信仰の賜物を育む
年間第 19 主日 聖書黙想 2010/8/8 トマス・ロシカ師
知恵の書は、イスラエルのすべての王のうちでもっとも賢いソロモンにちなんで名付けられ、紀元前 300 年頃から西暦 200 年頃まで、ギリシャ文化の中に生きる若いユダヤ人のための手引き書、あるいは教科書として用いられました。彼らは、周囲の絢爛たる文化に畏敬の念を抱き、ことによると自分たちの伝統の価値が、エジプト社会のそれよりも劣っているのではないかと恐れていたのかも知れません。知恵の書は、一連の知恵に満ちた格言、哲学や倫理の論議、護教論、科学、修辞学で成り立っています。これを書いた人たちは、異国(ギリシャ文化圏)の環境の中で、ユダヤ教の信仰を育て、確立しようと努力したのです。
今日の第 1 朗読では知恵の書の終わりの部分( 18:6-9 )が読まれますが、そこでは神が、その民の解放者として讃えられています。この箇所の大切なポイントの一つは、神がエジプト人の長子を滅ぼす一方で、ご自分の民を解放されたという偉大な力を讃えている点です。イスラエルは、「神に従う人々の救いを待っていた」( 7 節)ので救われました。エジプト人は、神に耳を傾けなかったので滅ぼされました。一方イスラエルは、神の御言葉に耳を傾けたので救われました。
信仰の姿
今日の教会でのさまざまな状況について挫折や落胆や悲しみを味わうとき、わたしはいつも、ヘブライ人への手紙の 11 章を読み返します。この章は、旧約聖書の人々や出来事を引用して、感動的な信仰の姿、すなわちいかなる障害に出会っても変わらない、確固とした信仰の姿を描き出しています。
今日の第 2 朗読(ヘブライ人への手紙 11:1-2,8-19 )は、時系列的に展開する章から取り出されています。 11 章は次のように流れます。 3 節から 7 節までは創世記の最初の 9 つの章を、 8 節から 22 節は族長の時代を引用しています。 11 章 23 節から 31 節はモーセの時代を、 11 章 32 節から 38 節は士師たち、預言者たち、マカバイの殉教者たちの歴史を引用しています。
この個所は、新約聖書に現れた、信仰に関する記述のうちで最も包括的な記述ですが、書き手の興味は、語義的、神学的な定義付けにはありません。読者のニーズの視点から、書き手は、真の信仰が「どのように働くか」を語り、それが「どのようなものか」については触れていません。信仰を通して、神は、恵みへの期待に保証を与え、神が約束したことは実際に訪れるのだということを、信仰という賜物のうちに立証するのです( 11:1 )。ヘブライ人への手紙 11 : 3-38 で取り上げられた聖書の登場人物は、将来への神の保証を信仰のうちに受け入れたので、神に認められたのです( 11:2 )。わたしたちキリスト者は、旧約聖書の信仰深い男女とは違い、神による救いの約束の実現が始まったことを知っているのですから、信仰をしっかりと保つべき大きな理由があるのです( 11:39-40 )。
ヘブライ人への手紙のこの個所に関して、ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿が説教の中で述べた言葉を思い起こすことは、大きな意味があります。「ですから、信仰を持つことと、信仰を通して約束を受け取ることは別なことです。信仰それ自体には、約束を受け取ることは含まれていません。」
栄光に包まれたイエスの再臨
今日の福音(ルカ 12:32-48 )に集められた格言は、ルカが、最後の時とイエスの再臨とをどう理解しているかを示しています。ルカは、読者に対し、 parousia (最終的なキリストの再臨)の前の時代にあって、イエスの教えに忠実であることの重要性を強調しています。
今日の福音の一節は、初代のキリスト者たちの間に生まれていた幾つかの疑問を反映しています。それは、彼らが、イエスは直ぐに栄光のうちに再び来られると信じていたこと、そして、それが既に遅れていることについての疑問です。この福音は、イエスの死から半世紀以上たって書かれたもので、イエスの再臨を待ちわび、その遅れに落胆して気持ちが弛んでいる共同体の仲間に対して、懸念を示す必要がありました。
忠実な僕のたとえ話からは、次のような疑問が生じます。必ず説明義務が課されるという状況のなかで、僕(しもべ)を特徴づけるのは何ですか? この福音に描かれているのは、旅から帰ってくる主人です。主人が居ないときの労働者にはどんな傾向がありますか? 怠けるでしょう! 怠け者は、主人が帰った時に、必ず眠っているところを見つかってしまいます。キリストの再臨における審判と報いを思うとき、信仰と忠実さが必要になります。
たとえ(再臨が)遅れても、メッセージははっきりとしています! 準備していなさい。報いは忠実さに比例するでしょう。忠実さの不足は、信仰の不足を表し、それは、やがて来る審判に結びつきます。福音のこの一節は、神の国がわたしたちの究極の関心の的であることを明らかにしています。神の国は、人間の知恵の結果ではなく、純粋に神からの賜物です。イエスは、優先すべきものの古典的な基準を述べています。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ 12:34 )
イエスは、教会の指導者たちが生活の中で優先すべきものについても語っています。世間は、権力、成功、人気、楽しみの優先順位や価値観を重要視します。指導的な役割の人々が、時には、究極の関心事として、正義よりも権力を選ぶことがあります。今日の聖書朗読は、これらの優先順位や価値観が、究極の関心事であるべき神の国と相反するものであることを判断する手助けとなります。指導者は第一に謙遜な僕(しもべ)です。イエスは、次のように指導者の責任を述べています。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ 12:48 ) その人の地位が高くなればなるほど、求められるものは大きくなり、説明責任も大きくなるのです。
6 人の新しい忠実な教会の僕
