アブラムとイエスは祈り方を教える

年間第 16 主日 聖書黙想 2010/7/18  トマス・ロシカ師

 

聖書に出てくるソドムとゴモラの町はアブラハムの甥のロトの故郷で、罪にまみれていました。イスラエルの伝承も、ソドムとゴモラの滅亡はこれらの町の邪悪さの故だったという点で一致しています。しかし、この邪悪さの本質に関しては、伝承の内容はさまざまです。

 

初期の解釈の多くは、ソドムの罪は同性愛であるとしていました。(創世記 19:4-5 ) 同性愛は、ソドムを語源として sodomy (男色)とも呼ばれています。しかし、イザヤ書( 1:9-10,3:9 )によれば、それは、社会正義の欠如を意味しました。エゼキエル( 16:46-51 )は、それは貧しい人々の無視であると言い、またエレミア( 23:14 )は、不道徳全般を指すと考えました。更なる研究によって、ソドムの罪は「もてなしの悪さ(不親切)」という、聖書の世界では重大な罪とされるものであることが明らかになりました。それは、弱く、寄る辺のない旅人を襲う行為です。当時の正義と伝統によれば、旅人は危険から護られなければならなかったのです。(エゼキエル 16:49

 

聖書の中のかけひき

今日の第一朗読の創世記 18 20-32 には、二つの町の滅亡に関して、神とアブラハムが交わす有名な「かけひき」が描かれています。アブラハムは、神が、自分の甥の住む町を裁こうとしていると聞き、一般的な質問で始めます。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」( 23 節) アブラハムは、神の良心に訴えます。それは、強い人に対して、正しいことをさせようと説き伏せるときのやり方です。

 

神は、 50 人でスタートしました。もし正しい者が 50 人いるならば、ソドムは滅ぼされません。そしてアブラハムは、徐々に、神を 10 人の場合にまで引き下ろします。神がその問題について語る口調には微妙な変化が表れます。神は、もしその町に、一定の人数の正しい者がいるなら滅ぼさないと言います( 28-32 )。しかし、神の最初に答えたとき、すなわちアブラハムが 50 人の正しい者を基準に問いかけたときには、「わたしは滅ぼさない」とは言わず、「その者たちのために、町全部を赦そう。」( 26 )と言っています。

 

アブラハムが、ソドムの罪を取り成す興味深い物語は、実は数のゲームではなく、腐敗堕落した共同体の中にいる正しい者たちを救う意味についての物語なのです。アブラハムの熱心な取り成しは、聖書の信仰の中心テーマを指し示しています。それは、不道徳な社会・文化と、罪深い人々という状況にあっても決して希望を捨てない、神の不動の愛です。キリスト教の神学は、人類は一人の正しい人のいのちによって救われると教えています。

 

良い交渉の要素

良い交渉に欠かせない要素は何でしょうか? まず、要求あるいは希望をはっきりと言い表し、伝えなければなりません。次に、要求や希望を支える論理を提示して、合意を得なければなりません。そして三番目に、希望や要求を述べる人は、ねばり強く交渉しなければいけません。結局必要とされるのは、明快さ、論理、そしてねばり強さです。あきらめてはいけないのです!

 

ブラハムは、神への祈りにこの三つのすべてを込めました。アブラハムが示したのは、ロトの信仰と高潔さであって、ロトが自分の血縁関係にあるという事実ではありませんでした。アブラハムは、一度も自分の要求をはっきりと口にしてはいませんが、神に対して肝心なことを明快に伝えています。

すなわちそれは、「神を賛える道徳的な人々を救って下さい!」 そして、「神に忠実な人々を裏切らないで下さい。」 そして、「憐れみをもって他者をもてなす人々に憐れみをかけて下さい。」 です。

アブラハムは、 10 という数字で神と合意に達するまで、ねばり強く交渉を続けました。

 

10 人という数でわたしたちが知るのは、ロトの家族の人数だけではありません。それは、信仰の共同体を形づくるのに必要な、最小限の信者数を明らかにしています。それは、ユダヤ教の伝統の礼拝定足数(ミニヤン)の存在理由を示します。ユダヤ教は、何かの宗教義務に必要なユダヤ人成人男性の定数を 10 人と定めています。 10 人は、公の祈りに必要とされる最小人数であり、ユダヤ教会(シナゴーグ)での礼拝に必要な最小人数でもありました。

 

神に祈るとき、わたしたちはアブラハムの模範を深く心を留めるべきです。はっきりとした望みを持って祈り、神のご意思を探し求め、そして祈り続けなければなりません。たとえ、何か小さなことを願って祈るときにでもです。どうすれば、わたしたちは、祈りにおいて明確で、その意味するところにおいて論理的で、嘆願することにおいてねばり強くなれるのでしょうか? どうすれば、わたしたちの祈りが、素晴らしいアブラハムの祈りのようになるのでしょうか?

