大切な唯一つの質問
年間第 12 主日 聖書黙想 2010/6/20 トマス・ロシカ師
ルカ福音書の後半は、運命の都エルサレムへ向かう、壮大な巡礼の旅の物語になっています。
ルカにとってキリスト者の旅は、世の救い主の恵みに照らされた喜びにあふれる旅路です。
ルカ福音の後半は、宿命の都、エルサレムへの巡礼の旅です。ルカにとってキリスト者の旅路は、世の救い主の恵みによって照らし出される喜びの旅路です。
その道すがら、イエスは、弟子たちに非常に重要な質問をします。それは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 ( ルカ 9:20 ) という質問であり、同じ質問は、あらゆる時代のあらゆる弟子に向けて問いかけられています。今日の福音で語られたこの(歴史上の)瞬間以降、イエスは十字架への道を歩み始めます。
イエスが語り、行うことは、その一つ一つがすべてゴルゴタへの一歩です。そこでイエスは、完全な従順、完全な愛、そして全面的な自己犠牲を身をもって示しします。
今日の福音(ルカ 9:18-24 )のエピソードは、マルコ 8 : 27-33 を基にしています。しかし、ルカの方には、イエスが人の子としての苦しみを受容したことへのペトロの反論(マルコ 8:32 )と、それに対するイエスの叱責(マルコ 8:33 )は書かれていません。ルカは、マルコを基にした他の箇所(ルカ 22:39-26 )でも、ペトロとその他の弟子たちに関する辛辣な描写を和らげています。そこでは同様に、マルコ 14:37-38 に描かれているペトロへの叱責がありません。
訳注:(「マルコ 8:31-33 :イエスが人の子の苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 8:32 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」)「オリーブ山で祈る」(ルカ 22:39-46 、マタイ 26:36-46 、マルコ 14 : 32-42 )
[ イエスが、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになると、] 弟子たちは、群衆がイエスについて言う表現を列挙します。これらの呼び方は、イエスに対して抱く様々な期待を表しています。イエスをエリヤだと考え、時の権力に実際に立ち向かおうとしているのだと言う人もいました。また、だれか昔の預言者が生き返ったのだと考える人もいました。
イエスは、弟子たちが自分を何者と思っているかを尋ねる前に、群衆が自分のことを何と言っているかを尋ねます。イエスの働きは、群衆の目にどう映っているのか? 心の中では、イエスを何者と思っているのか? 弟子たちは、この質問に不意を付かれたことでしょう。慌てて、偶然耳にした評判を思い起こしたり、人々との会話やガリラヤ湖周辺の漁村で流布している噂話をつなぎ合わせたりします。イエスご自身は、このうちの一部は御存知です。弟子たちの答えは様々です。
同じように、イエスが今日、誰かの口を通してわたしたちに同じ質問をするとき、わたしたちの答えも様々です。そして、イエスの問いかけはその頻度を増し、ますます厳しいものになっています。
ユダヤ教における「メシア」(救い主)の概念
ユダヤ教における「メシア」の概念は一つではありません。
「油注がれた者」である救い主(メシア)はダビデの系統を引く理想的な王であるという考えは、わたしたちが知る最も古い考えです。しかし、マカバイの時代(紀元前 163-63 年頃)に書かれ、現在、ギリシャ語でその文書が残されている「十二族長の遺訓」は、レビ族から救い主が出るという信仰を証言しています。マカバイの一族は、レビ族に属していました。
訳注:十二族長の遺訓は偽典の一つ。偽典に分類される書物は旧約聖書(ユダヤ教)文書のみで、新約聖書に相当するものはない。紀元前 3 世紀〜紀元後 1 世紀頃にかけて成立したとみられ、 ヘブライ語 あるいは アラム語 (一部 ギリシア語 )で書かれている。偽典をさすギリシア語のψευδεπιγραφίαは、「偽りの著者名」という意味である。古代教会においては、本来の「著者名を偽った書物」という意味から「内容も不確かな書物」へと語義の解釈を拡大していった。