2010 年 10 月 17 日の日曜日、ベネディクト 16 世は、聖ペトロ広場で新たに 6 人を列聖します。列聖される福者は、ポーランド人の スタニスラウ・ソルティス ( 1489 年没)、スペイン人の カンディダ・マリア・デ・ヘスス・シピトリア・イ・バリオラ ( 1912 年没)、イタリア人の カミッラ・バッティスタ・ヴァラーノ ( 1524 年没)と、 ジュリア・サルツァーノ ( 1929 年没)、カナダ人の アンドレ・ベッセッテ ( 1909 年没)、オーストラリア人の メアリー・オブ・ザ・クロス・マッキロップ ( 1909 年没)の 6 人です。
今日の福音の、忠実な僕の物語は、確かにこれらの非凡な人たち一人一人の生涯を要約しています。わたしは、特に、間もなくオーストラリア初の聖人となる メアリー・マッキロップ の生涯について話したいと思います。
福者 メアリー・オブ・ザ・クロス・マッキロップ
メアリー・マッキロップは 、オーストラリアに移民してきた貧しいスコットランド人の両親の元で 1842 年に生まれ、その生涯を通して大きな遺産をわたしたちに残しました。彼女は 1866 年、 24 才で南オーストラリアに修道会を創設し、彼女と修道会の働きが今日のオーストラリアのカトリック教育システムを築きあげました。マリアは、聖心の聖ヨゼフ修道女会を、貧しい人々、特に、田舎の過疎地域の人々への奉仕に捧げる女子修道会として創設しました。修道女たちは、農夫、鉱夫、鉄道労働者たちと共に、孤立した未開の地域にまで出かけて行きました。そして、その人たちが経験する辛苦は何であれ、それを共に味わいました。聖ヨゼフ修道女会のシスターたちは、そのエネルギーを、孤児院の設置や、移住者と女性のための避難施設の建設など、社会福祉活動に費やしました。
マザー・マリアは信念にもとづいて行動し、そのために宗教指導者たちと衝突することになりました。こうした緊張関係は、教育問題に関する対立に拡大しました。その結果マリアは、 1871 年、不従順の咎で、地元の司教によって破門されます。司教は、彼女が自分の学校で不従順と反抗的な態度を奨励したとして告発しました。マリアに課せられた破門は6ヶ月後に解かれました。そして、その司教は死の床で、自分が間違ったことをしたと認めました。
1883 年に、マリアは再び教会の権力と衝突しました。別の司教が、自分の司教区から出ていくようにと彼女に命じ、マリアは聖ヨゼフ修道女会の本部をシドニーに移しました。 1909 年 8 月 8 日、彼女はその地で亡くなりました。陰で彼女を支えてきた人々は皆、彼女が 67 才で亡くなる前から、既に彼女を聖人と見なしていました。
キリストに出会う努力
メアリー・マッキロップは、ある素晴らしい資質に恵まれていました。それは、自分と激しく対立する教会指導者たちに対して、決して憎しみを抱くことがなかったということです。彼女の赦しの姿勢は、その修道会の優れた働きによって補われ、完全なものになりました。 1995 年に行われた列福式の説教で、ヨハネ・パウロ 2 世は、彼女についてこう述べています。
「彼女は、優しさと勇気と憐れみの心によって、見捨てられ『生活苦とたたかう人たち』や、都会のスラムの人たちの間に善い知らせをもたらす先達となりました。マザー・メアリー・オブ・ザ・クロスは、彼女が出会った無関心、悲惨、苦しみの陰で、大勢の人々―男や女、若者や老人―が、神とその正義を切に求めていることを知っていました。彼女は、本当にその時代、その場所の申し子として、そのことを理解していました。なぜなら彼女は、移民の娘として、新しい環境の中で自分たちの生活を築くために、いつももがき苦しまなければならなかったからです。彼女の物語は、人々を喜んで迎え入れること、すなわち孤独な人、身内に先立たれた人、恵まれない境遇にいる人に手を差し伸べることの必要性を思い出させてくれます。神の国とその正義を求めて努力することは、見知らぬ人々の中にキリストを見出し、その人たちの中でキリストと出会い、また、人々が互いの中に居るキリストに出会うよう手を貸す努力をすることを意味しています。」
荒廃の中の自由
今日の知恵の書からの第一朗読は、次のような疑問を抱かせます。人生の最も厳しい時期、最もやっかいな時期に、大いなる自由を見出すことなどあるのでしょうか? これは、メアリー・マッキロップの旅路のことを言っているのではないでしょうか? 苦しみの期間が、表面の動揺の奥深くに隠れていた喜びや慰めに出会わせてくれる経験が、わたしたちには何度あったことでしょうか?
「 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」(ヘブライ人への手紙 11 : 13-14 )、
「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれだろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」(ルカ 12 : 42-43 )
今日の聖書朗読のこの 2 か所を読むとき、わたしは今日の聖書の言葉の生きた説明として、メアリー・マッキロップのことを想起します。以上が、塩と光のテレビ( Salt and Light TV ) の特別番組として、オーストラリア初の聖人に関するドキュメンタリーの中でわたしたちが伝えたメッセージです。
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聖バシル修道会(バシル会)のトマス・ロシカ神父は1986年に司祭叙階。アメリカとカナダの2つの国籍を持ち、専門は神学と聖書学。トロント大学レジスカレッジ、ローマ教皇庁聖書研究所、エルサレムのフランス聖書考古学学院で学び、1990 年以来、カナダ各地の大学で聖書学を教える。
2003 年以来、トロントに本部を置く「塩と光のカトリック・メディア財団・テレビジョンネットワーク」の最高責任者。 2006 年バシル会総長に選出される。メールアドレスは rosica@saltandlighttv.org
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聖書朗読
知恵の書
18 : 6 あの〔過越の〕夜のことは、我々の先祖たちに前もって知らされており、
彼らはあなたの約束を知ってそれを信じていたので