 

キリスト者の生活における祈りの重要性

ルカ福音書に表れる、祈るイエスの姿は、わたしたちにとっての模範です。イエスは、祈りのそれぞれの瞬間において、神の力に完全に自分を明け渡したまま、人間家族と神との偉大な対話の物語を生き抜きます。わたしたちは止むことなく祈らなければなりません。祈りは神への信仰のしるしです。

祈りは、自分の望みを通すために神にプレッシャーを加えるものではありません。真正の祈りは、神の霊の働きに心を開き、神の望みに心を従わせてくれます。そして、わたしたちを真の弟子にし、イエスに対し、またイエスを送ってくださった御父に対して従順な者にしてくれます。祈りは、キリスト者の生活においてイエスに従う道筋の一つです。

 

祈りに関する三つのエピソード

ルカは、今日の福音の場面で、祈りについての三つのエピソード( 11:1-13 )を提示しています。最初( 1-4 は、イエスが弟子たちにキリスト者の共同体の祈りである「主の祈り」を教える物語。次いで、( 11:5-8 祈りにおけるねばり強さの大切さ。そして三つ目( 11:9-13 は、祈りの効果についてです。

 

マタイ福音書では、「主の祈り」は「山上の説教」の中に現れます(マタイ 6:9-15 )。ルカ福音書の、より短いバージョンが現れるのは、(ルカ 11:1-4 祈っておられたイエスに、弟子たちが、(洗礼者)ヨハネが弟子に教えたように、自分たちにも祈りを教えてくださいと頼んだからです。弟子たちは遠くからイエスを見ていて、その祈りが神と強く向き合い、親密に結びついていることを鋭敏に感じ取ったのです。イエスは、弟子たちの願いに応えて、「主の祈り」を教えます。イエスは、キリスト者が共に祈るときの祈りの例を示します。その祈りは、父である神を強調し、神こそが、キリストに従う者に、毎日の必要な糧( 3 節)、罪の赦し( 4 節)、終末時の救い( 4 節)を与えるただ一人の御方だと認めるものです。

 

共同体の祈り

イエスが、「主の祈り」を教えたのは、使徒の役割を与えられた 12 人です。それは、彼らの個人的な回心のためだけでなく、既に共同体に対して共同責任を負っている人たちだったからです。この祈りは、使徒的な祈りです。なぜなら、この祈りは複数の人々の間で唱えられ、一つの民族、共同責任、連帯、すなわち他者との絆を念頭に入れて祈ることを前提としているからです。

 

「御国が来ますように。」と祈るとき、わたしたちは、勝利、すなわち愛する神による至高の支配が、最早、信仰に頼って絶望的にすがりつく単なる希望ではなく、すべての人間的な事柄の中で明白な現実となる日を深く待ち望んでいることを表明します。わたしたちの魂は、神の栄光がすべての創造物のうちに存在することを完全に証しするまで、真に満たされることはありません。次の言葉は、わたしたちの心からの願いを表わしています。「悪と死の支配は、いつ終わるのですか?」

 

日ごとの糧を願い求めるとき、わたしたちは、本当は食べ物以上のものを求めています。わたしたちは、生活に必要なすべてのものをいのちの創造主に求めています。「神よ、わたしたたちが、いのちの賜物を味わうために必要なものをお与え下さい。今日のパン、明日のパンを、共同体として(あなたと結ばれた)わたしたちを養うために。」

 

わたしたちは、神に向って、自分に負い目のある人を皆赦しますからわたしたちの罪を赦してくださいと願います。これは、ことによると、財産が共同体の交わりの邪魔をしないようにというルカの気遣いを反映しているのかも知れません。最後の嘆願は、おそらく終末論的なものでしょう。「わたしたちを誘惑におちいらせず…」。言い換えれば、死を前にした、悪による、最後の、大きな、究極の試練と苦痛から救ってください、という願いです。

 

「主の祈り」は、貧しい人たちの祈りとなり、とぼとぼ歩く人たち―すなわち、疲れ果て、飢え渇き、信仰と生きる目的と力を求めてもがき苦しむ人たちの祈りになります。ことによると、これはわたしたちが覚える最初の祈りであり、また、いのちが終わるとき、目を閉じる前に唱える最後の祈りになるかも知れません。

 