死海文書は、多様な考え方を含んでいます。例えば、祭司のメシアとイスラエルの(俗人の)メシア ( 1QSa ) 、そしてモーセのような預言者 ( 申命記 18:18-19 ) 、それはヤコブの一族出身のスターでもあり、 ( 民数記 23:15-17 )( 4Q175 ) 、またダビデのような救い主でもあります。メルキゼデクも解放者ですが、メシアとは呼ばれません。 ( 11QMelch )
訳注: 死海文書 または 死海写本 は、 1947 年 から 1956 年 にかけて、 イスラエル の 死海 北西の 要塞 都市 クムラン の近くの 11 箇所の 洞窟 で発見された、 ヘブライ語聖書 の断片を含む約 850 巻の 写本 の集まりである。文書は、 ヘブライ語 のほかに アラム語 ・ ギリシア語 で、紀元前 2 世紀から紀元後 1 世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一の ユダヤ教聖書 の文書であり、聖書本文の内容が写本を通して劣化されることなく比較的正確に伝えられてきた歴史を証明するものとして、貴重な資料であるとみなされる。死海文書 1QSa 、 4Q175 、 4Q174 、 11QMelch などの文書番号については死海文書研究文書参照。
ここでは日本ヘブライ文化協会のサイト http://www.h3.dion.ne.jp/~ivrit/qumran%20hebrew.htm を紹介しておくのにとどめます。
イエスが救い主(メシア)であると宣言することは、一触即発の危険を伴う声明でした。イエスの敵がイエスを糾弾するのにはそれで十分でした。そして既に、王を詐称する者という旗印の下に参集しようとしている人たちは大勢居ました。しかし、このようなことをはるかに越えて、そのような役割はイエスに与えられた神のご意思ではありませんでした。イエスは、軍事的、あるいは政治的な救い主ではなく、またそうなることなどあり得なかったのです。
今日、 イエスを確認する
救い主としてのイエスとその役割を見きわめようとする取り組みは今日も続いています。ある人は、キリスト者一人一人が、そして教会全体が、エリヤのように組織、制度、国家政策に大胆に立ち向かうべきであると言います。それはエリヤが自分の役割と認識したやり方でした。このことは、列王記上の 17 章から 21 章を読めば明らかです。また、ある人はエレミヤのように、教会の中のイエスの世界は、人生の個人的、私的側面であると言います。はっきりしていることは、イエスは、そのどちらをも超えた次元でわたしたちの姿勢を追及し、こう尋ねることです。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロは、彼特有の性急さで、衝動的に「神からのメシアです。」と答えます。その答えは上記の二つの考え方(エリヤとエレミヤ)を包含し、またそれらを超える概念をわたしたちに与えます。救世主(メシア)は、完全に社会と個人の生活に入り込み、「公」と「私」の間に調和をもたらしました。
このイエスの質問に対するわたしたちの応答の質は、弟子としての資質を測る最良の物差しです。
イエスの背景と世界宣教に関する、確かな事実と真理を思い出してみましょう。それは、キリスト教が真に世界の教会となるために準備されていたものです。 1) イエスは、ユダヤの行政上の一部族に生まれました。祭司の民、レビ族の生まれでも、祭司の一族ツァドク(ダビデ・ソロモン時代の祭司《 2 Sam. 8:17 》)の生まれでもありませんでした。イエスは政治家ではありませんでした。 2) イエスが、政治的感覚を持っていたことは確かです。世界宣教は、政治との深い関わり合いなしに取り組めるものではありません。 3) イエスは、砂漠や、どこか遠くの村より、カペルナウムで一人前になりました。ガリラヤ湖の北西沿岸にあるご自分の町、そこは主要道路が通り、徴税人が居り、ローマ百人隊との関わりがありました。イエスにとってカペルナウムは、エルサレムと違い、心安らぐ場所でした。 4) イエスは、病気の人々、死にかけている人々のすべてと繋がり、罪人や社会の片隅に生きる人々のすべてと結びつきました。イエスはその生涯を通して真福八端を宣言し、聖書の正義を実践しました。真の正義とは、病気や障害のある人々、貧しい人々や飢えている人々と結びつくことです。しかし、イエスは、それ以外の人々もないがしろにはしませんでした。イエスは、貧しい人々、虐げられた人々ばかりでなく、金持ちや権力者たちとも共に食事をとりました。イエスは、すべの人々を包み込む真の精神を教えてくれます。 5) イエスが説いたのは、政治的な「ダビデの王国」ではなく、「神の王国」でした。イエスには、あらゆるものに訴えかけ、あらゆるものをご自分の王国の理想像に織り込む偉大な能力がありました。イエスはその生涯を通して、ひたすらイスラエルの希望の実現に努力しました。
