真の赦しの結果としての愛
年間第 11 主日 聖書黙想 2010/6/13 トマス・ロシカ師
福音書全体をとおして、イエスは罪人と食事をし、機会あるごとに弟子であることと聖性についての大切な教えを説きます。
いつもそうでしたが、イエスがそのような人々の友となり、食事を共にしたことは、イエスの敵たち、特に当時の宗教的指導者たちの怒りを買いました。彼らはイエスに対して、「罪人の家の客になっている。」とか、「ごらん!徴税人や売春婦たちと一緒に食事をしている。」などとささやきました。しかし、他の人の目には罪人、のけ者、憎まれ嫌われる下層民としか見えない人々のうちに、イエスは人間を見ていました。彼らは、日陰にちぢこまり、いつも自分の失敗から抜け出せず、必死にはい上がろうともがき、その不公平な境遇を何とかしようとしても出来ない人々でした。
罪人との和解をイエスがはっきりと示していると思われるのは、多くの場合、食事の場面です。ここで思い起こさずにはいられない幾つかの物語があります。それは、ザカリアの物語を始めとし、レビ、涙でイエスの足を洗った婦人、エマオへの道で目を開かれた弟子たち、そして湖畔でのペトロの物語です。とても崇高な場面としてすぐに頭に浮かぶ最後の晩餐も、実は罪人と分かち合う食事でした。イエスの食卓には、(イエスを裏切る)ユダ、(イエスを否む)ペトロ、そして言い争う頭の鈍い弟子たちがいました。初代教会は、イエスと食卓を共にした人々の危うさを想起することに聖体理解の基礎を置きました。
祝宴に闖入した女性 罪深い女を赦すという今日の福音物語( 7:36-50 )では、あるファリサイ派の人物が、イエスを預言者ではないかと疑い、自分の家の祝宴に招きます。しかし、彼は独善的なために神の赦しを得られず、従ってイエスに示す愛も少なくなります。一方、罪深い女は神への忠実を表明し、それによって罪の赦しを求めるようにと導かれます。そして、女は多くの罪を赦されたので、今度はイエスに、満ちあふれるほどの愛を示します。このエピソード全体が、赦しと愛の関係についての説得力のある教えとなっています。この名もない女は、なぜ人々のあざけりや悪口を覚悟の上でイエスに近づき、香油を塗ったのでしょうか。彼女の行為の動機は一つです。それは、イエスへの愛であり、赦しへの感謝です。彼女は、ユダヤ人の女性が人前では決してしない行動をとりました。彼女は髪を解き、自分の涙でイエスを聖別し(油を塗り)ました。女はまた、愛だけがなし得ることをしました。彼女は、最も貴重なものを持参し、そのすべてをイエスのために使い果たしました。彼女の愛は、計算抜きで、惜しみなく、限りなく与えるものでした。
イエスは、ご自分が見た女の行いを詳しく語ります ( 44-46 節 ) 。女のしたことを数え上げたのは、シモンがそうしなかったことを責めるためではありません。シモンは、あくまで女を罪人とする見方を捨てないのでしょうか? それとも、彼女の行為の意味を考え直すことができるでしょうか? 彼が自分の見たことに別の評価を与えることができないでいるとしても、イエスはシモンに、見たままを見るよう説得しようとします。女は多くの罪を赦され、今度は、大きな愛を示しています ( 47-48 節 ) 。 この女性は、惜しみなく愛を表したから赦されたのではありません。むしろ、自分が赦されたという体験が、愛の行為に結びついたのです。 47 節は、それをみごとに要約しています。 「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」(ギリシャ語の直訳は「彼女の多くの罪は赦されている。それは彼女が多く愛すのを見るからである。」) 彼女の愛は、彼女が赦されたことの結果です。これはまた、ルカ 7:41-43 のたとえ話が求める意味でもあります。
愛は多くの罪を覆う
わたしたちの愛は、惜しみないものでしょうか、それともけちけちしたものでしょうか? イエスは、赦され、清められた心から大きな愛が生まれるとはっきり語ります。
「愛は多くの罪を覆う」(ペトロの手紙 1 , 4:8 )、「愛は神から出るもので(すから)」(ヨハネの手紙 1 , 4:7 訳注:新共同訳では4:8 )。
この女の惜しみない愛の表現は、彼女が神の寵愛に気づいたことの証明です。シモンと、この評判の良くない女性の、全く対照的な態度は、わたしたちがどのようにして神の憐れみを受け入れるか、あるいは拒絶するかを、教えてくれます。シモンは、自身が正しいファリサイ人だと考え、愛や憐れみの必要を全く感じていませんでした。彼が、自分自身に満足していることは、神の恵みの必要を認める妨げとなったのです。
罪深い女は、イエス(の招き)にふさわしく応じる人の好例であり、また、その行為がイエスご自身の行動を映し出す人のよい例です。この女の物語がシモンにだけでなく、わたしたちにも問いかけている重要な質問は、「この女を見ないか?」(ルカ 7 : 14 )です。この女とその行為(の意味)を正しく見られないということは、イエスとその本質を正しく理解していないということです。この物語の続きは、自由に解釈することができます。シモンのものの見方、理解、視野が正されるかも知れないという希望は残されています。それでは、わたしたちはどうでしょうか?
