聖書的もてなしの作法
年間第 16 主日 聖書黙想 2010/7/18 トマス・ロシカ師
もてなしとは、何を意味しているのでしょうか? 聖書の物語では、もてなしを、人間の義務であり、また憐みの業であると讃えています。砂漠の民「ベドウィン」のもてなしは、そこで生きていくために必要な行為です。そして、この行為(もてなし)が全ての人にとって等しく必要とされることから、どんな客であっても、どんな主人からももてなしを受けることが当たり前になっているのです。客が、一旦その家の主人に受け入れられれば神聖な存在となり、たとえ家族の一員のいのちを犠牲にしても危険から護られなければなりません。
善い主人は、客に、自分の家族が一度も食べたことのないようなごちそうを作ります。主人が客を護る義務は、ソドムのロト(創世記 19:1-8 )やギブアの男(士師記 19:16-24 )の物語に例証されています。
ヨブはもてなしを誇っています。(ヨブ記 31:32 ) 神は寛大で思いやりのある主人に違いありません。( 詩篇 15:1; 23:5 )
列王記には、もてなしについて語る物語がたくさんあります。(列王記下)第 4 章の四つの物語はどれも、神の力が、預言者エリシャを通して、何らかの方法で絶望的な状況に介入し、その状況をいのちの言葉で粉々にうち砕くさまを描いています。
これらの物語のうちに、シュネム(新約聖書に出てくる北イスラエルのナインの村から、丘を一つ越えた所にある)の村の、一組の夫婦の物語があります。その夫婦は、預言者エリシャに食べ物と宿を用意しました。エリシャは、その代わりに、長い結婚生活にもかかわらず子供が出来なかった夫婦に男の子が生まれると約束します。
この夫婦は、見知らぬひと(エリシャ)が神に献身する姿、すなわちその祈りや周囲との関わり方に心を打たれ、彼の世話をします。この夫婦のすることは、最初はきわめて単純に見えます。とにかく、その夫婦は有力者のようです。にもかかわらず、二人はふだんの仕事や私生活を脇に置いて、エリシャの世話をします。最初は食事に招き、それから寝る場所を用意します。
そして彼らは、与えたものへの返礼として、あまりにも多くのものを受けました。彼らは、子のない苦しみの歳月に換えて新しい命を約束されます。エリシャへの彼らの贈り物は、予期できないほど大きなものに変わって戻って来ました。
アブラハムとサラはその世界を歓迎する
今日の第一朗読、創世記 18 : 1-10 は、アブラハムを、気前の良い、もてなし上手な主人として紹介しています。このチャーミングな聖書の物語では、アブラハムとサラは、マレムの樫の木の所で、両手を広げて神の使いたちを歓迎しました。アブラハムは主人として、足を洗う水を持って来させ、休むために木陰を用意します。食事はごちそうですが、ユーモラスに「わずかなパン」と書かれています。 (註:新共同訳では「何か召し上がるもの」と訳されている。) それは三セアの小麦粉、凝乳、乳、選りすぐった子牛などでした! サラは天幕に残っています。社会的習慣で、男性客と同席することを禁じられていたのです。サラは料理をし、そして、9ヶ月後に約束は成就して、息子のイサクが誕生します。
マレムの樫の木の下での屋外の食事の間に、入念に練られた筋書きに添って、神の御言葉が伝えられます。もてなしは、入念な準備を必要とする、一つの芸術ともいえます。マレムの見知らぬ人たち(聖書の読者は、神と天使たちだと分かっていますが、)は、夕食にやって来て、あるメッセージを伝えます。アブラハムとサラに告げる「不妊の人は喜ぶであろう」という約束です。
アブラハムのもてなしは、少し気前がよすぎて、やりすぎだと思われるかも知れません。しかし、中東に伝わる厳しい伝統を決して忘れてはなりません。もてなしに関するキリスト者の確信、すなわち、客の中にキリストを見るという確信は、中東にその源を発するのです。 わたしたちの会話の一つ一つを、キリストは、黙って聞いておられるのです。
新約聖書における「もてなし」
「もてなし」にあたるギリシャ語は、 philanthropia で、人間の愛と優しさを意味します。新約聖書の中で「もてなし」の徳は讃えられ、わたしたちがそれによって裁かれることになる慈善の業(マタイ 25:35 以降)のうちに数えられています。イエスは、もてなしに頼ります。(マルコ 1:29 以降、 2:15 以降他)
イエスは、たとえ話の中で、親切にもてなすことを重要視しています。(ルカ 10:34-35 、 11:5 以降他) 神のもてなしは、そのメッセージのなくてはならぬ大事な部分です。(神の寛大さについて、ルカ 14:16 以降、 12:37 、 13:29 他参照) イエスは住む家を持たず、しばしば客となりました。(ルカ 7:36 、 9:51 以降、 10:38-39 、 14:1 以降)
パウロは旅の間、最初にユダヤ人のもとを訪れてそこに滞在し、ユダヤ人に拒否されたときだけ異邦人のもとに滞在するのがならわしでした。(使徒言行録 14:28 、 15:33 、 16:15,34 、 17:1 以降、 18:3,27 、 21:16 ) 教会の急速な成長と拡大に伴って組織化が必要になり、 4 世紀のアンティオキアでは、日々、 3000 人のやもめと病人と異邦人の世話をしていたと言われています。司教とやもめは、私的にも公的にも特別に手厚くもてなすことになっていました。後に、大きな教会や修道院がホスピスを設立し、そこが病人の世話に力を入れるようになって、病院へと発展しました。
ベタニア風のもてなし
