天に宝を積む
年間第 18 主日 聖書黙想 2010/8/1 トマス・ロシカ師
今日は、ルカ福音書の財産と蓄えに関するたとえ話が朗読されますが、それに加えて、第一朗読では、コレヘトの言葉の 1 : 2 と 2 : 21-23 が読まれ、単刀直入な表現で人のいのちのはかなさと情け容赦のない時の移ろいをよく分からせてくれます。「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。」(コレヘトの言葉 1:2 ) 「空しい」という言葉は、通常、人が見せかけばかりを気にすることに使われます。しかし、コレヘトの言葉では、別の意味で使われています。
この “vanity” という英語は、 “emptiness” (空虚)とか、 “nothing” (無)を意味しているので、「なんという空しさ」(空しさの中の空しさ)は、「完全な時間の無駄づかい」といった意味になります。コレヘトの言葉(伝道の書)の書き手は、自分を「コレヘト」と呼んでいます。「コレヘト」は「人を集める人」、あるいは「教師」と訳されます。コレヘトは、長いこと生きてきて、自分の業の空しさを見ているので、人生について冷めた見方をします。この書は、 人生で唯一価値があるのは神を知ることである、という単純な真理を以て結ばれています。
訳注:コレヘトの言葉の結び: 12:13 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。
財産と蓄えに関するたとえ話
今日の福音で、ルカ( 12:13-21 )は、対照的な二つの例を示しています。ひとつは、「愚かな金持ち」の例えに象徴される、物質的な財産に人生の中心を置き、それに頼る人々( 16-21 節)であり、もうひとつは、自分たちがまったく神に頼るものであると分かっている人々( 31 節)、徹底的に物質的な財産に執着しないことで天の宝を象徴化している人々の例( 33-34 節)です。
群衆の一人が、遺産の問題に介入することをイエスに求めたため、貪欲や蓄財というテーマが生じます。イエスは介入を断り、会話の内容を、物質主義を戒める教えに変えます。イエスはそれを、有り余る作物を蓄えようとする、金持ちの農園主の物語として示します。その金持ちは、新しい倉、穀物貯蔵庫を建てることにしました。イエスは、農園主が、この過剰な穀物を貧しい人々に分けるべきだと暗示しているようです。
蓄財をどん欲に求めることは、物質を神の場所に据えるばかりでなく、他者のニーズを完全に無視する行為でもあります。このたとえ話は、農園主が労働者を正当に扱わないとか、犯罪的な行いがあったとかいう話ではありません。この農園主は、結局、用心深くて旧弊なのです。では、彼が不正義でないとしたら、一体どのように評価されるのでしょうか? このたとえ話では、彼は愚かな者とされています。彼は全く自分本位に生きています。彼は、自分にだけ語りかけ、自分のために計画を立て、自分一人で(成功を)喜びます。そして、(神に予告された)突然の死によって、愚か者として生きたことが証明されます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」(ルカ 9:25 )
財産と貪欲は、(他の)人々よりも大切なものになります。言い換えると、「所有への病的執着」は、関係性を破壊します。イエスの話の腰を折った人は、自分の不適当なでしゃばりに気づいていません。その人は、自分の内なる世界と個人的な必要に急かされるあまり、外の世界と適切な関係を結ぶことが出来ないのです。
「所有」の破壊的な力
イエスは、この人の「所有への執着」を使って、魂を害する恐れのあることについて話します。この人の家族関係は、物質的な財産のために、明らかに混乱を来しています。この世の財産にだけ頼る人は誰であれ、たとえ、見かけは成功したように見えても、最後には失うことになります。死を迎える時、その人は、財産は豊かに持っていたけれど、無駄な生活を送ってきたことが分かるでしょう。
( 13-21 節)
むやみに欲しがることは、他人のものを不当に得ようと望むこと、すなわち神が他人に与えたものをねたむことです。イエスは、十戒の中の「(隣人の家を)欲してはならない。」という戒めを再び述べたのですが、同時に、人生を形造るのは財産の豊かさではないのだということも述べています。
イエスは心の内を探ります。―あなたの宝はどこにあるのでしょうか? 宝は「心」、すなわち欲望とあこがれを秘めた場所、意思と集中の生まれる場所と、特別な関係があります。わたしたちが、自分の心を第一に向けるものが、わたしたちにとって最も大切な宝なのです。
訳注:出エジプト 20:17 「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
富と貪欲
多くの社会では、富は神の是認のしるしであり、貧困と苦難は神の否認のしるしです。イエスは、富んでいることは悪いことだとは言っていません。 マタイ( 19:24 )、マルコ( 10:25 )、ルカ( 18 : 25 )は皆、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というイエスの言葉を伝えています。しかし、イエスは、金持ちになることは悪いことだとは言っていません。悪を犯すのは貪欲です。貪欲は、富という恵みを、果てしない欲望という重荷に変えることができます。
イエスの警告は、「気をつけなさい。十分気をつけなさい。あなたの所有するものがあなたを所有しないように。人生の価値は『物』などにはありません。」と表現するのが適当かも知れません。イエスのたとえ話は、貪欲が、人生の意味を物質的なものにまで引き下げてしまうことをはっきり警告しています。
生きるための推進力は、「もっと」を探し求めることにあります。すなわち「物」を探し求めることです。
貪欲は、実際に、「わたしの他に、いかなるものも神としてはならない。」という戒め(第 1 戒)と、今日の第 2 朗読のコロサイの信徒への手紙 3:5 にある教えに背いています。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、およびみだらな貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」
繁栄を絶対視する傾向に抗して
イエスの福音は、「繁栄を絶対視する心の傾き」に異議を唱えています。イエスは、物質的な富を非難してはいませんが、富の奴隷になることや富という鎖に捉われることは非難しています。富は、他者と分け合うときに恵みとなり、他者と分け合う知恵のない人々にとっては、躓きとなり、牢獄となります。わたしたちは、所有するものの主ではなく、管理人です。ですから、それを独占していると考えるべきではなく、隣人に対して主の摂理の管理者として行動するように招かれている「手段」であると考えるべきなのです。カトリック教会のカテキズムが思い出させてくれるように、物質的な物は、その普遍的使用目的の原則に沿って、何らかの社会的価値を持っているのです。 [ カテキズム #2403-2404]