モザイク画を継ぎ合わせる 昔のモザイク画を継ぎ合わせようとした経験があるなら、それが大変な努力を伴う骨の折れる仕事であることをご存知でしょう。聖地での聖書研究の期間中、わたしは、何度か考古学の探検旅行に参加しました。そこでは、昔のモザイク画の発見もありました。画像全体を組み合わせるには、小さな破片の一つ一つがすべて重要です。それと同じように、今日の福音の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 ( ルカ 9:20 ) というイエスの質問に答えようとするとき、わたしたちは、壮大なモザイク画を継ぎ合わせるようにと招かれているのです。
今日の福音には、イエスが他者のためにその 命 を投げ出して初めて救い主(メシア)になると記されています。そして、わたしもまた、他者のためにいのちを投げ出して初めてイエスのようになれるのです。イエスの真の姿は、神のご意思を行うときに見出されます。ルカはその同じ原理を、弟子であるわたしたちにも当てはめます。わたしたちの真の姿と目標とは、自己を超越するときに見出されます。 これは、「 わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 」 ( ルカ 9:23 ) と言うように、わたしたちにとって日々の挑戦です。キリストために自分のいのちを失うなら、それを見出すのです。
トール・ヴェルガタ 2000 の思い出
イエスの本性についてのもっとも力強く、また忘れられない黙想の一つ、それは Great Jubilee のワールド・ユース・デーの期間中、 2000 年 8 月 19 日の夜、トール・ヴェルガタで行われた徹夜の祈りのときのことです。私は、あの暑い夜のその瞬間を決して忘れないでしょう。教皇ヨハネ・パウロ 2 世が、ただ一つの大切な質問、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」を投げかけたとき、百万人を超える若者たちの群衆は静まりかえりました。
老齢の教皇は、若い友人たちに、次のような言葉で話しかけました。 その言葉は、彼の前に拡がる黙示的光景の上に鳴り響きました。 「この対話の意味は何でしょうか? 何故イエスは、人々が自分のことを何と言っているかを知りたいのでしょうか? 何故イエスは、弟子たちが自分のことを何者だと言うのか知りたいのでしょうか? イエスが求めているのは、弟子たちが、自分の思いと心の中に隠れているものに気付いて、自分の信念を声に出すことです。しかし、それと同時にイエスは、弟子たちが口にする判断が彼らの力によるものだけではないことも分かっています。それは、信仰の恵みによって、神が弟子たちの心に注ぎ込んだものの現れだからです。
教皇は続けました。「 これこそが、信仰とは何かを語るものです。 それは、生ける神の御言葉への、理性ある自由な人格の応えです。イエスが尋ねた質問と、弟子たち、そして最後にペトロが応じた答えは、キリストに最も近い人たちの信仰の成熟度を試す一種の試験なのです。」
「幸福を夢見るとき、あなたたちが探し求めるのは、実際にはイエスです。あなたたちが何ごとにも満足できない時に、彼はあなたを待っているのです。イエスは、それほどに惹かれる美しい方です。
彼こそは、全き渇きをもってあなたがたを奮い立たせ、妥協を許さない方です。彼こそは、いつわりの生き方の仮面を取り去るよう促す方です。彼こそが、あなたの心の中の最も誠実な「選択」を知っている方です。それは他の人々にとっては困難な選択です。 生涯の中で何か偉大なことをしようという望みを起こさせ、理想を貫く意志と、平凡に甘んじることへの拒絶を喚起して下さるのはイエスです。自分自身と社会をより良いものにするために、謙遜と忍耐の心を持ち、この世界を一層人間的で兄弟愛に満ちたものにする勇気を、奮い起して下さる方こそイエスです。」
教皇はこの記憶に残るスピーチをこう結びました。「親愛なる皆さん、第三の千年期の夜明けに当たり、わたしは、あなたがたの中に「夜明けの見張り」
( cf.