神からの良い贈り物の保証

真夜中の友達のたとえ話は、ルカ福音書以外に、新約聖書のどこにも見あたりません。このメッセージも祈りについて語っており、その要点は、もしも友達が、しつこくずうずうしい訴えに応えてくれるのなら、ましてや、わたしたちに神の国を与えよう( 12:32 )と望まれる神が応えて下さらない筈がない、ということです。朗読の結びの節( 11:9-13 )は、その前の節を元にしています。類似の例えは友達から両親に移ります。もし両親が良い食べ物を与えるのなら、ましてや、神は、はるかに優ってそうなさることでしょう。祈りとは、絶えることなく願い、探し求め、扉を叩き続けるものです。しかし、そうは言っても、この「しつこさ」は親子の関係の中に(既に)存在していて、良い贈り物を保証してくれます。真正の祈りは、神の霊の働きにわたしたちの心を開き、わたしたちを神の望みに一致させ、さらにわたしたちを真の弟子として、イエスと、イエスを送った御父に従順な者とします。

 

この黙想を終わるにあたり、今日の福音の祈りについてのルカのすばらしい教えに関する二つの考えを分かち合いたいと思います。第一は、「カトリック教会のカテキズム」の No.239 です。

神を『父』と呼ぶことにより、信仰のことばはおもに二つの面を示します。すなわち、神はいっさいのものの根源で、超越的権威であること、また同時に、そのすべての子らを思いやり、深く配慮されることです。親としてのこの神のいつくしみは、母にもたとえることができます。この表現によって神の内在性と、神とその被造物間の親密さがいっそうよく表されます。このように、信仰のことばは、人間にとって、ある意味で神の最初の代理者である親との人間体験から引き出されています。しかし同時に、その体験を通して、人間の親が誤りやすく、父性と母性の姿をゆがめかねないこともはっきりしています。ですから、神は人間の性の区別を超越することを指摘しておかなければなりません。神は男でも女でもなく、神なのです。人間の父性と母性の起源、尺度ではあっても、それを超越した存在です。 (詩編 27:10; エフェソ 3:14; イザヤ 49:15 )  神ほどに父であるものは、一人もいません。」

 

今日の福音に関するジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の説教の一つにも注目してみましょう。

この偉大な枢機卿は 19 世紀に、今日もなお、高らかに、はっきりと響く言葉を書いています。

「彼(イエス)は、祈りを与え、それを使いました。使徒たちもそれを使いました。それ以降、すべての聖人たちがそれを使ってきました。わたしたちも、それを使うと彼らの仲間入りをしたように思います。

歴史上有名な人物の、家や家具、手書き原稿、あるいはまさにその人のものであった本などを見て、その人に近づいたように思わない人はいないでしょう。このようにして、主の祈りは、キリストに、そしてあらゆる時代のキリストの弟子たちに、わたしたちを近づけてくれます。」

 

「ですから、過ぎ去った時代の善良な人々が、この形式の祈りはとても神聖なものと考えたことも理解できますし、その祈りを唱えると何か特別なお恵みが失われてしまうようで、頻繁に唱えることはできないと思ったとしても不思議ではありません。わたしたちもまた、それをそんなに頻繁に使うことはできません。その祈りは、それ自体のうちに、キリストがわたしたちの願いに耳を傾けることを求める、ある種の嘆願が含まれています。それはそんなに頻繁に使えないのです。それを祈るためには、自分の思考をその嘆願に集中し、それをくり返し祈るときには、唇だけでなく、精神も働かせなければならないからです。そして、主の祈りに含まれる真理は、教会が教える他の多くの祈りにおいても、真理の基準となっています。それは詩編においても真理であり、使徒信条でも同じことが言えます。それらのすべては、それを使っていた過去の聖人たちの記憶によって聖なるものとなっています。わたしたちは、いつの日か天国で、これらの聖人たちとまみえることを願っています。」

 

 

 

◇◇◇

 

 

聖書朗読

 

 

創世記   18: 20 [その日] 主は言われた。 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 :21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

:22   その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。 :23   アブラハムは進み出て言った。 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 :24   あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 :25   正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

:26   主は言われた。 「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」 :27   アブラハムは答えた。 「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。

:28   もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」 主は言われた。 「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」 :29   アブラハムは重ねて言った。 「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」 主は言われた。 「その四十人のためにわたしはそれをしない。」 :30   アブラハムは言った。 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」 主は言われた。 「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」 :31   アブラハムは言った。 「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」 主は言われた。 「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」 :32   アブラハムは言った。 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」 主は言われた。 「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」

 

使徒パウロのコロサイの教会への手紙   2:12 [皆さん、あなたがたは] 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 :13   肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 :14   規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