クリスチャンの和解
今日の福音は、キリスト教の伝統における「赦しと和解」の神秘と務めを黙想するよう、わたしたちを招いています。キリスト者は、どのような争いにおいても、敵対する勢力の一方に加担するのを避け、和解をもたらさなければならないもの、という誤解が一般にはびこっています。
この誤解が、和解を、争いのすべてに適用しなければならない絶対原則にしてしまっています。片方が正しく、他方が間違っている争いもあり、また一方が不当な迫害者で、他方が不当な抑圧を受けていると思われる場合もあります。わたしたちはキリスト者として、善と悪、正義と不正義の和解を求められることはありません。むしろ、悪と不正義と罪を無くことを求められています。
次に、いつも中立でいることが可能であるとは限りません。不正義と抑圧による争いの場合、中立は全く不可能です。もしも抑圧される人々の味方にならないなら、最終的には抑圧者の味方になってしまいます。そのような場合に「両者をひとつにする」ことは、現状をそのままにすることになり、結局は抑圧者に有利に働きます。それは争いの本質を隠し、抑圧されている人々を黙らせて受け身のままにし、正義を欠いた、偽りとも言える和解をもたらすからです。不正義は続き、緊張と争いが緩和されたのだから正義などどうでもいいと誰もが思わされるようになってしまいます。
3番目は一般的に言われていることですが、あらゆる争いに際して、キリスト者は常に「中庸」を求めるべきだという考え方です。闘争と対立を嫌う人々は、それが非暴力の場合でも、いつも変化の必要を信じています。その人たちは、未来についての非キリスト教的な悲観主義や、真のキリスト教的希望の欠如を慎重に隠します。あるいは、不正義と争いからの、一種の現実逃避を正当化するために、和解へのキリスト教的な配慮を口実にします。
性的虐待の危機における赦し
今日のテーマは、教会に大きな影響を及ぼしている性的虐待の危機と、その世界的蔓延に関して、
まさに時宜を得たものです。全世界は、この数ヶ月にわたって、司牧のリーダーたちの罪と失敗を耳にしてきました。
ここで、オーストラリアの、キャンベラとゴールバーン司教区のマーク・コールリッジ大司教が最近記した、優れた司牧的書簡を紹介しましょう。
( 2010 年の 聖霊降臨祭書簡「顔を合わせ、声に耳を傾け」 " Seeing the Faces, Hearing the Voices ," より。 )
「…もう一つの要因は、犯罪と処罰よりも、むしろ罪と赦しの観点から物事を見る傾向のある、カトリック教会の 赦し の文化にありました。しかし、聖職者による若者への性的虐待の場合、わたしたちは犯罪を取り扱っているのであり、教会は、一方では(霊的な)罪と赦しの間で、また一方では(社会的な)犯罪と処罰の間で、収束点を見出すべく苦闘してきました。」
「確かに、罪は赦されなければなりません。しかし犯罪が処罰されなければならないことも確かです。憐れみも正義も、共に尊重されなければならず、しかも収束の方向に向かって生かされなければなりません。この問題は、もっと広い意味で、『教会は社会との関係をどう考えるか』
という、より大きな課題と関わっています。わたしたちは『この世に居るけれども、この世に属するものではない』のです。 しかし、今この場において、それは正確には何を意味するのでしょうか。神の裁きと人間の裁きの関係という大きな問題もあります。教会は、最終審判は神のものであって、人間のものではないと主張しています。」
「しかし、『犯罪と処罰』の論理にそって行動するとき、それ(上記の主張)をどのように人間の審判に必要なことに当てはめるのでしょうか。わたしたちは、そのような問題に対する答えを出すのに遅きに失し、不器用で、時に間違いも犯しました。」
キリスト者の和解に関するそのような誤りは、単に誤解として片付けられるものではなく、苦しんでいる人々や差別されている人々への、真の愛と同情の欠如、あるいは深刻な争いの中で本当に起こっていることへの認識の欠落に由来するのです。あらゆる争いの場で、実体のない中立を追求することは、究極的には抑圧者側の味方になることにつながります。これは、イエスがその生涯と活動を通して教えた「和解と赦し」とは違うものです。
ファリサイ派の人々と、いわゆる「罪人たち」との間のもめ事で、イエスはファリサイ派と対立し、罪人、売春婦、徴税人たちの側につきました。イエスは、ファリサイ派や金持ちの人たちを曖昧さの全くない言葉で強く非難し、罪人たちを赦し、貧しい人々を祝福しました。イエスは、和解や一致による偽りの平和のために権威の側と妥協しようとはしませんでした。
神が望まれる和解、平和、赦しは、真理と正義と愛とをその礎(いしずえ)としているのです。
聖書朗読
2 サムエル 12:7-10, 13: (その日)ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』112:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」
ガラテア 2:16, 19-21; (皆さん)人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちはキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
ルカ 7:36-8:3 or 7:36-50: 「罪深い女を赦す」 7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
Love as Consequence of Authentic Forgiveness
Biblical Reflection for 11th Sunday in Ordinary Time C, By Father Thomas Rosica, CSB
TORONTO, JUNE 8, 2010 ( Zenit.org ) .- Throughout the Gospels, Jesus dines with sinners and takes the opportunity to teach some very important lessons about discipleship and holiness.