今日の福音は、ベタニアのマルタとその姉妹マリアの楽しい物語です(ルカ 10:38-42 )。ルカ福音書のこの物語は、師の言葉を聞くことの大切さと女性たちへの配慮を描いています。このマリアとマルタの福音物語は、女性がどのように行動するべきかの基準を示すためによく用いられてきました。物語が示す真理は、だれがどの役割を果たすべきなのかは大した問題ではない、ということです。神は、わたしたちが如何にしっかりと義務を遂行するかを見ているだけではないと、物語は指摘します。女であれ、男であれ、人は忙しさのために自分を見失うべきではありません。ベタニアのマリアはそれがわかっていました。
マルタは、客をもてなすことに対する社会や文化の決まり事が彼女に課した、さまざまな要求に捕らわれすぎているのです。実際には、必要なことはわずか―あるいはただ一つです。それなのに、もてなしについてのマルタの心配と配慮は、社会的な要求に沿うことに、また完璧で気前のよいもてなしの鑑として輝きたいという主人(女主人)としての願望を満たすことに、比重が置かれているのです。
39 節は独特のイメージを示します。マリアは主の足もとに座っています。 1 世紀のパレスチナのユダヤ社会を背景にすると、女性が、主の足もとで、弟子のような態度をとるなどということは、まったく異常なことです(ルカ 8:35 、使徒言行録 22:3 参照)。第 3 福音のこの箇所は、女性たちに対するイエスの独特な態度を示しています。
能動性?受動性?それとも感受性?
主の弟子であるベタニアのマリアは、人を迎えるために最も大切なものを選びました。それは彼女がそこに居ること、そして完全に相手に注目することです。それは、客の方が輝くためです。マルタとマリアは、永遠に、わたしたちがいつも選択に迷う二つの生き方の象徴です。わたしたちが生き抜くために、目前の問題、疑問、真実に立ち向かう時、能動性はその楯となり得ます。もし、わたしたちが、意義のある活動に戻れるようになりたいなら、単に黙想するか、距離を置いてみるか、あるいは塾考するかしなければならない時もあります。
この福音物語のポイントは、能動性に対する受動性の緊張関係にはなく、感受性にあります。
他者を、自分の家や共同体に迎え入れるのに必要なただ一つのものは、その人たちに対して存在することと、今日の福音でマリアがしたように、その人たちが言いたいことに耳を傾けることです。
もてなしの敵
これまでのところ、もてなしのプラスの側面や要素、表現について考えてきました。しかし、もてなしには敵があります。それは、自我とプライドです。自分の事ばかり考え、自分の問題や困難に埋没し、あるいは用心深く自分の持ち物を失わないようにし、自分の暮らしや富から外国人やよそ者を排斥するなら、わたしたちはもてしなしが良いとは言えません。
あまりに内省的で、内向きになりすぎると、本当に他者に対して存在することができなくなります。その一方で、おそらくは、余りに外見を気にしたり、些細なことや活動に捉われすぎると、人の言葉に耳を傾けたり、もてなしたりする時間が無くなってしまいます。
ベタニアの夕食の宴で、マルタは、深い教訓を学びました。ことによると、ピタ・パン (訳注:平らで丸く、中が空洞のパン。中近東などの主食) だけ の食事の方が、(ご馳走が並ぶ)中東風の祝宴よりよかったのかも知れません。そうすれば、彼女は台所から出て、姉妹のマリアと一緒に居間に座っている、大切な客と共に居ることが出来たかも知れないからです。
多分、マルタは最終的にはイエスのもとに座り、自分の家で明かされつつある事実―自分の姉妹が、このイエスという人物の真の弟子であるという事実―の重さを完全に受け止めることが出来たでしょう。そして、食事は、場面設定に過ぎず、台本(本来の目的)ではないと覚ったことでしょう。
ニューマン枢機卿流のもてなし方
2010 年 9 月 10 日、イギリスのバーミンガムで、ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿( John Henry Cardinal Newman )のために、待望久しい列福式が行われます。ニューマン枢機卿は、人々の敬愛を集めた、ヴィクトリア朝の偉大なカトリック神学者です。
ニューマン枢機卿は、多難な時代に生まれました。それは、政治的にも、軍事的にも激動の時代であったばかりでなく、人々の魂も大きく揺れ動いた時代でした。彼は、英国国教会からカトリックへの遍歴を経て、その偉大な知性と優れた文才を駆使して、何千もの人々をキリストのもとへ、またローマ・カトリック教会へと導きました。彼は、慈悲深さともてなしの素晴らしい模範であり、特に大学で学ぶ若い男女にとっての模範像でした。そして、世界中の大学内にあり、「ニューマン・センター」として知られているカトリックのための施設の保護者です。
訳注:「ニューマン・センター」 世界中の多くの非カトリック系大学に設置されている、カトリック学生のための礼拝や集会の施設。ニューマン枢機卿の著作に促されて設置が進められた。
ニューマン枢機卿の列福式の準備のために、わたしは、主日の福音を基にした彼の説教集を読み返しています。そして今日の福音の、ベタニアのマルタとマリア、およびその敬うべき客についての彼の黙想に心を打たれました。
今日の福音の場面について、ニューマンはこう書いています。「忙しい人と暇な人が居ます。どちらもキリストとの関わりは持っていません。またその心算でなくても、仕事のために余暇を犠牲にする人もいれば、逆に余暇のために仕事を犠牲にする人も居ます。」
