愛とは、善いサマリア人のように行うこと

年間第 15 主日 聖書黙想 2010/7/11  トマス・ロシカ師

 

今日の福音の「善いサマリア人」の物語(ルカ 10:25-37 )は、聖書の中でも最も大切にされているたとえ話の一つです。聖地での研究期間中、わたしは、エルサレムからエリコまでの、危険だけれども見どころの多い幹線道路を何度も旅行し、その度にいつも、このルカの刺激的な物語に思いを巡らせてしまうのでした。

 

ルカの物語には強い説得力があります。何故なら、それはあらゆる信条や文化を超越する愛の力について語り、全く見知らぬ人から隣人を「創り出す」からです。そこで語られるたとえ話は、個人的なものです。それは、一人の人間がもう一人の傷に包帯を巻くことによって、社会的・文化的タブーを乗り越え、個人的・身体的に接触するという人間関係が生まれることを、深い単純さで語っているからです。またそれは司牧的なたとえ話でもあります。それは、人間の持つ一番善いものの中心にある「世話をすること」 「心に掛けること」 の神秘に満ちあふれているからです。この物語は、もともと実用的なものです。それは、文化や地域社会のすべての壁を越えて、行って同じようにしなさいと、わたしたちを促しているからです。

 

このルカのたとえ話を詳しく見てみましょう。

イエスの反問に答える律法の専門家は、きっと善良な正しい人です。「彼は自分を正当化しようとして」という言葉は、しばしば、この律法学者が自分の面目を保つための逃げ道を求めていたと解釈されているようです。しかし、実際にこの律法学者は、「隣人を愛しなさい」という言葉の本当の意味を理解したいと確かに望んでいます。永遠の命を受け継ぐことについてのユダヤ教の律法専門家の質問に対し、イエスは、たとえ話を通して、愛が律法に優越することを説明します。

 

ここに出てくる祭司とレビ人 31-32 節)は、ユダヤ教を代表する人たちであり、路上で脇を通り過ぎようとしている犠牲者の、模範的な「隣人」となることを期待されている人たちでした。レビ人は、律法に特別に身を捧げることを期待されていました。律法の専門家が(イエスに)尋ねた「隣人」の定義は、ユダヤ人の敵であるサマリア人を指すことが分かります。サマリア人たちは、律法学者の一団からは嫌われていました。この律法学者は最後まで、「憐れみ」を示したのはサマリア人であると言うことさえできません。「その人を憐れに思い助けた人です。」と表現するのが精一杯でした。

 

スポーツの観客のように

憐れみを示すとは、傷つき苦しんでいる人々と共に苦しみ、その痛みと苦悩を共有することです。

憐れみによって、わたしたちは、他者の痛みに対して無関心や鈍感のままではいられず、苦しむ人びととの連帯を求められます。これこそイエスが、そしてこの立派な善いサマリア人が、憐れみを示したやり方です。時にはわたしたちも、傷ついた人を見ながら道の向こう側を通って行った祭司や律法学者のように振る舞うことがあるかも知れません。わたしたちは、巻き込まれたり自分の手を汚したりすることを恐れて、黙ってゲームを観戦している観客のようになることもあり得ます。

 

憐れみは、自分を捨てて、困っている人に手を差し伸べることを求めます。それは、自分の手を、名声さえも汚すことを意味します。無関心は敵意より悪いのです。敵意を持っている人は、相手に手荒に反応するにしても、少なくとも相手の存在を認めています。一方、無関心な人は、相手を無視し、あたかも相手が存在していないかのような扱いをします。これは、道の向こう側を通りすぎ、傷つき追いはぎに襲われた旅人を一人ぼっちのまま放置した祭司とレビ人の、無関心と鈍感さと同じものなのです。

 

この善いサマリア人は、憐れみと献身(他者への関わり)が何であるかを、わたしたちに良く示してくれます。彼は、道の向こう側を通って行こうと思えば簡単にできました。心を閉ざして本当に必要なことに応えることを拒むこともできました。しかし、彼は立ち止まり、傷ついている見知らぬ人の傍らに跪きました。その瞬間、「隣人」が誕生したのです。他の人の苦しみの傍らに立ち止まる人は、それがどのような形を取るとしても、誰もが善きサマリア人なのです。

この、苦しんでいる人の傍らに立ち止まり、かがみ込むこと、少し立ち止まって跪くことは、好奇心からではなく、愛からすることです。サマリア人の憐れみが、彼にそうした一連の行動をとらせたのです。彼はまず傷に包帯を巻きました。それから、傷ついた人を宿屋に連れて行って介抱しました。そして、立ち去る前に、宿屋の主人に介抱に必要なお金を渡します。 vv 34-35

 

