イエスは、ご自身とその使命の証し人を準備された。

年間第 14 主日 聖書黙想 2010/7/4  トマス・ロシカ師


今日の三つの朗読のすべてに、「平和」というテーマが登場します。そして、第一朗読のイザヤ 66:10-14c と、ルカ福音書 10:1-12, 17-20 の朗読箇所との間には明確な関連があります。

イザヤの詩は、待望久しい捕囚の地からイスラエルへの帰還を祝い、聖なる都、すべての都の母であるエルサレムの慈しみ深い腕に抱かれる勝利の帰還を思い描きます。

 

今日の福音には、確かに、共通する部分と矛盾する部分があります。イザヤの朗読箇所は追放されたイスラエルの民のエルサレムへの帰還について、そして福音は、弟子たちの成功裏に終わった宣教からの帰還について、どちらもその特徴となる喜びについて語ります。

 

ルカ福音では、イエスもまた、イスラエルの民のようにエルサレムに向かって旅をしています。そこでは、イエスもまた喜び迎えられます。しかし、その後イエスは拒絶されます。イエスがその受難と死によって新しい神の御国を始めるのは、聖なる都であるエルサレムでのことです。

72 人の宣教

イエスが、ご自分に従う者たちを宣教に送り出すエピソードが二つあるのは、ルカ福音だけです。

第一のエピソード(ルカ 10:1-6 )はマルコ 6:6b-13 がベースになっていて、 12 人の派遣の物語をより詳しく語っています。今日読まれた部分(第二のエピソード、 10:1-12 )は、「 Q 」資料の似たような記事がベースになり、 72 人を派遣した話になっています。このエピソードは、イエスが、イエスご自身とその使命を証しする人たちを準備する、というテーマを継続します。これらの証し人のうちには、 12 人の弟子だけでなく、ルカの時代のキリスト教宣教の代表者となる 72 人も含まれて居ました。 12 人の弟子たちと、 72 人の証し人に与えられた指示はよく似ています。ルカ 10:4 72 人に命じられたことは、ルカ 22:35 12 人の弟子たちにも命じられています。

 

イエスは、従う人たちに、財布も袋も持って行くな(ルカ 10:4 )、そして途中でだれにも挨拶するな、と命じて、使命の緊急性と、宣教者たちに要求される一途な心を強調します。物質的な所有に対する執着は避けなければならないし、通例の挨拶でさえも、課せられた使命の遂行から注意を逸らす恐れがあるのです。

 

宣教と癒し

ルカは、 12 人に権限を授けるところで、宣教と癒しの話をします。イエスは弟子たちを呼び集め、個人と家族と共同体に健康と幸福を回復させるという、司牧の役目を与えて送り出します。

イエスはまた、わたしたちの先達である 72 人を派遣し、こう命じます。「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」

72 人の派遣にあたり、イエスが確認したのは、弟子たちを通して、また弟子たちの言葉によってイエスを信じる人々を通して、イエスの平和と、「神の国はあなたがたに近づいた」という知らせを世界に宣言することです。あちらこちらで拒絶されたにもかかわらず、 72 人が喜んで戻り、イエスの名のもとに悪霊を屈服させることが出来たと話すのを聞いてイエスは喜びます。(彼らが携えて行った)メッセージは決して消えず、止むことはありません。

しかし、神の国の宣言に含まれる悔い改めへの呼びかけは、それを聞いてもなお拒絶する人々に対して厳しい裁きをもたらします。神の国が打ち建てられて行くに従って、あらゆる形の悪はうち負かされ、サタンの人間支配は終わりを告げるのです。

 

御言葉の宣言は癒しをもたらす

イエスにとって、癒しとは、単なる身体の癒しだけではなく、心身や精神の癒しを意味します。癒しは、人々を肉体的に元気にするだけではなくて、心が健康になり、罪が赦され、また世界が癒されることでもあります。御言葉の宣言そのものが癒しを意味し、それはまた、隣人を心にかけることと分けることはできません。