「天に宝」を積むことは、天での居場所を確保することに着手することを意味していません。それは、わたしたちの安心の源泉として神に依り頼むことを意味します。そして、わたしたちを知り、わたしたちを受け入れ、わたしたちのいのちに意味を与える神と真正で偽りのない関係を持つことを意味します。わたしたちの「心」のただ一つの目標として神を持つことを意味します。わたしたちは、神の国を求めることをはっきりと約束していて、神が、わたしたちが本当に必要なものを与えて下さると確信しています。(マタイ 6:33 )もし、わたしたちが主を「宝」とするなら、そのときには、わたしたちは、それ以上何も望む必要はありません。他に何も要らないのです。
神に席を譲る
一年前に、教皇ベネディクト 16 世は、 3 番目の回勅「 真理に根ざした愛( Caritas in Veritate )」−真の愛における完全な人間の発展に関して−を出しました。その回勅の第 11 項には、今日の福音のたとえ話のエッセンスが書かれています。
永遠のいのちへの展望がなければ、この世の人間にとって進歩の余地は無くなってしまいます。人間の進歩は、歴史の中に封じ込められて、単なる富の蓄積だけを求めるものになってしまうでしょう。そうして人類は、より高い善のため、また普遍的な慈愛から生まれる偉大で私心のない選択のために奉仕する勇気を失ってしまうのです。人は、自らの力で進歩する訳ではなく、進歩が簡単に得られるはずもありません。歴史の流れの中では、しばしば、制度さえ設ければ人間の進歩への権利を達成するのに充分だという考え方が支持されてきました。
不幸なことには、そういった制度が必要なものを自動的に運んで来てくれるという思い込みが広がりました。現実には、制度だけでは充分ではありません。何故なら、完全な人間の進歩は本来神から与えられた使命(召命)であり、それ故に、その使命には、すべての個々人が連帯しつつ自由に責任を引き受けることが含まれているからです。
更に、そのような進歩を遂げるためには、その人が卓越したビジョンを持っていなければなりません。そのためには神が必要です。神なしでは、進歩は、否定されるか、もっぱら人間に任されるかのどちらかです。そして人間は、自力で自分を救えると思いこむ罠に陥り、人間性を失った形での進歩に終わってしまいます。わたしたちは神との出会いを通してのみ、他者のうちに、単なる被造物以上の何かを見ることが出来るし、他者のうちに神のイメージを見出すことも出来るのです。そして、本当にその彼、または彼女を理解し、「他者を気に掛け、手を差し伸べる」愛において成熟することが出来るのです。
互いに主の優しさを示して
最後に、今週はナジアンズの聖グレゴリオの言葉をかみしめましょう。
兄弟、友人たち、決して神の賜物の悪い管理者になってはいけない。もしもそうなってしまったら、聖ペトロの言葉に耳を傾けなさい。「他の人に属する物を隠す者は、恥じ入りなさい。神の正義の模範に倣いなさい。そうすれば、貧しい者は居なくなる。」
他の人が貧しさに苦しんでいるなら、働いて得た物や金を貯めこまないようにしなさい。
そのようなことをすれば、聖なるアモスが次の言葉で厳しく警告するだろう。「このことを聞け。お前たちは言う、新月祭はいつ終わるのか?(穀物を)売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか?(麦を)売り尽くしたいものだ。」 (訳注:アモス 8 : 4-7 )
倣おうではないか、始めにして最も大切な神の掟を。神は、正しい者にも罪人の上にも雨を降らせ、全ての人の上に等しく太陽を照らして下さる。神は、この世に生きる全ての者を、この大地、泉、水の流れ、そして森へと迎え入れて下さる。神は、空を鳥に与え、水を魚に、いのちに必要なものを全ての被造物に、惜しみなく、限りなく、分け隔てなく、豊かに与えて下さる。これらの誰にとっても必要なものは、神が寛大に与え、何も足りないものは無い。
神がそのようになさるのは、同じ自然の中にある被造物が等しく賜物を受けるためであり、また、ご自分の優しさがどれほど豊かなものであるかをわたしたちに示すためである。
訳注: Gregory of Nazianzus ( c. 329 –390 ) ナジアンズのグレゴリウス:カッパドキア、ナジアンズ近郊の聖人、東方4大博士。司教であった父を助けるため361年頃司祭となり、名説教家として父の教区ナジアンズで晋とを指導した。378年頃コンスタンチノーブルに召され、同地の正統教会を再建し、その司教となったが、辞して帰郷アリウス主義を反駁、ニカイア的信仰表明の確立に尽力した。アポリナウス派に対して、キリストの人性を擁護した。
◇◇◇
聖書朗読:
コヘレトの言葉 1 : 2 、 2 : 21-23 : 1:2 コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。 2:21 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。 2:22 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。 2:23 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
コロサイ人への手紙 3 : 1-5 、 9-11 : 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
ルカ 12 : 13-21 : 「愚かな金持ち」のたとえ
(そのとき) 12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
Storing up treasures in heaven
A Biblical Reflection for the Eighteenth Sunday in Ordinary Time, By Father Thomas Rosica, CSB