動揺することなく安心していられた。
7 神に従う人々の救いと、敵どもの滅びを、あなたの民は待っていた。
8 あなたは、反対者への罰に用いたその出来事で、
わたしたちを招き、光栄を与えてくださった。
9 善き民の清い子らは、ひそかにいけにえを献げ、
神聖な掟を守ることを全員一致で取り決めた。
それは、聖なる民が、順境も逆境も
心を合わせて受け止めるということである。
そのとき彼らは先祖たちの賛歌をうたっていた。
ヘブライ人への手紙
[皆さん] 11:01 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 :02 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
:08 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 :09 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
:10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
:11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。:12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
≪:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。 :15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。 :16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。 :17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 :18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 :19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。 ≫
ルカによる福音
[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]
≪12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 :33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 :34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」 ≫
:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 :36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 :37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。 :38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 :39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。 :40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
≪:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、 :42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれだろうか。 :43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 :44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 :45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。 :47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。 :48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」≫
Cherishing the Precious Gift of Faith
Biblical Reflection for 19th Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JULY 29, 2010 ( Zenit.org ) .- Named after the wisest of all the Israelite kings, Solomon, the book of Wisdom was used as a manual or textbook for young Jews living in a Greek culture from 300 B.C. to 200 A.D. The Jews were awed by the brilliant culture around them, and perhaps feared that their traditional values might be inferior to those of Egyptian society. Wisdom consisted of a series of wise sayings, philosophical and moral discussions, religious apologetics, science, and rhetoric. The authors strove to educate and build up the Jewish faith in a foreign environment.