72 人がしたように、わたしたちも見知らぬ人と共に食事をするなら、それは自然に関係性を作りあげていることであり、隣人たちの健康と幸福に深い関心を持つように導いてくれます。利己心を捨て、他者の癒しの求めに目を向けるなら、わたしたちは、健康になる好機を拒んできた人々と神との契約を回復することができるでしょう。

 

癒しは、常に、教会の重要な関心事であり、いまも進行中の活動です。和解と癒しと救いの関係は、ルカ福音書で繰り返されるテーマです。イエスは、彼に従う人たちに悔い改めを呼びかけ、古い態度や生き方を、根本的に新しい形の関係と姿勢に変えるよう呼びかけました。

 

聖霊によって喜ぶ

教皇ヨハネ・パウロ 2 世は、その優れた 1986 年の回勅 "Dominum et Vivificantem" (聖霊−生命の与え主)の# 20 で、今日の福音の個所に触れて次のように述べています。

「こうして、福音記者ルカは、既にイエスを『聖霊に満ちて』 とか 『荒れ野で…聖霊に導かれて』などと書き表しているが、改めてこうも語っている。師より託された宣教活動から帰った 72 人の弟子たちが、自分たちの仕事の実りを喜んで語り合っている “その同じ時”、― 『そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。“天地の主である父よ、あなたをほめたたえています。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。”』  イエスは父である神のはからいを喜ぶ。イエスは、このはからいが、父なる神の愛を示すために行われたことを喜ぶ。最終的にイエスは、「幼子のような者」にこの父なる神の愛が特別に注がれたことを喜ぶ。そしてルカは、『聖霊によって喜びにあふれて』と記すのである。( 10 21 )」

 

聖なる地についての黙想の続き

325 年のニケア公会議以降、パレスチナでは、コンスタンティヌスの諸教会が栄え始め、特に三つの最も尊い場所で隆盛を誇りました。それは、エルサレムの聖墳墓とカルワリオ(ゴルゴタ)の丘、キリストが説教した伝承の地であるオリーブ山(いわゆるエレオナ大聖堂)、そしてベトレヘムにあるキリスト降誕の岩屋の三カ所です。これらの場所の設定作業(復元、保存など?)のいくつかは、ヘレナ(コンスタンティヌス1世の母)が自ら監督したものです

訳註:コンスタンティヌス1世は、 325 年にキリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニケア公会議を開催。


4
世紀にパレスチナを旅する巡礼者たちにとって、それらの場所は、巡礼の目的の中心でした。

聖地に人気が集まり、あまりにも人々を引きつけたために、キリスト教の伝承の或るものは、エルサレム、とりわけゴルゴタの丘を世界の中心に据えるほどでした。

そのことは、この時代以降に作られた多くの聖地の古地図にはっきりと表れています。 333 年に、ボルドーから、一人のキリスト教巡礼者が陸路でエルサレムにやって来ました。思い出のためというよりは、おそらく将来の巡礼者のために、彼は、往復の道の宿場や距離の詳細な記録を編纂し、「ボルドー旅行記」( Bordeaux Itinerary )と呼ばれる重要な著作にまとめました。


ここエルサレムの都で

コンスタンティヌス帝の治世、エルサレムの司教だった聖キュリロス(在位 349 年− 384 年)は、いくつもの新しい建物が建ち始めた直後の時期、エルサレムの教会を統轄する唯一の特権を持っていました。キュリロスは、(今日の)全ての司教、司祭、礼拝堂付き司祭、小教区協議会、財務委員会、および司牧聖職者たちの羨望の的です。あらゆるものが新しく建てられ、しかも資金集めの苦労も建設運動の必要もない環境を想像してみてください。