「しかし、不真面目な人たちや贅沢な人たちは脇に置くとしても、結局、キリスト者は二組に分けられます。マルタのような人たちと、マリアのような人たちです。どちらの組も、働くにせよ、静かにしているにせよ、自分なりの方法でキリストを賛美します。そして、いずれの場合も、それが彼らの本来の姿ではないことは明らかです。それは代価を払って買ったものです。その代価は「従順」、キリストの意志への変わらぬ従順です。働くとすれば、それはキリストのためであり、(神を)あがめるとすれば、それも、キリストの愛に由来するものなのです。」
「さらに忘れてならないのは、この二組のキリストの弟子たちは、奉仕の道の選択を自分で決めているのではなく、キリストによって割り当てられているということです。おそらくはマルタが姉で、マリアが妹なのでしょう。キリストがいつも、天使たちと共に奉仕し、またセラフィムと共に賛美するとしても、私は、キリスト者に、自分自身の道を選ぶ余地が全く残されていないと言うつもりはありません。そして、その人が、救い主が特に讃えるよい部分を思いのままに選び取るができるなら、その人は、神を賛美すべきでしょう。しかし、神の摂理に従ってそれを選ぼうと思えば、多くの場合、それぞれのために明確に印された「自分の場所」が用意されています。少なくとも、この世のために気配りをするよう意図されている人が居ることは疑いありません。生計を立てる必要、家族の要求、地位や仕事上の義務…これらは神の力のしるしであり、多くの人にとって、マルタが選んだ道筋をなぞるものです。」
黙想のための質問
個人として、また小教区共同体として、今週のことを黙想するための質問です。
わたし(たち)は、「もてなし」をどのように実践していますか?
もてなしのよい共同体を示すしるしは何でしょうか?
もてなしの敵とは何でしょうか?
どうすれば、もっと良いもてなしができますか?
わたし(たち)は、他の人たちを本当に愛していますか?
聖書朗読
創世記 18:1-10a : ( その日、主は ) マムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、18:3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。18:4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。18:5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」18:6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」18:7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。18:8 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、18:10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
コロサイ 1:24-28: パウロに与えられた務め1:24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。1:25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。1:26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。1:27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。1:28 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
ルカ
10:38-42: (マルタとマリア)
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。10:40
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」10:41
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
The Art of Biblical Hospitality
Biblical
Reflection for 16th Sunday in Ordinary Time C, By
Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JULY 13, 2010 ( Zenit.org ) .- What does it mean to be hospitable? Biblical stories extol hospitality as both a duty and a work of mercy. The desert "Bedouin" hospitality is a necessity for survival; and since this necessity falls upon all alike, any guest is entitled to hospitality from any host. The guest, once accepted by the host, is sacred, and must be protected from any danger even at the cost of the life of members of the family.