イザヤ
21:11-12 ) を見ます。過ぎ去ろうとしているこの世紀の中で、皆さんのような若い人たちが、憎しみの方法を学ぶ巨大な集いに呼び集められました。その若者たちは、互いに戦うために送りだされました。キリスト者の希望に取って代わろうとする、さまざまな神不在のメシア的システムが、ほんとうに恐ろしいものであることが分かりました。
今日、あなたがたは、新しい千年期には自分を暴力と破壊の道具にしないこと、平和を擁護すること、必要なときには自ら犠牲を払うことを宣言するために集っています。人々が飢え死にし、教育を受けられず、仕事の無いような世界から逃げ出さないで下さい。発達のすべての段階にある生命を守ってください。誰もが一層生きがいを持てる世界を作るために全力を尽くして下さい。」
わたしたちにとって、このイエスとはだれなのでしょうか? これこそが、ほんとうに大切な唯一つの質問なのです。
聖書朗読
ゼカリヤ 12:10-11, 13:1 : (主は言われる) 12:10 わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。 12:11 その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる。 13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。
ガラテヤ 3:26-29 : (奴隷ではなく神の子である) 3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
ルカ 9:18-24 : (ペトロ、信仰を言い表す) 9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
(イエス、死と復活を予告する) 9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
The Only Question That Matters
Biblical Reflection for 12th Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JUNE 15, 2010 (
Zenit.org
) .-
The second half of Luke's Gospel is one great pilgrimage to Jerusalem, the city
of destiny. For Luke, the Christian journey is a joyous way illuminated by the
graciousness of the Savior of the world.
Along that way, Jesus asks a very important question of his disciples. "Who do you say that I am?" is the same question asked of every disciple in every age. From this moment onward in today's Gospel, Jesus is on his way to the cross.
Everything he says and does is another step toward Golgotha -- where he will demonstrate perfect obedience, perfect love and total self-giving.
The incident in today's Gospel (
Luke 9:18-24
)
is based on Mark 8:27-33, but Luke has eliminated Peter's refusal to accept
Jesus as suffering Son of Man (
Mark 8:32
) ,
and the rebuke of Peter by Jesus (
Mark 8:33
) .
Elsewhere in the Gospel, Luke softens the harsh portrait of Peter and the other
apostles found in his Marcan source (
Luke 22:39-46
) ,
which similarly lacks a rebuke of Peter that occurs in the source, Mark 14:37-38.
The disciples list a whole series of labels that people have applied to Jesus.
And these names reveal all the different expectations held about him. Some thought
of him as an Elijah, working toward a real confrontation with the powers that
be. Some saw him as one of the ancient prophets.
When Jesus asks his disciples of their perception of him, he asks what people
are saying about him. How do they see his work? Who is he in their minds? Probably
taken aback by the question, the disciples dredge their memories for overheard
remarks, snatches of shared conversation, opinions circulating in the fishing
towns of the lake area. Jesus himself is aware of some of this.
The replies of the disciples are varied, as are those of each of us today when Jesus, through someone else's lips, asks us the same question, and with increasing frequency and intensity.
The concept of "Messiah" in Judaism
There was no single concept of "Messiah" in Judaism.
The idea of Messiah "anointed one" as an ideal king descended from David is the earliest known to us, but in the Maccabaean period ( about 163-63 B.C. ) the Testaments of the Twelve Patriarchs, documents preserved to us in Greek, give evidence of belief in a Messiah from the tribe of Levi, to which the Maccabaean family belonged.
The Dead Sea Scrolls contain various ideas: a priestly Messiah and the ( lay ) Messiah of Israel ( 1QSa ) ; a prophet like Moses ( Deuteronomy 18:18-19 ) who is also the star out of Jacob ( Numbers 23:15-17 ) ( 4Q175 ) ; but also the Davidic Messiah ( 4Q174 ) . Melchizedek is a deliverer also, but is not called Messiah ( 11QMelch ) .
To proclaim Jesus as the Messiah was a loaded and dangerous statement. It was
all that Jesus' enemies needed to use against him, and already there were many
who were ready to enlist under the banner of a royal pretender. But, far more
than this, such a role was not Jesus' destiny. He would not and could not be
that kind of militaristic or political Messiah.
Identifying Jesus Today
The struggle to identify Jesus and his role as Messiah continues today. Some
say the individual Christian and the whole Church should be Elijah figures,
confronting systems, institutions, national policies. That was the way Elijah
saw his task. We only need to read the First Book of Kings (
Chapters 17
to 21 )
to confirm this fact. Some say, like Jeremiah, that the domain of Christ, through
his Church, is the personal and private side of life. Significantly, Jesus probes
beyond both and asks, "You, who do you say I am?"
In Peter's answer, "You are Messiah," blurted out with his typical impetuosity, we are given a concept that involves both of the above ideas and goes beyond them. The Messiah came into society, and into individual lives, in a total way, reconciling the distinction between public and private. The quality of our response to this question is the best gauge of the quality of our discipleship.
Let
us remember certain facts and truths about Jesus' background and world mission
that have prepared for Christianity to be truly a world Church:
1 )
Jesus was born of political tribe of Judah –
neither the
priestly tribe of Levi nor the priestly family of Zaddok. Jesus was not a politician.