キュリロスは、実際のキリストの死と復活の場所から数フィート以内のところで、格調高い説教をしました。キュリロスは、カルワリオについてこう言いました。「他の人々はただ聞くだけだが、わたしたちは、見て触れている。」   また、キュリロスは、こう書いています。「ここエルサレムの都で、聖霊が教会の上に注がれました。ここで、キリストは十字架につけられました。ここで、あなたがたは眼前に多くの証しを見ます。ここでキリストは復活されました。そして東のオリーブ山でキリストは昇天されました。


エゲリア(またはアエテリア)巡礼記は、裕福なスペイン女性が、 381 年から 384 年にかけて聖地巡礼をしている間に書いたものです。(この旅には、シナイ半島、エジプト、ヨルダン渓谷やトランス・ヨルダンの地域も含まれていました。) この巡礼記には、聖書ゆかりの場所に感銘を受けた生々しい印象のほか、神殿で捧げられる典礼の、活き活きとした観察も書かれています。詳しい説明もたくさんあり、典礼年を通しての日曜日と週日のミサが描かれています。中でも、エルサレムで参加した聖週間の祈りの様子は詳しく記されています。

エゲリア巡礼記を読むと、彼女が地元のキリスト者たちの暖かい歓迎を満喫したことが分かります。

地元の人たちは、巡礼者として彼女の必要のすべてを満たし、聖書の遺跡を案内し、その場の礼拝のふさわしい所作を指導し、彼女に付き添い、親切にもてなし、忠告してくれました。エゲリアのプラス体験は、4世紀末の巡礼者たちの多くが共有した体験を反映し、また聖地に住む諸民族と出会うという特権を与えられた現代の巡礼者たちとも共通する体験かも知れません。

訳注:「エゲリア巡礼記」  西暦 400 年頃イベリア半島出身のエゲリア、あるいはアエテリアという修道女によって書かれたとされる。 シナイ半島、エルサレムをはじめパレスチナ、さらに北シリア、メソポタミアのエデッサまで旅行し見聞を書き残している。(サンパウロ 2002刊あり)


聖地に定住する人々

巡礼の旅につながるその他の 敬虔な営み は、聖地に定住することでした。巡礼者の中には、明らかにそこに住まうために、聖書の地に向けて出発することを決心した人たちもいました。あるいは、滞在中にそこに留まる決心をした人たちもいました。聖ヒエロニムスとその仲間の女性たちの場合がそれです。

386 年にパレスチナに到着した後、ヒエロニムスは、ベトレヘムに共同体を設立しました。ヒエロニムスはその著作で声高にこう語ります。「ここで、あの方は(新生児に巻きつける)細長い布にくるまれ、ここで、あの方は羊飼いらたちの訪問を受け、ここで、あの方は星によって指し示され、ここで、あの方はマギ(東方の三博士)の礼拝を受けました。」

 

ヒエロニムスは、後年、ローマにいる友人のパウラに、聖地に来て住むようにと促す手紙を書いています。その手紙にはこう書かれています。「わたしたちの信仰の神秘のすべては、本来、この国とこの都に固有のものです。」 わたしたちのキリスト者としての体験の中で、ほかに(聖地での体験以外に)このような主張を可能にするものはありません。何世紀が過ぎようとも、キリスト教がいかに広まろうとも、キリスト者は、キリストとキリスト教を生み出した土地に堅く結びついているのです。

訳注: 「パウラ」 ヒエロニムスの弟子の聖パウラ。ローマ出身貴族の妻で、聖書ウルガダ訳の完成に尽力した。

                                                         

 

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聖書朗読

 

イザヤ 66:10-14c: 66:10 エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。66:11 彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。66:12 主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。66:13 母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。66:14 これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ/あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり/憤りは敵に臨むことが、こうして示される。

 

ガラテア 6:14-18: 6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

 

ルカ 10:1-9(10-12, 17-20 ): 10:1その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。10:2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。10:3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。10:4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。10:5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。10:6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。10:7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。10:8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、10:9 その町の病人を癒し、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

(10:10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。10:11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。10:12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

10:17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。10:19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 

Jesus Prepares Witnesses to Himself and His Ministry

Biblical Reflection for 14th Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB

 


TORONTO, JUNE 29, 2010 Zenit.org .- The theme of "peacefulness" appears in all three readings today, and there is a definite link between the first reading from Isaiah 66:10-14c and the reading from the Gospel of Luke 10:1-12, 17-20 .