The good host makes a feast for his guest as is never prepared for his own family. The duty of the host to protect the guest is illustrated by the stories of Lot at Sodom ( Genesis 19:1-8 ) and the man of Gibeah ( Judges 19:16-24 ) . Job boasts of hospitality ( Job 31:23 ) . God is certainly the generous host ( Psalms 15:1; 23:5 ) .
Many stories from the Books of Kings speak of hospitality. Each of the four stories of Chapter 4 describes in some way the power of God, through the prophet Elisha, breaking into hopeless situations and shattering them with a word of life.
One of those stories is about a couple from the village of Shunem ( just over the hill from the New Testament village of Nain in northern Israel ) who provide food and lodging for the prophet Elisha; he in turn promises them a son, even though they had been married for a long time and remained childless.
The couple cares for a stranger who had impressed them by his dedication to God, prayer and social concerns. What the couple does seems quite simple at first -- after all, they seem to be influential people. Nonetheless, they interrupt their ordinary activities and private lives to care for Elisha, first with food at their table, then with overnight accommodations.
And in their giving to him, they received so much more in return -- the promise of new life, despite the bitter years of barrenness. Their own gift to Elisha was magnified beyond their comprehension.
Abraham and Sarah welcome the world.
Today's first reading from Genesis 18:1-10 presents Abraham as the model of the generous and hospitable host. In the charming biblical story, Abraham and Sarah welcomed the messengers of God with opened arms at the oaks of Mamre. Abraham is host, bringing water for the washing of feet and providing the shade of a tree for rest.
The meal is a banquet, humorously described as "a little bread": a bushel of flour, curds, milk, and a choice calf! Sarah remains in the tent; society's customs forbid her from mingling with the male guests. She does the cooking, and nine months later the promise is fulfilled in the birth of her son, Isaac.
During the outdoor meal at the oaks of Mamre, God's word was shared in a carefully
staged play. Hospitality is an art form that requires careful staging! The strangers
at Mamre ( who
we know are God and angels )
come to dinner
to deliver a message: God promises Abraham and Sarah that the barren will rejoice.
Abraham's
hospitality may appear to us to be a bit too lavish and excessive, but we must
never forget the demanding tradition of the Middle East from which springs the
Christian conviction regarding hospitality: in the guest, Christ is seen. In
our every conversation, he is the silent listener.
Hospitality
in the New Testament
The Greek word for hospitality is "philanthropia" meaning love of
human beings, kindness. The virtue of hospitality is praised in the New Testament
and it is enumerated among the works of charity by which we will be judged (
Matthew 25:35ff
) .
Jesus depends on it (
Mark 1:29ff.;
2:15ff., etc. )
He regards it as important in the parables (
Luke 10:34-35;
11:5ff, etc. ) .
God's hospitality is an essential part of his message (
cf. the divine
generosity in Luke 14:16ff; 12:37; 13:29, etc. )
. Jesus had
no home and was frequently a guest (
Luke 7:36ff;
9:51ff; 10:389ff; 14:1ff )
.
It was the practice of Paul on his journeys first to visit the Jews and to stay
with them, and to stay with the Gentiles only if the Jews refused him (
Acts 14:28;
15:33; 16:15, 34; 17:1ff; 18:3, 27; 21:16 )
. With the
rapid growth and expansion of the Church, organization was needed, and we are
told that fourth-century Antioch cared daily for 3,000 widows, sick and strangers.
Bishops and widows were especially expected to be hospitable both privately
and officially. Bigger churches and sanctuaries later set up hospices, and where
care focused on the sick these developed into hospitals.
Hospitality,
Bethany style
Today's Gospel is the delightful story of Martha and her sister Mary in Bethany
( Luke
10:38-42 ) .
It illustrates the importance of hearing the words of the teacher and the concern
with women in Luke's Gospel. The Gospel story about Mary and Martha has often
been used to provide guidelines as to how women are to act. The truth of the
matter is that it doesn't have much to do with the roles which any particular
people should play. It points out that God doesn't just look at how well we
carry out our duties. No woman -- and no man -- should lose him/herself in busyness.
Mary of Bethany understood that.
