of Jesus and in union with him, a battle “against the ruling forces who are masters of the darkness in this world” ( Eph 6: 12 ) , in which the devil is at work and never tires – even today – of tempting whoever wishes to draw close to the Lord: Christ emerges victorious to open also our hearts to hope and guide us in overcoming the seductions of evil.
The Gospel of the Transfiguration of the Lord puts before our eyes the glory of Christ, which anticipates the resurrection and announces the divinization of man. The Christian community becomes aware that Jesus leads it, like the Apostles Peter, James and John “up a high mountain by themselves” ( Mt 17: 1 ) , to receive once again in Christ, as sons and daughters in the Son, the gift of the Grace of God: “This is my Son, the Beloved; he enjoys my favor. Listen to him” ( Mt 17: 5 ) . It is the invitation to take a distance from the noisiness of everyday life in order to immerse oneself in God's presence. He desires to hand down to us, each day, a Word that penetrates the depths of our spirit, where we discern good from evil ( cf. Heb 4:12 ) , reinforcing our will to follow the Lord.
The question that Jesus puts to the Samaritan woman: “Give me a drink” ( Jn 4: 7 ) , is presented to us in the liturgy of the third Sunday; it expresses the passion of God for every man and woman, and wishes to awaken in our hearts the desire for the gift of “a spring of water within, welling up for eternal life” ( Jn 4: 14 ) : this is the gift of the Holy Spirit, who transforms Christians into “true worshipers,” capable of praying to the Father “in spirit and truth” ( Jn 4: 23 ) . Only this water can extinguish our thirst for goodness, truth and beauty! Only this water, given to us by the Son, can irrigate the deserts of our restless and unsatisfied soul, until it “finds rest in God”, as per the famous words of St. Augustine.
The Sunday of the man born blind presents Christ as the light of the world. The Gospel confronts each one of us with the question: “Do you believe in the Son of man?” “Lord, I believe!” ( Jn 9: 35. 38 ) , the man born blind joyfully exclaims, giving voice to all believers. The miracle of this healing is a sign that Christ wants not only to give us sight, but also open our interior vision, so that our faith may become ever deeper and we may recognize him as our only Savior. He illuminates all that is dark in life and leads men and women to live as “children of the light”.
On the fifth Sunday, when the resurrection of Lazarus is proclaimed, we are faced with the ultimate mystery of our existence: “I am the resurrection and the life… Do you believe this?” ( Jn 11: 25-26 ) . For the Christian community, it is the moment to place with sincerity – together with Martha – all of our hopes in Jesus of Nazareth: “Yes, Lord, I believe that you are the Christ, the Son of God, the one who was to come into this world” ( Jn 11: 27 ) . Communion with Christ in this life prepares us to overcome the barrier of death, so that we may live eternally with him. Faith in the resurrection of the dead and hope in eternal life open our eyes to the ultimate meaning of our existence: God created men and women for resurrection and life, and this truth gives an authentic and definitive meaning to human history, to the personal and social lives of men and women, to culture, politics and the economy. Without the light of faith, the entire universe finishes shut within a tomb devoid of any future, any hope.
The Lenten journey finds its fulfillment in the Paschal Triduum, especially in the Great Vigil of the Holy Night: renewing our baptismal promises, we reaffirm that Christ is the Lord of our life, that life which God bestowed upon us when we were reborn of “water and Holy Spirit”, and we profess again our firm commitment to respond to the action of the Grace in order to be his disciples.
3. By immersing ourselves into the death and resurrection of Christ through the Sacrament of Baptism, we are moved to free our hearts every day from the burden of material things, from a self-centered relationship with the “world” that impoverishes us and prevents us from being available and open to God and our neighbor. In Christ, God revealed himself as Love ( cf. 1Jn 4: 7-10 ) . The Cross of Christ, the “word of the Cross”, manifests God's saving power ( cf. 1Cor 1: 18 ) , that is given to raise men and women anew and bring them salvation: it is love in its most extreme form ( cf. Encyclical Deus caritas est, n. 12 ) . Through the traditional practices of fasting, almsgiving and prayer, which are an expression of our commitment to conversion, Lent teaches us how to live the love of Christ in an ever more radical way. Fasting, which can have various motivations, takes on a profoundly religious significance for the Christian: by rendering our table poorer, we learn to overcome selfishness in order to live in the logic of gift and love; by bearing some form of deprivation – and not just what is in excess – we learn to look away from our “ego”, to discover Someone close to us and to recognize God in the face of so many brothers and sisters. For Christians, fasting, far from being depressing, opens us ever more to God and to the needs of others, thus allowing love of God to become also love of our neighbor ( cf. Mk 12: 31 ) .
In our journey, we are often faced with the temptation of accumulating and love of money that undermine God's primacy in our lives. The greed of possession leads to violence, exploitation and death; for this, the Church, especially during the Lenten period, reminds us to practice almsgiving – which is the capacity to share. The idolatry of goods, on the other hand, not only causes us to drift away from others, but divests man, making him unhappy, deceiving him, deluding him without fulfilling its promises, since it puts materialistic goods in the place of God, the only source of life. How can we understand God's paternal goodness, if our heart is full of egoism and our own projects, deceiving us that our future is guaranteed? The temptation is to think, just like the rich man in the parable: “My soul, you have plenty of good things laid by for many years to come…”. We are all aware of the Lord's judgment: “Fool! This very night the demand will be made for your soul…” ( Lk 12: 19-20 ) . The practice of almsgiving is a reminder of God's primacy and turns our attention towards others, so that we may rediscover how good our Father is, and receive his mercy.
During the entire Lenten period, the Church offers us God's Word with particular abundance. By meditating and internalizing the Word in order to live it every day, we learn a precious and irreplaceable form of prayer; by attentively listening to God, who continues to speak to our hearts, we nourish the itinerary of faith initiated on the day of our Baptism. Prayer also allows us to gain a new concept of time: without the perspective of eternity and transcendence, in fact, time simply directs our steps towards a horizon without a future. Instead, when we pray, we find time for God, to understand that his “words will not pass away” ( cf. Mk 13: 31 ) , to enter into that intimate communion with Him “that no one shall take from you” ( Jn 16: 22 ) , opening us to the hope that does not disappoint, eternal life.
In synthesis, the Lenten journey, in which we are invited to contemplate the Mystery of the Cross, is meant to reproduce within us “the pattern of his death” ( Ph 3: 10 ) , so as to effect a deep conversion in our lives; that we may be transformed by the action of the Holy Spirit, like St. Paul on the road to Damascus; that we may firmly orient our existence according to the will of God; that we may be freed of our egoism, overcoming the instinct to dominate others and opening us to the love of Christ. The Lenten period is a favorable time to recognize our weakness and to accept, through a sincere inventory of our life, the renewing Grace of the Sacrament of Penance, and walk resolutely towards Christ.
Dear Brothers and Sisters, through the personal encounter with our Redeemer and through fasting, almsgiving and prayer, the journey of conversion towards Easter leads us to rediscover our Baptism. This Lent, let us renew our acceptance of the Grace that God bestowed upon us at that moment, so that it may illuminate and guide all of our actions. What the Sacrament signifies and realizes, we are called to experience every day by following Christ in an ever more generous and authentic manner. In this our itinerary, let us entrust ourselves to the Virgin Mary, who generated the Word of God in faith and in the flesh, so that we may immerse ourselves – just as she did – in the death and resurrection of her Son Jesus, and possess eternal life.