Isaiah's poetry celebrates the long-awaited return of Israel from exile and imagines their triumphant return to the nurturing arms of Jerusalem, the Holy City and Mother of all cities.

 

There is certainly a parallel and a contradiction in today's Gospel. Both Isaiah's reading and the gospel speak of the rejoicing that characterizes the return of exiled Israel to Jerusalem and the return of the disciples after a successful mission.


In Luke's Gospel, Jesus, like Israel, is also journeying toward Jerusalem, where he, too will be welcomed by the city -- but then rejected. It is in the holy city of Jerusalem that Jesus will inaugurate the new kingdom of God by his passion and death.


The mission of the seventy-two
Only the Gospel of Luke contains two episodes in which Jesus sends out his followers on a mission: the first
Luke 10:1-6 is based on the mission in Mark 6:6b-13 and recounts the sending out of the Twelve; here in Luke 10:1-12 a similar report based on Q becomes the sending out of seventy-two in this Gospel. The episode continues the theme of Jesus preparing witnesses to himself and his ministry.

These witnesses include not only the Twelve but also the seventy-two who may represent the Christian mission in Luke's own day. The instructions given to the Twelve and to the seventy-two are similar and that what is said to the seventy-two in Luke 10:4 is directed to the Twelve in Luke 22:35.

 

When Jesus orders his followers to carry no money bag Luke 10:4 and greet no one along the way, he stresses the urgency of the mission and the single-mindedness required of missionaries.

Attachment to material possessions should be avoided and even customary greetings should not distract from the fulfillment of the task.


Evangelization and healing
Luke relates evangelization and healing in Jesus' commissioning of the Twelve. He summoned the disciples and sent them on mission to engage in ministries that would restore health and well-being to individuals, families and communities.

Jesus also sent the seventy-two, our predecessors: "Whatever town you enter and they welcome you, eat what is set before you, cure the sick in it and say to them, 'The kingdom of God is at hand for you.'"

 

In the sending of the seventy-two, Jesus confirms that through his disciples, and those who would come to believe in him through their word, his peace and the news that "the kingdom of God has come near to you" would be proclaimed to the world. At their joyful return, despite rejection, Jesus rejoices at their success in the submission of the evil spirits in his name: the message is never to cease, never to give up.

And yet the call to repentance that is a part of the proclamation of the kingdom brings with it a severe judgment for those who hear it and reject it. As the kingdom of God is gradually being established, evil in all its forms is being defeated; the dominion of Satan over humanity is at an end.

 

Proclaiming the Word brings healing
For Jesus, healing is never just the healing of the body but also mind, heart and spirit. It is not just about making people physically better, but it is about hearts made whole, sins forgiven and a world healed. The very proclamation of the word is meant to heal and cannot be separated from care of neighbor.

As we share meals with the stranger, as the seventy-two did, we naturally build relationships, which will lead us to a deeper concern for their health and well-being. As we let go of our self-interest and focus on the healing needs of others we will restore God's covenant with those who have been denied the opportunity for health.

 

Healing has always been a significant concern and an ongoing activity of the Church. The relationship of reconciliation, healing and salvation are recurring themes in Luke. Jesus called his followers to repentance and to a transformation of their old attitudes and way of living into a radically new set of relationships and attitudes.