Martha
is so caught up in the many demands put upon her by society's and culture's
rules for serving guests. But really, there is little that is needed -- or only
one thing. Much of Martha's anxiety and concern in serving has more to do with
conforming to society's demands or with the desire of the host or hostess to
shine as a model of accomplished and generous hospitality.
Verse
39 presents us with a unique image: Mary sitting at the feet of the Master.
Against the backdrop of first-century Palestinian Judaism, that a woman would
assume the posture of a disciple at the master's feet is nothing short of remarkable
( see
also Luke 8:35; Acts 22:3 )
! It reveals
a characteristic attitude of Jesus toward women in the third gospel (
see Luke 8:2-3
) .
Activity,
passivity or receptivity?
Mary of Bethany, disciple of the Lord, has chosen the most important thing required
in welcoming others -- her presence and full attention, so that it is her guest
who shines. Martha and Mary stand forever as symbols of the two modes of life
between which we continually oscillate. Activity can become a shield against
facing issues and questions and truths which must be allowed to surface if we
are to survive. There are times when we simply must contemplate, must step back,
must think, if we are to be capable of returning to meaningful activity.
The
key of the Gospel story is not found in the tension of activity versus passivity,
but in receptivity. The one necessity in welcoming others into one's home or
community is being present to them -- listening to what they have to say, as
Mary does in today's Gospel.
Hospitality's
enemy
Thus far we have considered the positive aspects, elements and manifestations
of hospitality. But hospitality has an enemy: selfishness and pride. When we
are so wrapped up with ourselves, our own problems and difficulties, or we wish
to jealously preserve what we have and exclude foreigners and strangers from
our lives and riches, we are inhospitable.
Too
much introspection and inwardness will prevent us from truly being present to
others. Or perhaps we are so concerned with external appearances, and so caught
up with the details and activity, that we have no time for listening and welcoming.
At the dinner party in Bethany, Martha learned a profound lesson: perhaps a simple pita bread was better than a full Middle Eastern feast, if it got her out of the kitchen and in the company of such an important guest as was sitting in the living room with her sister, Mary.
Perhaps
Martha was finally able to sit down and grasp the full impact of what was unfolding
in her very home- that her own sister was a real disciple of this man Jesus.
And hopefully Martha discovered that the meal was only the scenery, not the
script!
Hospitality,
Cardinal Newman style
On Sept. 19, 2010, in Birmingham, England, the long awaited beatification ceremony
will take place for the beloved and great Victorian Catholic theologian, John
Henry Cardinal Newman. Cardinal Newman was born in troubled times, which knew
not only political and military upheaval but also great turbulence of soul.
He journeyed from Anglicanism to Catholicism and used his great intellect and
masterful writing ability to win over thousands of people to Christ and the
Roman Catholic Church. He was an exemplary model of graciousness and hospitality,
especially to young men and women at the university. He is the patron of university
Catholic chaplaincies around the world known as “Newman Centers.”
In preparation for Cardinal Newman's beatification, I have been reading once
again his homilies based on the Sunday Gospels. I was struck by his
reflections on today's Gospel of Martha, Mary and their honored guest
in Bethany.
Newman wrote about today's Gospel scene: "There are busy men and men of leisure, who have no part in Him; there are others, who are not without fault, as altogether sacrificing leisure to business, or business to leisure.
But
putting aside the thought of the untrue and of the extravagant, still after
all there remain two classes of Christians; -- those who are like Martha, those
like Mary; and both of them glorify Him in their own line, whether of labour
or of quiet, in either case proving
themselves to be not their own, but bought with a price, set on obeying, and
constant in obeying His will. If they labour, it
is for His sake; and if they adore, it is still from love of Him.
"And
further, these two classes of His disciples do not choose for themselves their
course of service, but are allotted it by Him. Martha might be the elder, Mary
the younger. I do not say that it is never left to a Christian to choose his
own path, whether He will minister with the Angels or adore with the Seraphim;
often it is: and well may he bless God if he has it in his power freely to choose
that good portion which our Saviour especially praises.
But, for the most part, each has his own place marked out for him, if he will
take it, in the course of His providence; at least there can be no doubt who
are intended for worldly cares. The necessity of
getting a livelihood, the calls of a family, the duties of station and office,
these are God's tokens, tracing out Martha's path for the many."
Questions
for Reflection
Here are some questions to reflect upon this week, as individuals and as parish
communities.
How do I ( we
)
practice hospitality?
What are the signs of a hospitable community?
What are the enemies of hospitality?
How can we become more hospitable?
Do I ( we
)
really love other human beings?