The final section of the book of Wisdom, from which today's first reading is drawn ( Wisdom 18:6-9 ) , praises God as the liberator of his people. One of the high points of the text glorified God for his great power that destroyed the first born of the Egyptians, yet at the same time freed his people. Israel was saved because it had "awaited the salvation of the just" ( 7 ) . The Egyptians had been destroyed because they did not listen to God; Israel was saved because they listened to God's word.
Portrait of religious faith
Whenever I have moments of frustration, discouragement or sadness about the state of things in the Church today, I go back and read Chapter 11 of the Letter to the Hebrews. This chapter draws upon the people and events of the Old Testament to paint an inspiring portrait of religious faith, firm and unyielding in the face of any obstacles that confront it.
Today's second reading ( Hebrews 11:1-2, 8-19 ) is drawn from a chronologically developed chapter: verses 3-7 draw upon the first nine chapters of Genesis; verses 8-22 upon the period of the patriarchs; verses 11:23-31 upon the time of Moses; verses 11:32-38 upon the history of the judges, the prophets, and the Maccabean martyrs.
The author gives the most extensive description of faith provided in the New Testament, though his interest does not lie in a technical, theological definition. In view of the needs of his audience he describes what authentic faith does, not what it is in itself. Through faith God guarantees the blessings to be hoped for from him, providing evidence in the gift of faith that what he promises will eventually come to pass ( 11:1 ) . Because they accepted in faith God's guarantee of the future, the biblical personages discussed in Hebrews 11:3-38 were themselves commended by God ( 11:2 ) . Christians have even greater reason to remain firm in faith since they, unlike the Old Testament men and women of faith, have perceived the beginning of God's fulfillment of his messianic promises ( 11:39-40 ) .
It is important to recall the words of Cardinal John Henry Newman in one of his homilies on this text from Hebrews: "It is one thing, then, to have faith, another thing to receive the promise through faith. Faith does not involve in itself the receipt of the promise."
Jesus' return in glory
The collection of sayings in today's Gospel ( Luke 12:32-48 ) relates to Luke's understanding of the end time and the return of Jesus. Luke emphasizes for his readers the importance of being faithful to the instructions of Jesus in the period before the parousia ( final coming ) .
Today's Gospel passage reflects questions that arose from the early Christian belief that Jesus would soon return in his glory and the delay that had already occurred. Written more than half a century after Jesus' death, this Gospel needed to address concerns regarding laxity on the part of the members of the community who had already been waiting for Jesus' coming and were discouraged at his delay.
Luke's parable of the faithful servants raises the question: What should characterize a steward in light of the certainty of coming accountability? The picture presented in the Gospel is of a master who is returning from a trip. What is the tendency of workers when the boss is away? To slack off! Those that slack off invariably get caught sleeping when the boss shows up. There is a need for faith and faithfulness in light of the coming judgment and rewards to be given when Christ returns.
Even if there is a delay, the message is clear: Be ready! Faithfulness will be proportionately rewarded. Lack of faithfulness may indicate lack of faith, making one susceptible to judgment. The Gospel passage clearly identifies the Kingdom of God as our ultimate concern. The Kingdom does not result from human ingenuity; it is a pure gift of God. Jesus states the classic measure of priorities, " Where your treasure is, there your heart will be also" ( Luke 12:34 ) .
Jesus also speaks of priorities in the lives of Church leaders. The world focuses priorities and values around power, success, popularity, and pleasure. People in roles of leadership sometime choose power over justice as their ultimate concern. Today's Scripture readings help us to measure these priorities and values against the ultimate concerns of the kingdom. The leader is first of all a humble servant. Jesus states the leader's responsibility in this way, "From everyone to whom much has been given, much will be required; and from the one to whom much has been entrusted, even more will be demanded" ( Luke 12:48 ) . The greater one's position, the greater the expectations, and the greater one's accountability.