 

ルカによる福音   11:01 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 :02   そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。

御国が来ますように。

:03   わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

:04   わたしたちの罪を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

:05   また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。

:06   旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』

:07   すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』

:08   しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

:09   そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

:10   だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

:11   あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

:12   また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。

:13   このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 


Abraham and Jesus Teach Us to Pray

Biblical Reflection for 17th Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB

    

TORONTO, JULY 20, 2010 Zenit.org .- The biblical cities of Sodom and Gomorrah, home to Abraham's nephew, Lot, were full of sin. Israelite tradition was unanimous in ascribing the destruction of Sodom and Gomorrah to the wickedness of these cities, but tradition varied in regard to the nature of this wickedness.

 

In many earlier interpretations, the sin of Sodom was homosexuality Genesis 19:4-5 , also known as sodomy; but according to Isaiah 1:9-10; 3:9 , it was a lack of social justice. Ezekiel 16:46-51 described it as a disregard for the poor, whereas Jeremiah 23:14 saw it as general immorality. Further studies have revealed that the sin of Sodom the grievous sin of inhospitality in the biblical world -- an assault on weak and helpless visitors who, according to justice and tradition ought to have been protected from danger Ezekiel 16:49 .

 

Biblical bargaining session

Today's first reading from Genesis 18:20-32 presents the famous bargaining session between God and Abraham over the destruction of the two cities. When Abraham heard that God was going to judge the cities where his nephew lived, he began with a general question: Will you destroy the innocent along with the guilty 23 ?   Abraham appeals to God's better nature, as one does when one is trying to persuade a powerful person to do the right thing!

 

God starts at 50, if there are 50 righteous men, Sodom will not be destroyed, and Abraham gradually brings God down to 10. A subtle difference emerges in the way God speaks of the matter: God says that if a certain number of righteous persons are found in the city, God will not destroy it 28-32 . But the first time God speaks, after Abraham has rested his case on the basis of the righteous 50, God does not say, "I will not destroy it," but that "I will spare the whole place for their sake" 26 .

 

This intriguing story of Abraham interceding for Sodom is not really about a numbers game but about the significance of salvation for the righteous in a corrupt community. Abraham's fervent intercession points to the central theme of biblical faith: The steadfast love of God that refuses to be frustrated even in the context of immoral societies and cultures and sinful people. Christian theology teaches us that humanity is saved by the life of one righteous person!

 

Elements of good negotiation

What are the essential elements of good negotiation? First, demand or request must be clearly articulated and understood. Second, the logic behind the demand or request must be presented and agreed upon. Third, the person requesting or demanding must persist in the negotiation. What are ultimately required are clarity, logic and persistence. We cannot give up!

 

Abraham did all three in his prayer to God. Abraham pointed to Lot's faith and character, not to the fact that Lot was related to him by blood. While he never clearly stated his request, Abraham clearly made his point to God: Save those who worship you and act morally! Be faithful to those who are faithful to you; be merciful to those who treat others with mercy. Abraham persisted until God and he agreed upon the number 10 18:26-32 .

 

The number 10 did not only tell us the size of Lots family; it revealed the minimum number of believers necessary to form a community of faith. It gave the raison d'être for a minyan in the Jewish tradition. Judaism refers to the quorum of 10 male Jewish adults required for certain religious obligations. Ten was the minimum number needed for public prayer, and the minimum number needed to hold services at a synagogue.

 

When we pray to God, we should take Abraham's example to heart. We must pray with a clear request, seek God's will, and persist in prayer, even when we pray for something small. How are we clear in our prayer, logical in its implications, and persistent in its petition? How does our prayer reflect these wonderful Abrahamic qualities?

 

Centrality of prayer in Christian life

Throughout Luke's Gospel, Jesus at prayer is a model for us. In each prayerful moment, Jesus lives out the story of God's great dialogue with the human family by remaining totally open to the power of God. We must pray unceasingly, for prayer is a sign of our faith in God. Prayer is not something that we use to put pressure on God to get our own way. Authentic prayer opens us up to the action of God's Spirit, bringing us in line with God's desires, and making us into true disciples, obedient to Jesus and to the Father who has sent him. Prayer becomes one of the ways by which we follow Jesus in the Christian life.

 

Three episodes concerned with prayer

In today's Gospel scene, Luke presents three episodes concerned with prayer 11:1-13 . The first 1-4 recounts Jesus teaching his disciples the Christian communal prayer, the "Our Father"; the second 11:5-8 , the importance of persistence in prayer; the third 11:9-13 , the effectiveness of prayer.