In addition to setting the stage for Luke's Gospel parable on possessions and hoarding, today's first reading from Ecclesiastes [1:2; 2:21-23] drives home the fleeting nature of life and the inexorable passage of time with blunt realism: “Vanity of vanities…, vanity of vanities, all is vanity” [Ecc 1:2]. The word “vanity” usually refers to an excessive love of one's appearance, but in the book of Ecclesiastes it has a different meaning.
The English word means “emptiness” or “nothing”, so a “vanity of vanities” means something like “a complete waste of time.” The author of Ecclesiastes calls himself “Qoheleth,” which is translated “one who assembles” or “teacher”. He is cynical about life, having lived a long time and seen the futility of much of his work. His book ends with a simple truth: the only worthwhile thing about life is the knowledge of God.
A parable on possessions and hoarding
In today's Gospel, Luke [12:13-21] has joined together sayings contrasting those whose focus and trust in life is on material possessions, symbolized by the rich fool of the parable [vv 16-21], with those who recognize their complete dependence on God [v 31 ], those whose radical detachment from material possessions symbolizes their heavenly treasure [vv 33-34].
The subject of coveting or hoarding arises because of a request of Jesus by someone in the crowd to intervene in a matter of inheritance. Jesus refuses and turns the conversation into a teaching against materialism. He illustrates this with a story about a prosperous farmer who decides to hoard his excess crops. The rich man decides to build extra barns or grain silos. Jesus seems to be suggesting that the farmer should have shared his extra grain with the poor.
The craving to hoard not only puts goods in the place of God but in an act of total disregard for the needs of others. The parable is not about the farmer's mistreatment of workers or any criminal actions on his part. The farmer is, in the end, careful and conservative. So if he is not unjust, what is he?
The parable says he is a fool. He lives completely for himself. He only talks to himself, plans for himself and congratulates himself. His sudden death proves him to have lived as a fool. “For what does it profit a man if he gains the whole world and loses or forfeits himself?” [9:25]
Possessions and greed become more important than people. In other words, “possession fixation” is destructive of relationships. The man who interrupts Jesus' teaching is unaware of his inappropriate intrusion. He cannot connect appropriately with his outer world because of the urgency of his inner world and personal needs.
Destructive power of possessions
Jesus uses this man's “possession fixation” to talk about something that can harm the soul. The man's family relationships are obviously in turmoil because of material possessions. Whoever depends solely on worldly goods will end up by losing, even though there might seem to be an appearance of success. Death will find that person with an abundance of possessions but having lived a wasted life [vv 13-21].