Six new faithful servants for the Church
On Sunday, Oct. 17, 2010, Benedict XVI will canonize six new saints in St. Peter's Square. They include the Polish Blessed Stanislaw Soltys, who died in 1489; Spanish Blessed Candida Maria of Jesus, who died in 1912; Italian Blesseds Camilla Battista da Varano, who died in 1524 and Giulia Salzano, who died in 1929; Canadian Blessed André Bessette, who died in 1937; and the Australian Blessed Mary of the Cross MacKillop who died in 1909.
Today's Gospel story of the faithful servant certainly summarizes each of these remarkable individuals. I would like to speak in particular about the life of Blessed Mary MacKillop, soon to be Australia's first saint.
Blessed Mary of the Cross MacKillop
Born in 1842 of poor, Scottish parents who emigrated to Australia, Blessed Mary MacKillop left a great legacy. Australia owes its Catholic Education system to her and the work of the Congregation she founded in South Australia in 1866 at the age of 24. Mary founded the Sisters of Saint Joseph of the Sacred Heart as a religious order of women dedicated to the service of the poor especially in isolated country districts. The sisters followed farmers, miners, railway workers to isolated outback regions. Whatever hardships the people suffered, the sisters shared in their sufferings. The Josephite sisters invested their energies into social welfare activities, building orphanages for children and homes of refuge for immigrants and women.
Mother Mary stood up for what she believed, which brought her into conflict with religious leaders. The tension escalated into conflict over educational matters and as a result, she was excommunicated by the local bishop for insubordination in 1871. The Bishop accused of her of encouraging disobedience and defiance in her schools. The excommunication imposed upon on her was lifted 6 months later, and on his deathbed, the bishop admitted he had done the wrong thing.
In 1883, Mary came into conflict once again with the Church establishment. Another bishop told her to leave his diocese and Mary transferred the headquarters of the Josephite Sisters to Sydney, where she died on August 8, 1909. Before she died at age 67, people of all backgrounds already regarded her as a Saint.
Striving to see Christ
One striking quality about Blessed Mary MacKillop is that she never became bitter against the Church leaders who opposed her so vigorously. Her forgiving attitude was complemented by the outstanding work of her religious congregation. In his homily for her Beatification in 1995 in Australia, Pope John Paul II said of her: "With gentleness, courage and compassion, she was a herald of the Good News among the isolated 'battlers' and the urban slum-dwellers. Mother Mary of the Cross knew that behind the ignorance, misery and suffering which she encountered there were people, men and women, young and old, yearning for God and his righteousness. She knew, because she was a true child of her time and place: the daughter of immigrants who had to struggle at all times to build a life for themselves in their new surroundings. Her story reminds us of the need to welcome people, to reach out to the lonely, the bereft, the disadvantaged. To strive for the kingdom of God and his righteousness means to strive to see Christ in the stranger, to meet him in them and to help them to meet him in each one of us!"
Freedom in desolation
Today's first reading from the Book of Wisdom raises this question for us: Is it not true that in some of the bleakest, most challenging moments of life, we find tremendous freedom? Does this not describe the journey of Blessed Mary MacKillop? How many times has a painful period led us to joy and consolation far beneath the turbulence of the surface?
When I read the other two passages from today's Scriptures: "They did not receive what had been promised but saw it and greeted it from afar and acknowledged themselves to be strangers and aliens on earth, for those who speak thus show that they are seeking a homeland" ( Hebrews 11:13-14 ) , and "Who, then, is the faithful and prudent steward whom the master will put in charge of his servants to distribute the food allowance at the proper time? Blessed is that servant whom his master on arrival finds doing so" ( Luke 12:42-43 ) , I remember Blessed Mary MacKillop, a living exegesis of today's biblical texts. That is the message we have presented in the special Salt and Light Television documentary on Australia's first saint.
Basilian Father Thomas Rosica is the chief executive officer of the Salt and Light Catholic Media Foundation and Television Network in Canada.