 

The Matthean version of the "Our Father" occurs in the "Sermon on the Mount" 6:9-15 ; the shorter Lucan version is presented while Jesus is at prayer and his disciples ask him to teach them to pray just as John taught his disciples to pray 11:1-4 . His disciples watch him from afar, and are keenly aware of the intensity and intimacy of his prayer with God. Jesus responds to them by teaching them the Our Father. Jesus presents them with an example of a Christian communal prayer that stresses the fatherhood of God and acknowledges him as the one to whom the Christian disciple owes daily sustenance 3 , forgiveness 4 , and deliverance from the final trial 4 .

 

The prayer of the community

The "Our Father" is taught to the Twelve in their role as disciples, not just as individuals to be converted but also as persons already co-responsible for the community. This prayer is an apostolic prayer, because it is said in the plural and takes for granted one's awareness of a people, of co-responsibility, of solidarity, linking each of us to the other.

 

When we pray "thy kingdom come," we reveal our deepest longing to see the day when the triumphant, sovereign lordship of our loving God will no longer be a mere hope clung to desperately by faith, but a manifest reality in all human affairs. Our souls can never be entirely content until God's honor is fully vindicated in all creation. These words utter a heartfelt plea: When will the reign of evil and death end?

 

When we beg for bread, we are really pleading for more than food. We beg the author of life for all the necessities of life. "God, give us what we need in order to enjoy the gift of life … bread for today and bread for tomorrow, to sustain us as a community."

 

We ask God to forgive our sins as we forgive everyone their debts to us. This may possibly reflect Luke's concern that possessions not hinder community fellowship. The final petition is most likely eschatological: Do not lead us into trial; i.e., the final, great and ultimate test and agony of evil before the end.

 

The "Our Father" becomes the prayer of the poor, of those who plod along -- weary, hungering and struggling for faith, meaning and strength. It is perhaps the first prayer we ever learn, and the last prayer we ever say before we close our eyes on this life.

 

God's assurance of good gifts

The parable of the friend at midnight is found nowhere else in the New Testament. Its message, too, is about prayer and its point is that if our friends answer importunate or shameless appeals, how much more sill God who desires to give us the kingdom 12:32 . The concluding section 9-13 builds on the previous section. The analogy moves from friends to parents: if parents give good gifts, how much more so will God. Prayer is to be continual asking, seeking, knocking, but even so, this persistence is within a parent-child relationship, which assures good gifts. Authentic prayer opens us up to the action of God's Spirit, bringing us in line with God's desires, and making us into true disciples, obedient to Jesus and to the Father who has sent him.

 

I conclude this reflection by offering you two thoughts on Luke's great lesson on prayer in today's Gospel. First, from the Catechism of the Catholic Church, No. 239: "By calling God 'Father', the language of faith indicates two main things: that God is the first origin of everything and transcendent authority; and that he is at the same time goodness and loving care for all his children. God's parental tenderness can also be expressed by the image of motherhood, cf. Is 66:13; Ps 131:2. which emphasizes God's immanence, the intimacy between Creator and creature. The language of faith thus draws on the human experience of parents, who are in a way the first representatives of God for man. But this experience also tells us that human parents are fallible and can disfigure the face of fatherhood and motherhood. We ought therefore to recall that God transcends the human distinction between the sexes. He is neither man nor woman: he is God. He also transcends human fatherhood and motherhood, although he is their origin and standard: cf. Ps 27:10; Eph 3:14; Is 49:15 no one is Father as God is Father."

 

I also draw your attention to one of Cardinal John Henry Newman's homilies on today's Gospel. The great cardinal wrote in the 19th century words that still ring loud and clear today: "He Jesus gave the prayer and used it. His Apostles used it; all the Saints ever since have used it. When we use it we seem to join company with them. Who does not think himself brought nearer to any celebrated man in history, by seeing his house, or his furniture, or his handwriting, or the very books that were his? Thus does the Lord's Prayer bring us near to Christ, and to His disciples in every age.

 

"No wonder, then, that in past times good men thought this Form of prayer so sacred, that it seemed to them impossible to say it too often, as if some especial grace went with the use of it. Nor can we use it too often; it contains in itself a sort of plea for Christ's listening to us; we cannot, so that we keep our thoughts fixed on its petitions, and use our minds as well as our lips when we repeat it. And what is true of the Lord's Prayer, is in its measure true of most of those prayers which our Church teaches us to use. It is true of the Psalms also, and of the Creeds; all of which have become sacred, from the memory of saints departed who have used them, and whom we hope one day to meet in heaven."

 

 

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