愛するということは、善いサマリア人のように振る舞うことです。イエスご自身が、卓越した、善いサマリア人であることをわたしたちは知っています。イエスは神でありながら、ためらうことなく人となり、わたしたちのためにご自分をお与えなるほどまでご自分を低くされました。この物語が最初に告げられてから 2000 年以上が過ぎましたが、いまも人々に深い感動を与え続けています。それは、真の憐れみ、献身、他者との霊的交わりとは何であるかのすべてを教えてくれるからです。

 

隣人の概念

2005 年の回勅 "Deus Caritas Est" (「神は愛」)の中で、教皇ベネディクト 16 は、 15 に次のように書いています。「善いサマリア人のたとえ話は、とりわけ大切な説明を二つ提示しています。その時までは、『隣人』の概念は、本質的に、同国人と既にイスラエルの土地に住み着いている外国人のことを言うと理解されていました。言い換えれば、単一の国、あるいは単一民族の親密に密着した共同体のことを言うと理解されていたのです。今や、この限定は廃止されました。わたしを必要とし、わたしが助けることができる人はだれであれ、私の隣人です。隣人の概念は、今や、普遍化されたのですが、具体的であることは変わりません。全人類にまで、範囲は広がったにもかかわらず、それが、愛の一般的で抽象的で努力を求めない表現に変わってしまうようなことはなく、今この場での私自身の実践的な献身を呼び求めています。」

 

「教会の務めは、教会に属する人の実際の日常生活と関連づけながら、この遠隔地と近隣の関係をつねに新たに解釈し直すことです。最後にわたしたちはとくに、最後の審判という偉大なたとえ (マタイ 25 31-46 参照) に触れなければなりません。このたとえの中で、愛は、人生が価値あるものとされるかされないかを最終的に決める基準となります。イエスは、困っている人は自分のことだといいます。困っている人とは、飢えている人、のどが渇いている人、旅人、裸の入、病気の人、牢に入れられた人のことです。『わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイ 25 40 )。神への愛と隣人愛は一つになります。わたしたちは、もっとも小さな兄弟の中にイエス自身を見いだし、イエスの中に神を見いだすからです。」

 

善い騎士

このたとえ話が歴史の中で受肉した道筋を思い巡らすとき、わたしは、尊者 マイケル・マクギヴニー 神父のことを思わずにはいられません。師は、 19 世紀、アメリカに生きた教区司祭でした。彼は、その羊の群れをキリストのような憐れみを持って司牧しました。 マクギヴニー 神父は、当時のカトリック共同体の中に、物質的にも精神的にも貧しいメンバーがあまりにも多いことを知りました。そして、困っている兄弟姉妹の援助に積極的に関わることは、信徒の召命の一つであると理解しました。

彼は、キリストに呼ばれているのは聖職者や修道者たちだけでなく、すべてのキリスト者が、教会において、特別に与えられた使命を果たすよう呼ばれていることを知っていました。

彼は、コロンブス騎士会を創設し発展させて永遠の遺産を残しました。コロンブス騎士会とは、カトリック信徒の兄弟的組織で、現在は世界中に広がり、会員数は 180 万人に及ぼうとしています。 (ホームページ:  www.kofc.org  アメリカの ハートフォード 教区の教区司祭だった マクギヴニー 神父は、 1980 8 14 日、 38 歳という若さで亡くなりました。

訳注: 「コロンブス騎士会」 1882年にアメリカ・コネチカット州ニューヘヴンで、マイケル J. マクギヴニー神父により創立されたカトリックの団体。修道会ではなく、カトリック信者の互助組織とされる。 180 万人余の会員を擁し、福祉、教育、政治など広い分野に大きな影響力を持っている。

 

コロンブス騎士会は、歴史の流れの中で、善いサマリア人のたとえ話を継承する運動にほかなりません。この兄弟会は、現代に合った別の善いサマリア人を作ることに専心しています。善いサマリア人の物語に示された、病気や苦しみへのキリストの心配りが、 マクギヴニー 神父にインスピレーションを与えました。彼は、司祭である自分が、奉仕する相手にとってキリストの生きたしるしになるよう願っていました。

マクギヴニー 神父と仲間の騎士たちは、その歴史を通じて、道ばたに横たわっているのを見つけた人々の傷に包帯を巻き、人々が健康と力を取り戻す手助けをしてきました。それによって彼らは、わたしたちに豊かないのちを与えるために来られたキリストに倣うのです。

 

「教会の顔が最も魅力的になるのは、隣人と心を開いて抱きあうときです。」 騎士会長の カール・アンダーソン は、最近、次のように書いています。「困っている人たちとの出会いの一つ一つが、まさに愛の文明を生む出すチャンスなのです。そのとき一人が行う一つの行為が、です。」

 