As with so many things he did, Jesus' befriending such types of people and eating with them angered his opponents, especially the religious leaders of his day. They murmured against him: "He has gone in to be a guest of a man who is a sinner," or "Look at him who eats with tax-collectors and prostitutes!" But where others saw only sinners, people on the fringe, public pariahs to be hated and isolated, Jesus saw human beings cowering in the shadows, often trapped in their own failure, desperately trying to be something better, awkwardly trying to make amends for a life of injustice.
It was so often at meals that Jesus seemed to show most clearly that he reconciled sinners. How can we not recall the stories of Zacchaeus, Levi, the woman who washed Jesus' feet with her tears, the disillusioned disciples at Emmaus, and Peter at the lakeside? Even the Last Supper , which we think of instinctively as a very sublime occasion, was a meal shared with sinners. Jesus' table includes Judas ( his betrayer ) , Peter ( who denied him ) , and the squabbling and obtuse disciples. The early Church founded its understanding of the Eucharist on the basis of the dangerous memory of Jesus' table fellowship.
The woman party crasher
In today's Gospel story of the pardoning of the sinful woman ( 7:36-50 ) , a Pharisee, suspecting Jesus to be a prophet, invites Jesus to a festive banquet in his house, but the Pharisee's self-righteousness leads to little forgiveness by God and consequently little love shown toward Jesus. The sinful woman, on the other hand, manifests a faith in God that has led her to seek forgiveness for her sins, and because so much was forgiven, she now overwhelms Jesus with her display of love. The whole episode is a powerful lesson on the relation between forgiveness and love.
Why did this nameless woman approach Jesus and anoint him at the risk of ridicule and abuse by others? Her action was motivated by one thing: her love for Jesus and her gratitude for his forgiveness. She did something a Jewish woman would never do in public: She loosed her hair and anointed Jesus with her tears. She also did something that only love can do: She took the most precious thing she had and spent it all on Jesus. Her love was not calculated but lavish and extravagant.
Jesus recounts what he saw the woman do ( vv 44-46 ) . The purpose of this recitation is not so much to accuse Simon for what he did not do. Does Simon persist in seeing the woman as a sinner, or is he able to reinterpret her actions? If Simon is still not able to come up with a different evaluation of what he saw, Jesus tries to persuade Simon to see as he sees: She has been forgiven much and now shows great love ( vv 47-48 ) .
This woman is not forgiven because of her lavish demonstrations of love; rather, the loving actions follow from her experience of having been forgiven. Verse 47 sums it up beautifully: "Her many sins have been forgiven; hence, she has shown great love" ( literally, "her many sins have been forgiven, seeing that she has loved much." ) Her love is the consequence of her forgiveness. This is also the meaning demanded by the parable in Luke 7:41-43.