2 ) Jesus did have a sense of politics. World mission cannot be undertaken independently without serious interaction with politics.
3 ) Jesus established himself at Capernaum rather than in the desert or in some remote village. In his town along the northwest shore of the Sea of Galilee, there was a main road, tax collectors, and relations with the Roman centurion. Jesus was very much at home in Capernaum, not in Jerusalem.
4 ) Jesus bonded himself with all those who were sick and dying, with sinners, and those living on the fringes of society. Through his life, Jesus puts biblical justice into practice in proclaiming the Beatitudes. Authentic justice is a bonding of one's self with the sick, the disabled, the poor and the hungry. But he did not neglect others as well. He dined with the rich and the mighty as well as with the poor and downtrodden. He teaches us an authentic spirit of inclusion of all people.
5 ) Jesus did not preach the political kingdom of David but the Kingdom of God. He had a great ability to appeal to everything and incorporate everything into his vision of kingdom. During his lifetime - he only tried to fulfill the hopes of Israel.
Piecing
together the mosaic
If you have ever tried to piece together an ancient mosaic, you would know of
the painstaking work involved in such an endeavor. During my biblical studies
in the Holy Land, I participated in several archeological expeditions involving
the discovery of ancient mosaics. Every little fragment matters in putting the
whole picture together. In a similar way, when we attempt to answer Jesus' question
in today's Gospel, "But who do you say that I am?" (
Luke 9:20
) ,
we are being invited to piece together a magnificent mosaic
In today's Gospel, Jesus will be the Messiah only when he lays down his life for others. And I will be like Jesus only when I lay down my life for others. Jesus' identity is found in doing the will of God. Luke applies the same principle to us as disciples. Our true identity and purpose is found in going beyond ourselves. This is a daily task, "If any want to become my followers, let them deny themselves and take up their cross daily and follow me" ( Luke 9:23 ) . If I lose my life for Christ, I find it!
Remembering
Tor Vergata 2000
One of the most powerful and memorable reflections on Jesus' identity took place
on the night of August 19, 2000 during the evening prayer vigil at Tor Vergata
on Rome's outskirts during World Youth Day of the Great Jubilee. I shall never
forget that hot night, when silence came over the crowd of over one million
young people as Pope John Paul II asked them the only question that matters:
"Who do you say that I am?"
The elderly Pope addressed his young friends with those words that rang out over the seeming apocalyptic scene before him: "What is the meaning of this dialogue? Why does Jesus want to know what people think about him? Why does he want to know what his disciples think about him? Jesus wants his disciples to become aware of what is hidden in their own minds and hearts and to give voice to their conviction. At the same time, however, he knows that the judgment they will express will not be theirs alone, because it will reveal what God has poured into their hearts by the grace of faith."
The Holy Father continued: "This is what faith is all about! It is the response of the rational and free human person to the word of the living God. The questions that Jesus asks, the answers given by the Apostles, and finally by Simon Peter, are a kind of examination on the maturity of the faith of those who are closest to Christ."
"It is
Jesus in fact," the Pontiff continued, "that you seek when you dream
of happiness; he is waiting for you when nothing else you find satisfies you;
he is the beauty to which you are so attracted; it
is he who provokes you with that thirst for fullness that will not let you settle
for compromise; it is he who urges you to shed the masks of a false life; it
is he who reads in your hearts your most ge nuine
choices, the choices that others try to stifle.
It is Jesus who stirs in you the desire to do something great with your lives, the will to follow an ideal, the refusal to allow yourselves to be grounded down by mediocrity, the courage to commit yourselves humbly and patiently to improving yourselves and society, making the world more human and more fraternal."
He concluded his memorable address with these words: "Dear friends, at the dawn of the Third Millennium I see in you the "morning watchmen" ( cf. Is 21:11-12 ) . In the course of the century now past young people like you were summoned to huge gatherings to learn the ways of hatred; they were sent to fight against one another. The various godless messianic systems that tried to take the place of Christian hope have shown themselves to be truly horrendous.
Today you have come together to declare that in the new century you will not let yourselves be made into tools of violence and destruction; you will defend peace, paying the price in your person if need be. You will not resign yourselves to a world where other human beings die of hunger, remain illiterate and have no work. You will defend life at every moment of its development; you will strive with all your strength to make this earth ever more livable for all people."
Who is this Jesus for us? This is indeed the only question that really matters.