列聖のための祈り

このコラムの毎週の読者の多くは、世界の中でも、このような騎士たちが居ない地域に住んでいますが、彼らが、教会の中に、またこの世界の中にいることを知るだけで、心は喜びと感謝に向かいます。彼ら(コロンブス騎士会の人たち)は、今日読まれた福音の物語に血肉を与えました。どうぞ皆さん、 マクギヴニー 師に祈り、あなたが周囲の人々にとっての善いサマリア人になれるように、助けを求めてください。多くの壁(制約)を越えて手を差し伸べる勇気、手が汚れても見捨てられた人々に触れる大胆さ、そして、あなたが仕える人々の中にイエスの御顔を見る恵みと慰めを求めて祈りましょう。

「わたしたちの父であり、貧しい者の保護者、やもめとみなし子の護り手である神さま、あなたは、あなたの司祭マイケル J. マクギヴニ 師を、キリスト者の家庭の使徒となるよう召し出し、若者たちが喜んで隣人に奉仕するように導く役目をお与えになりました。」  

 

「マクギヴニ 師の生涯とその徳の模範によって、わたしたちが、もっと親しくあなたの御子イエス・キリストに従い、その愛の掟を守り、キリストの身体である教会を築くことができますように。

あなたの僕マクギヴニー師のインスピレーションに鼓舞されて、一層あなたの愛への確信を強め、貧しい人、見捨てられた人を世話する彼の使命を受け継ぐことが出来ますように。 」 

「謙遜な心で祈ります。あなたの聖なる御計画に従って、あなたの僕マクギヴニー師に、地上においても栄光をお与えくださいますように。」

 

「マクギヴニー師のとりなしにより、わたしのこの願いを聞き入れてください。」(ここであなたの願いを述べましょう。)

 

「わたしたちの主、キリストによって、アーメン。」

 

 

◇◇◇


聖書朗読

 

申命記 30:10-14 (モーセは民に言った)30:10 あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。30:13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。30:14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

 

コロサイ 1:15-20 1:15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。1:16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。1:17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。1:18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。1:19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、1:20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

 

ルカ 10:25-37 (善いサマリア人)10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


Loving Means Acting Like the Good Samaritan

Biblical Reflection for 15th Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB


TORONTO, JULY 6, 2010
Zenit.org .- The story of the Good Samaritan in today's Gospel Luke 10:25-37 is one of the most treasured parables of the Bible. During my studies in the Holy Land, no matter how many times I traveled that perilous yet spectacular highway from Jerusalem to Jericho, I always found myself musing on Luke's provocative story.

Luke's story is powerful, for it speaks of the power of love that transcends all creeds and cultures and "creates" a neighbor out of a complete stranger. The parable is personal, for it describes with profound simplicity the birth of a human relationship that has a personal, physical touch, transcending social and cultural taboos, as one person binds the wounds of another. The parable is a pastoral one, for it is filled with the mystery of care and concern that is at the heart of what is best in human beings. The story is primarily practical, for it urges us to cross all barriers of culture and community and to go and do likewise!

 

Let us look closely at Luke's parable.

The legal expert who responds to Jesus' counter-question is certainly a good and upright man. The words, "wished to justify himself" may often be understood to mean that the lawyer was looking for some loophole to demonstrate his worthiness. In fact, the lawyer wishes to be sure that he understands just what "love your neighbor" really implies. In response to a question from this Jewish legal expert about inheriting eternal life, Jesus illustrates the superiority of love over legalism through the parable.

 

The priest and Levite vv 31-32 are religious representatives of Judaism who would have been expected to be models of "neighbor" to the victim they would pass by on the road. Levites were expected to have a special dedication to the law. The identity of the "neighbor" requested by the legal expert turns out to be a Samaritan, the enemy of the Jew. Samaritans were hated by the lawyer's racial group. In the end, the lawyer is even unable to say that it was the Samaritan who showed compassion. He resorts to the description, "The one who treated him with compassion."

 

Spectator sport
To show compassion is to suffer with the wounded and the suffering, to share their pain and agony. Compassion does not leave us indifferent or insensitive to another's pain but calls for solidarity with the suffering. This is how Jesus, the Good Samaritan par excellence, showed compassion. At times we can be like the priest and the scribe who, on seeing the wounded man, passed by on the other side. We can be silent spectators afraid to involve ourselves and dirty our hands.

 

Compassion demands that we get out of ourselves as we reach out to others in need. It means that we get our hands and even our reputations dirty. Indifference is worse than hostility. The hostile person at least acknowledges the presence of the other while reacting violently to it; the indifferent person, on the other hand, ignores the other and treats him as if he did not exist. That was the kind of indifference and insensitivity shown by the priest and the Levite who passed by on the other side, leaving the wounded and waylaid traveler completely alone.