To covet is to wish to get wrongfully what another possesses or to begrudge what God gave him. Jesus restates the commandment “do not covet,” but he also states that a person's life does not consist in the abundance of his possessions. Jesus probes the heart — where is your treasure? Treasure has a special connection to the heart, the place of desire and longing, the place of will and focus. The thing we most set our heart on is our highest treasure.
Wealth and greed
In many societies, wealth is a sign of God's approval, and poverty and hardship are the signs of God's disapproval. Jesus does not say that being wealthy is wrong. True, Matthew, Mark and Luke all report Jesus' words, “It is harder for a camel to go through the eye of a needle than it is for a rich man to enter the Kingdom of God …” But, Jesus does not say it is wrong to be rich. It is greed that is the culprit. Greed can turn the blessings of wealth into the burden of desire for more.
Jesus' warning can properly be expressed as, “Be careful… very careful… that your possessions do not possess you. Life is not about things!” Jesus' parable is a distinct warning that greed can lead to a point where life's meaning is reduced to material things.
The driving force of living becomes a search for “more” — a search for “things”. Greed, in fact, breaks the commandment, “You shall have no other gods before me” and thus the statement in Colossians 3:5 ( today's second reading ) : “Put to death, then, the parts of you that are earthly: immorality, impurity, passion, evil desire, and the greed that is idolatry.”
Challenging the prosperity gospel mentality
The gospel of Jesus challenges the “prosperity gospel mentality.” Jesus is not speaking against material wealth, but condemns being enslaved to and enchained by wealth. It becomes a blessing when it is shared with others, and it becomes an obstacle and a prison for those who do not have the wisdom to share it with others. We are not owners but rather administrators of the goods we possess: these, then, are not to be considered as our exclusive possession, but means through which the Lord calls each one of us to act as a steward of His providence for our neighbor. As the Catechism of the Catholic Church reminds us, material goods bear a social value, according to the principle of their universal destination [#2404].
Storing up “treasures in heaven” does not mean setting out to make sure of a place in heaven. It means relying on God as the source of our security. It means having a genuine and sincere relation with God who knows us, accepts us, and gives meaning to our lives It means having God as the singular object of our “heart.”. We are totally committed to seeking out God's kingdom, confident that God will provide us with what we truly need [Mt 6:33]. If we have the Lord as our “treasure,” then there is nothing more we need desire. We can forego anything else.
Making room for God
One year ago, Pope Benedict XVI published his third encyclical letter “Caritas in Veritate” – On Integral Human Development in Charity in Truth. Paragraph 11 of that letter addresses the essence of today's Gospel parable:
Without the perspective of eternal life, human progress in this world is denied breathing-space. Enclosed within history, it runs the risk of being reduced to the mere accumulation of wealth; humanity thus loses the courage to be at the service of higher goods, at the service of the great and disinterested initiatives called forth by universal charity.
Man does not develop through his own powers, nor can development simply be handed to him. In the course of history, it was often maintained that the creation of institutions was sufficient to guarantee the fulfillment of humanity's right to development.
Unfortunately, too much confidence was placed in those institutions, as if they were able to deliver the desired objective automatically. In reality, institutions by themselves are not enough, because integral human development is primarily a vocation, and therefore it involves a free assumption of responsibility in solidarity on the part of everyone.
Moreover, such development requires a transcendent vision of the person, it needs God: without him, development is either denied, or entrusted exclusively to man, who falls into the trap of thinking he can bring about his own salvation, and ends up promoting a dehumanized form of development. Only through an encounter with God are we able to see in the other something more than just another creature, to recognize the divine image in the other, thus truly coming to discover him or her and to mature in a love that “becomes concern and care for the other.”
Showing one another the Lord's kindness
Finally, let us make the words of St. Gregory Nazianzen our own this week:
Brethren and friends, let us by no means be wicked stewards of God's gift to us. If we are, we will have to listen to Saint Peter saying: Be ashamed, you who hold back what belongs to another, take as an example the justice of God, and no one will be poor.
While others suffer poverty, let us not labor to hoard and pile up money, for if we do, holy Amos will threaten us sharply in these words: Hear this, you who say; Where will the new moon be over, that we may sell; and the Sabbath, that we may open up our treasures?
Let us imitate the first and most important law of God who sends his rain on the just and on sinners and makes the sun shine on all men equally. God opens up the earth, the springs, the streams and the woods to all who live in the world. He gives the air to the birds, the water to the fish, and the basic needs of life abundantly to all, without restriction or limitation or preference. These basic goods are common to all, provided by God generously and with nothing lacking. He has done this so that creatures of the same nature may receive equal gifts and that he may show us how rich is his kindness.