Rejoicing in the Holy Spirit
Commenting on today's Gospel, Pope John Paul II, in his masterful 1986 encyclical letter "Dominum et Vivificantem"
On the Holy Spirit in the Life of the Church and the World wrote in #20:

"Thus the evangelist Luke, who has already presented Jesus as 'full of the Holy Spirit' and 'led by the Spirit ... in the wilderness,' tells us that, after the return of the seventy-two disciples from the mission entrusted to them by the Master, while they were joyfully recounting the fruits of their labors, 'in that same hour Jesus rejoiced in the Holy Spirit and said: "I thank you, Father, Lord of heaven and earth, that you have hidden these things from the wise and understanding and revealed them to babes; yea, Father, for such was your gracious will."' Jesus rejoices at the fatherhood of God: he rejoices because it has been given to him to reveal this fatherhood; he rejoices, finally, as at a particular outpouring of this divine fatherhood on the 'little ones.' And the evangelist describes all this as 'rejoicing in the Holy Spirit.'"

 

Continuing our reflection on the Holy Lands
After the Council of Nicea in 325, Palestine began flourishing with Constantine's churches especially in the three most venerated places: the Holy Sepulcher and Calvary in Jerusalem, the traditional place of Christ's teaching on the Mount of Olives
so-called Basilica of Eleona and the Nativity Grotto in Bethlehem. Some of the works were supervised by Helena herself.


For the pilgrims journeying to Palestine in the 4th century, those sites constituted the core of their interests. Holy spots became so popular and desirable that one of the Christian traditions placed Jerusalem, specifically the hill of Golgotha, at the center of the world.

This is clearly seen on many ancient maps of the Holy Land from this period. In 333 a Christian pilgrim from Bordeaux made the journey to Jerusalem by land. As a remembrance, but more likely for the benefit of future pilgrims, he compiled a detailed record of the stages and distances on the road both there and back in his important work called the Bordeaux Itinerary.

 

Here in this city of Jerusalem
St. Cyril, bishop of Jerusalem
349 - 384 A.D. had a unique privilege of presiding over the church in Jerusalem immediately after the completion of new buildings begun during Constantine's reign.

Cyril is the envy of every bishop, pastor, chaplain, parish council, finance committee and pastoral minister! Imagine walking into a situation where everything is newly built and no fund drives or building campaigns are needed!

Cyril preached magnificent sermons within feet of the actual places of Christ's death and resurrection. He said of Calvary, "Others only hear, but we both see and touch." Cyril wrote: "Here in this city of Jerusalem the Spirit was poured out on the church; here Christ was crucified; here you have before you many witnesses, the place itself of the Resurrection and towards the east on the Mount of Olives the place of the Ascension."

 

In the Diary of Egeria or Etheria , written by a wealthy Spanish woman while making her pilgrimage to the Holy Land between 381-384 the trip included also Sinai, Egypt, the Valley of Jordan and Transjordanian area , we read not only about her vivid impressions made by the impact of the biblical sites, but also a vivid observation of the liturgy celebrated in the shrines. With many details she describes the Sunday and weekday celebrations throughout the liturgical year, focusing especially on the Holy Week prayers in which she participated in Jerusalem.

From Egeria's Itinerary we learn how she enjoyed the cordial reception of local Christians who met all her needs as a pilgrim, showing her biblical sites, conducting appropriate acts of worship in the spots, escorting her, giving hospitality and advice. Egeria's positive experiences might be very indicative of the experiences shared by most pilgrims at the end of the 4th century, and of pilgrims today who have the privilege of meeting the local peoples of the Holy Land.

 

Those who settled in the Holy Land
Another pious practice linked to the pilgrimages was settling in the Holy Land. Some pilgrims explicitly decided to set out for the Biblical Land in order to live there, or during their sojourn made up their minds to remain there. Such is the case of St. Jerome and his women friends. After arriving in Palestine in 386 he established a community in Bethlehem. Jerome would exclaim in his writings: "Here, he was wrapped in swaddling clothes; here he was seen by shepherds, here he was pointed out by the star; here he was adored by the magi."

 

Jerome later wrote to his friend Paula in Rome urging her to come and live in the Holy Land. He wrote: "The whole mystery of our faith is native to this country and this city." Nothing else in our Christian experience can make this claim. No matter how many centuries have passed, and no matter how far Christianity has spread, Christians are wedded to the land that gave birth to Christ and Christianity.

 

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