 

The Good Samaritan shows us what compassion and commitment are all about. He could have easily passed by on the other side. He could have closed his heart and refused to respond to a genuine need. But he stopped and knelt down beside the stranger who was hurting. At that moment, a neighbor was born. Everyone who stops beside the suffering of another person, whatever form it may take, is a Good Samaritan.

This stopping and stooping, this pausing and kneeling down beside the suffering, is not done out of curiosity but out of love. The Samaritan's compassion brings him to perform a whole series of actions. First he bandaged his wounds, then he took the wounded man to an inn to care for him, and before leaving, he gives the innkeeper the necessary money to take care of him vv 34-35 .

 

Loving means acting like the Good Samaritan. We know that Jesus himself is the Good Samaritan par excellence; although he was God, he did not hesitate to humble himself to the point of becoming a man and giving his life for us. More than 2,000 years after this story was first told, it continues to move people deeply. It teaches us what authentic compassion, commitment and communion with others are all about.


Concept of neighbor
In his 2005 encyclical letter "Deus Caritas Est"
On Christian Love , Benedict XVI wrote in #15: "The parable of the Good Samaritan offers two particularly important clarifications. Until that time, the concept of 'neighbor' was understood as referring essentially to one's countrymen and to foreigners who had settled in the land of Israel; in other words, to the closely-knit community of a single country or people. This limit is now abolished. Anyone who needs me, and whom I can help, is my neighbor. The concept of 'neighbor' is now universalized, yet it remains concrete. Despite being extended to all mankind, it is not reduced to a generic, abstract and undemanding expression of love, but calls for my own practical commitment here and now.

 

"The Church has the duty to interpret ever anew this relationship between near and far with regard to the actual daily life of her members. Lastly, we should especially mention the great parable of the Last Judgment cf. Matthew 25:31-46 , in which love becomes the criterion for the definitive decision about a human life's worth or lack thereof. Jesus identifies himself with those in need, with the hungry, the thirsty, the stranger, the naked, the sick and those in prison. "As you did it to one of the least of these my brethren, you did it to me" Matthew 25:40 . Love of God and love of neighbor have become one: In the least of the brethren we find Jesus himself, and in Jesus we find God."

 

A good knight
When I reflect on the ways that this parable has taken on flesh in history, I cannot help but think of the Venerable Servant of God, Father Michael McGivney, a parish priest who lived in 19th century America. He ministered to his flock with Christ-like compassion. Father McGivney recognized the material and spiritual poverty of so many members of the Catholic community of his day, and he understood that it was part of the lay vocation to become actively involved in offering assistance to brothers and sisters in need. He knew that it is not only priests and religious who have a vocation, but that every Christian is called by Christ to carry out a particular mission in the Church.

He left a lasting legacy in founding and establishing the Knights of Columbus, a lay Catholic fraternal organization, that now has close to 1.8 million members worldwide www.kofc.org . On Aug. 14, 1890, Father McGivney, a priest of the Diocese of Hartford USA died at the young age of 38 years old.

 

The Knights of Columbus are nothing more than the continuation of the parable of the Good Samaritan in history. This fraternal order specializes in preparing other Good Samaritans for our time. Like the Good Samaritan, Christ's care for the sick and the suffering was an inspiration to Father McGivney who, as a priest, sought to be a living sign of Christ for the people he served.

Father McGivney and his brother Knights throughout history have been binding the wounds of those they discovered lying by the wayside of history and helping restore them to health and strength. In so doing, they imitate Christ, who came that we might have life in abundance.


"Nowhere is the face of our Church more attractive than in our open embrace of our neighbor," Supreme Knight Carl Anderson recently wrote. "Each encounter with those in need is actually an opportunity to create a civilization of love, one person, one act at a time."


Prayer for canonization
Many readers of this weekly column live in parts of the world where Knights are not present. Yet to simply know of their existence in the Church and in the world is cause for rejoicing and thanksgiving. They give flesh and blood to today's wonderful Gospel story. I encourage you to pray to Father McGivney and ask him to help you become a Good Samaritan to those around you. Pray for the courage to reach out beyond boundaries, the boldness to get your hands dirty as you touch the outcast, and the grace and consolation to recognize the face of Jesus in those to whom you minister.


"God, our Father, protector of the poor and defender of the widow and orphan, you called your priest, Father Michael J. McGivney, to be an apostle of Christian family life and to lead the young to the generous service of their neighbor.


"Through the example of his life and virtue may we follow your Son, Jesus Christ, more closely, fulfilling his commandment of charity and building up his Body, which is the Church.

Let the inspiration of your servant prompt us to greater confidence in your love so that we may continue his work of caring for the needy and the outcast.
"We humbly ask that you glorify your servant Father Michael J. McGivney on earth according to the design of your holy will.


"Through his intercession, grant the favor I now present
here make your request .


"Through Christ our Lord. Amen."


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