Love covers a multitude of sins
Is our love extravagant or miserly? Jesus makes clear that great love springs from a heart forgiven and cleansed. "Love covers a multitude of sins" ( 1 Peter 4:8 ) , "for love is of God" ( 1 John 4:7 ) .
The woman's lavish expression of love was proof that she had found favor with God. The stark contrast of attitudes between Simon and the woman of ill repute, demonstrate how we can either accept or reject God's mercy. Simon, who regarded himself as an upright Pharisee, felt no need for love or mercy. His self-sufficiency kept him from acknowledging his need for God's grace.
The sinful woman exemplifies one who responds properly to Jesus, and whose actions mirror his own. The key question her story poses, not only to Simon, but to us is, "Do you see this woman?" Not to see the woman and her actions properly is not to perceive Jesus and his identity correctly. The story is open-ended: there is yet hope that Simon's perception, understanding and vision can be corrected. What about ours?
Christian
reconciliation
Today's Gospel invites us to reflect on the mystery and obligation of forgiveness
and reconciliation in our Christian tradition. There is a widespread misunderstanding
that in any conflict a Christian should be a peacemaker who avoids taking sides
and tries to bring about a reconciliation between the opposing forces.
This makes reconciliation an absolute principle that must be applied in all cases of conflict. In some conflicts one side is right and the other side is wrong, one side is being unjust and oppressive and the other is suggesting injustice and oppression. As Christians, we are never asked to reconcile good and evil, justice and injustice. Rather we are to do away with evil, injustice and sin.
Second, neutrality is not always possible, and in cases of conflict due to injustice and oppression neutrality is totally impossible. If we do not take sides with the oppressed, then we end up taking sides with the oppressor. "Bringing the two sides together" in such cases can end up being beneficial to the oppressor, because it enables the status quo to be maintained; it hides the true nature of the conflict, keeps the oppressed quiet and passive and it brings about a kind of false reconciliation without justice. The injustice continues and everybody is made to feel that the injustice does not matter because the tension and conflict have been reduced.
Third is the commonly held view that Christians should always seek a "middle way" in every dispute. Those who are afraid of conflict or confrontation, even when it is nonviolent, are usually convinced of the need for change. Their caution hides an un-Christian pessimism about the future, a lack of authentic, Christian hope. Or they use the Christian concern for reconciliation to justify a form of escapism from the realities of injustice and conflict.
Forgiveness
in the sexual abuse crisis
This topic was addressed in a very timely manner regarding the sexual abuse
crisis or pandemic that has touched the Church very deeply. The entire world
has heard about the sins and failings of pastoral leaders over the past months.
I draw your attention to the recent, excellent pastoral letter of Archbishop
Mark Coleridge, of the Diocese of Canberra and Goulburn in Australia. In his
Pentecost 2010 letter on Sexual Abuse of the Young in the Catholic Church, entitled
" Seeing
the Faces, Hearing the Voices ," Archbishop Coleridge writes:
"Another factor was the Catholic Church's culture of forgiveness which tends to view things in terms of sin and forgiveness rather than crime and punishment.
But in the case of clerical abuse of the young, we are dealing with crime, and the Church has struggled to find the point of convergence between sin and forgiveness on the one hand and crime and punishment on the other.
"True, sin must be forgiven, but so too must crime be punished. Both mercy and justice must run their course, and do so in a way that converges. This relates to larger questions of how the Church sees her relationship with society more generally. We are "in the world but not of it": but what precisely does that mean in the here and now? There is also the large question of the relationship between divine and human judgment. The Church insists that it is to God, not to human beings, that final judgment belongs.
"Yet how does that fit with the need for human judgment when we move within the logic of crime and punishment? We have been slow and clumsy, even at times culpable, in shaping our answer to such questions."
Such mistakes about Christian reconciliation are not simply a matter of misunderstandings, but come from a lack of real love and compassion for those who are suffering or who have been victimized, or from a lack of appreciation of what is really happening in serious conflicts. The pursuit of an illusory neutrality in every conflict is ultimately a way of siding with the oppressor. This is not the reconciliation and forgiveness that Jesus taught through his life and ministry.
In the conflict between Pharisees and the so-called "sinners," Jesus sided with the sinners, prostitutes and tax collectors against the Pharisees. And in the conflict between the rich and the poor, he sided with the poor. Jesus condemns the Pharisees and the rich in no uncertain terms, and he forgives the sinners and blesses the poor. Jesus makes no attempt to compromise with the authorities for the sake of a false peace of reconciliation or unity.
The reconciliation, peace and forgiveness that God wants are based on truth, justice and love.